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生まれてくる子もいないのに|詩「波音はどこから」

   波音はどこから
                  文月悠光

意識が海ならば、身体は舟。
小舟に積まれる石は 日に日にあふれ、
存在よりも、はるかに重くなっていた。
海の底へ荷物を沈めようとするたび、
荒波に押し返されて はたと気がつく。
この舟を降りることはできない。
女体を放棄できない。
私の了解し得ないものが、
私の奥でひそかに巣食う。
 
小綺麗な待合室で、淡いピンク色のパンフレットを手渡された。「三十歳を過ぎたら、超音波検査とマンモグラフィ併せて受けることをお勧めします」。問診票に記入した「二十九歳十ヶ月」は、おおよそ三十歳にカウントしてよいだろう。
検査着の紐の結び方を気にしつつ、看護師の怒涛の説明を受ける。話の速度に追いつけなくて「マンモは初めてなんです」と漏らせば、「だから今説明してる次第です」と貼りついた笑みでぴしゃりと返される。「力抜きましょうね」。彼女は背後にぴったりとついて、私の脇からわずかな肉を胸に寄せながら、耳元で告げた。
「痛いでしょうけど、勝手に動かないで」
 
子宮頸がん検査を受けに行った二年前、検査室に鎮座する椅子を見て冷や汗が出た。あまりに堂々と置かれていたので、有無を言わさぬ雰囲気に飲まれて「これが初めて」とは言えなかった。正直、座ること自体が一種の拷問に思えた。この椅子が前時代的なのか、検査の場でこれを恥じる自分の感覚が前時代的なのか。混乱しながら、椅子が要請する姿勢に身をあずけた。
途端に、ヒヤリと冷たい金属のようなものをねじ込まれる。予告のない痛みと異物の侵入を、身体は全力で拒み、押し返した。「力を抜いてください」「力を抜いて」「まだ力が」。指示が機械的に繰り返される。患者番号と名前を照合され、扉から扉へ検査は滞りなく進む。疼く身体で歩いた総合病院の長い廊下。子宮の出口はどこですか。痛みを無視されること。それは私の性別とどう関係しているの。
 
診察室では、マンモグラフィの結果が白黒のレントゲン写真で貼り出された。左右対称で並ぶその横顔は、互いにそっぽを向き、どちらも「人体の一部です」という白々しい顔をしている。
「いたって正常。問題ありません」と男性医師。並行二重の目つきが鋭い。なるほど。検査中の乳房(ちぶさ)は、性的な対象にならない。小さすぎるとか、大きすぎるとか、離れてるとか、色がどうとか、ここでは問題にならない。ならば恥じらうこともない。
 
「比較として、がん患者のレントゲンを見せます」
死んで腐敗した細胞が点々と集まる様子は、雪の結晶あるいは、しぼんだ綿菓子に見えた。発見が遅れると、二週間ほどで瞬く間に成長する。よって自ら乳を触って、しこりができていないか確かめることが大事、と医師は説く。
 
「簡単です。ハンバーグこねたことあるね?」
ハンバーグ、と拍子抜けしつつも
指示通り、検査台の上で仰向けに横たわる。
彼は私の手首をとり、触診を手ほどきした。
乳房を両手ではさみ、横長に潰しながら
スライドさせる。指に柔らかな反発を感じる。
「ハンバーグこねるときってこんなもんでしょ?
力込めないでしょ?」
思わぬ力説ぶりに、くすりと笑う。
ジュージューと肉汁が音を立てる検査台で
私は裏も表もくまなく焼かれていく。
 
レシピは仕上げに入る。胸部にぬるいゼリーをさっと塗られ、超音波端末機の白いコードを伝って、内部の情報が頭上のモニターに映し出された。ぬるぬるとした動きに連動して、映像はよどみなく移動する。機械と身体が繋がっているかのような生々しさに息を飲む。
「乳腺が途切れていると、腫瘍が疑われるんだけど……」
 
私は驚いてモニターを凝視した。
白い腺が切れ目なく、幾重も折り重なって
脈々とこの胸の内部をとりまいていた。
それは 雪を被った山脈が連なる姿、
樹木の年輪にも、
寄せてくる波のようにも————
そして くっきりとした海になった。
私は舟からは見えないはずの、
海の底を初めて覗いた。
 
波音はどこから響いてくるのか。
いまも息づくこの命のため、
生まれてくる子もいないのに
白い波を途切れさせずに、
乳房は私を守ってきた。
 
かつて心もとない膨らみを抱いて、
揺れる水面を見下ろしていた夏。
少女たちが腕を組んでつくる波音が
すぐ近くで、にぎやかに鳴り響いていた。
軽々と飛び込んで、その輪に加わりたかった。
ほんとうは舟でもなく、海でもなく
一体となって漂い、ひとり辿りついた。
誰と手を繋ぐこともなくなった私にも
ふたつの波は絶え間なく、
この両胸へ寄せつづけた。


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