愛は見えるカタチで/オオヤケアキヒロ

動画で見たに過ぎないのだが、いつかの凱旋MCバトルでの呂布カルマがMU-TONに勝って優勝した後に
「愛を現金に見せてくれよ」
 と物販の告知をしていた。

呂布カルマはなかなか歯に衣を着せない、時として突飛な発言がちょくちょくあり、小さく反発が集まる事もあるのだが、意外と大ごとにはならない。
実際のところ正論が多い事もあるが、何より楽曲やMCバトルで発言する内容も含めて本人が堂々としていることが大きいと思うし、その上でヒップホップのファンから見るとそれどうなの?と思われそうな仕事や表現をしても呂布カルマとして成立しているので、一言で言えばブレることがほとんど見受けられないからだと思う。

この発言自体は何もそういう突飛だったり過激なことを言っているわけではなく、メイクマネーをポジティブに捉えるヒップホップらしい物販の告知としてとても気の利いた言い回しだと思うのだが、昭和の最後に生まれた古い人間だからかエンターテイメントにおいてお金の話をするのは結構勇気がいるというか、やや好まれない傾向の話題であるという自分の中の感覚を再認識した発言でもある。

というわけで、今回のテーマは呂布カルマについてではないのだが、呂布も色んな媒体で少なからず触れているテーマである。

一言で言えば愛とお金の話である。

私オオヤケアキヒロは病的な浪費家である。私生活についての言い訳はしたくないのだが、そもそも物欲自体が相当強い事もあってストレスが消費に向かう。
結果、過去のツケとして毎月結構な支払いに追われている。小説は一発逆転狙いなところがあるのも事実だ。
きっと誰しもだとは思うが、お金さえあればもっと健康な生活が出来ると信じている部分も正直大きい。から好きな事で稼ぐというありがちな幻想を抱いているのも事実である。
しかし、お金に関しての理想を具体的に言えば、
⦅そりゃあればある方が絶対的に良いけど、出所がクリーンでその額に理由がないと安心できない⦆
 と言うのが一番リアルな所ではないだろうか?
自分はまだ執筆活動で収入と言えるだけのものはない。少なくとも支払いを全部クリーンにして、小説だけで今程度の生活が出来るようになれば個人的には十分に成功だと思っているが、見聞きする現実の話も自分の実力もそんなに夢を見れるほど甘くはない。周りを見回していても私以上の才能、経験、活動履歴、カッコいい作品がある人は沢山いるのだが、彼らがアートを職業にできているかと言えばそうでもない。
いつの世でもどんなジャンルでもカッコいい作品を作っている人にはやっぱり相応の報いがあって欲しいのは本音だし、自分もそうありたいのもまた事実である。

日本では芸術は軽視されがちと言われる昨今だ。
長期育成という概念が希薄な現代社会では産業として成り立ち難い側面は事実として存在すると思う。あくまで産業や経済で考えると、問題は受容する側、言ってみればお客さんの方なのでは無いかな、と思わないでもない。
実際のところどんなジャンルでも好きなものに対して知識や経験が半端じゃ無い人というのは必ずいるわけなのだが、ある程度の水準に達して来ると感性だけでは理解が出来ない部分というのが生じてくる。

食だとか原始的なところでもそうで、美食と言われるものは純粋な美味というよりは口の中で起こる化学反応じみた機微を受容できないと高い金出したのに対して旨くなかった、という感想に陥りがちだ。
健康問題に関しても動物にすぎないのにもはや自然から大きく離れている我々は本能的に欲求を満たす食事をしがちだが、そもそも肉食動物では無いので体が疲労している時に加熱してない肉を食うと逆に負担がかかってしんどかったりするので、まずは温野菜やお粥などが最適であったりする。
つまり、食一つ取っても、正しく栄養を摂取するためにも、技巧や素材を楽しむためにも、ある程度からは正しい知識が必要になってくる。
そうでなければ結局カロリーがあって味が濃い料理だけが美味しいということになりかねない。
ちなみにオオヤケはジャンクフード大好きです。二郎系食いたい。

繰り返しになるが、好き嫌いや個人の感覚とはまた別の所に、ある程度の基準や模範解答が存在していたりするので、商業として考えた時に顧客の啓蒙や教育も必要であるという意見も事実だろうが、そういう“良いお客さん”は元々理解や知識、いわゆる愛のある人だったりする。多くの人はただの暇つぶしや娯楽に時間・金・労力をそこまで使いたくないというのが正直な所だろう。

断言しておきたいのは、そういう知識や背景などを調べる能力、つまり理解をしようとする能力こそが教養なのである。
それは恋愛や友情に通じる人間関係での重要な要素と同じで愛を示すという行為であるとも言える。一億総中流、大学進学率が50%を超える国なのだから、学歴と教養が平等であれば日本国内だけでも状況はもっと良くなっていなければいけない筈だ。猿が棒を持つみたいに知識を振り回すだけでは、あまり人類の叡智と言えるものに意味がなくなってくる。
例えば日本に住む人間によって行われるヒップホップには銃社会じゃないのにタフガイぶるなよ、とか差別もない国で粋がってんじゃねーよ、という批判をよく聞くが、それこそが日本で行われる偏見と排他性から来る精神的な暴力の発露だと思っている。
ヒップホップとはそもそも音に合わせて喋る音楽であり、言葉のあやとりと酒と金と大麻と女でパーティするだけの音楽ではないのである。一度で良いから日本語のヒップホップを聴いてみてほしい、そこではあなた方にも結構身に覚えがあるような暗くて悲しい物語がある筈だから。
本場アメリカではケンドリック・ラマーがはュリッツァー賞を取るほどの作品を作っているが、日本でもそれに比肩するストーリーテリングと楽曲を作っているラッパーは沢山いる。
後はその文化や、その背景にある問題に対して我々聴く側が耳以外の部分でどれだけ没入できるか、そしてどれだけ敬意と金を払えるかだろう。



実際の所、芸術と金は切り離せないが、この二つはかなり水が合わないと思う。交わればそりゃメガな富を産むが、それにしても相性が悪い。アートの方は結構清貧や分かる奴には分かると言った負け惜しみめいたスタンスを金に見せている事だってある。
もうちょっと言うとパンク、特にハードコアも結構お金とは因縁が深い。
我がサークル【浮遊体】の理念としても関わってくるのだが、制作の自主性という部分でこの手の話題に関わるバンドがいくつかある。自主制作の始祖とも言えるCRASSもそうだし、レーベルで言えばDischord(FUGAZI)、Epitaph(Bad Religion)、Fat Wreck(NOFX)、SST(Black Flag)・・・とまあいっぱいある。
日本にもPizza of Death(Hi-Standard)のTシャツがバカ売れしたように、自分の年齢にも当てはまる30代40代のロック好き、そして流行り廃り関係なく聴いているパンクキッズの遺伝子の中には間違いなくインディペンデントの血が流れていると言っても過言ではない。
その中でインディペンデントの精神性で語られるバンドはやはりCRASSとFUGAZIだろう。その二つのバンドでもかなり世代を隔てているが、パンクが元気だった時代はある意味でアートの自主制作に夢があった時代だと言える。
結局はマイノリティの音楽だから元々需要は少ないし、そんな中で自分らで制作やマネージメントをやれば還元率も上がるし、友達やいいと思ったバンドを紹介したりフェスを開いてシーンに根付いた活動が大きくなる。そう考えれば当然夢がある。
 ・・・のだけれど、これは別にパンクロックに限った話ではなく、金ケチってクオリティを落としたらそれはもう本当に本末転倒どころの話ではない。
アティチュードだとか活動方針だとか、それらも全て表現には必要な事だ。小説もそうなのだが、パンクやヒップホップといったレベルミュージックに意思やメッセージは必要なものだ。だが、作品を蔑ろにして行うのでは全く意味がないと僕は感じる。
少なくともメッセージ性や活動の伝説と音源のクオリティで僕が語り得るのはFUGAZIぐらいだが、必要以上に金を取らないスタンスであっても音源からアートワークに至るまで妥協が一切ないイアン・マッケイのスタンスを僕は心から尊敬している。
詳しくはドキュメンタリー『インストゥルメント』のHPを参考にして欲しい。


個人的には富や名声を追いかけるのは何も悪いことではないと思うし、一方で資本主義・物質主義へ意を唱える必要性がある事も大変よくわかる。
個人的には先述の通り商業的な成功を追いかけているが、【浮遊体】では何より実直な創作を大事にしたいと思っている。アートワークや作品のクオリティを求めつつパンク/ハードコアから学んだ精神性も大事にして、同人ゴロじみた行動はしないよう努めていく所存である。

また、NOTEに於いて音楽の元ネタアリで創作をしているのは自分たちが愛するジャンルへの僕らなりの愛情表現であるし、そもそも何で小説を書いているのか?と聞かれたら、こう答えるだろう。
「そりゃ、まあ、好きだからね」

ある種二次創作的な部分も含めて、色々とゴタついた今、少なくとも私はものを作る人としての真摯さ、それこそ本当に愛があるのかを試されていると感じている次第である。

以上、6月から投げ銭システムの導入を始めますという遅ればせながらの告知でした。
僕らの作品がイケてると思ったら、感想でもお金でもいいので、ぜひカタチで伝えて頂ければとても励みになります。
よろしくお願いします。

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