薄ら氷(うすらひ)【短編ラブストーリー】
ここはどこなんだろう。
目の前には、氷が張った湖が広がってる。朝もやの漂う湖面に、時折柔らかい風が吹いている。春が近いこともあってか、氷もだいぶ薄くなってきているみたいだ。
え…と、彼はどこ? そうだ、一人でここに来たんだった。いつもどこに行くにもあれほどべったりだったのに、なんか可笑しい。まあいいわ。今は一人の方が心が落ち着く。
遠くで誰かが歌ってる。とても綺麗な声。
時は移ろい
季節は変わり
厚い氷も
いつかは溶ける
あなたへの想いも
いつかはこんな
氷のように
消えてしまうのかしら
湖畔に漂う割れた薄い氷を持ち上げ、朝陽に透かしながら、誰にともなく呟く。
わたしは彼を愛してる。ええ、わたし以上に彼を愛している人なんていっこないわ。時が経っても、季節が変わっても、わたしのこの気持ちは溶けることなんて絶対にない。絶対に…
薄ら氷
移ろい
虚ろな心
揺らぎ
揺らめき
戸惑う想い
もうすぐ春が来る。
そういえば彼と桜を観に行ったこともあった。桜のトンネルになった川沿いの遊歩道を二人で歩いたっけ。ベンチに座って、コンビニで買ったお酒を飲んで。うららかな日だったな。あの時の彼の表情ったら…
あれ?笑っていた?それとも?…
なんか…思い出せないな…
人は移ろい
心も変わり
思い出の中
記憶も霞む
変わるはずがないと
誓った心に
嘘はないけど
こんな自分が怖い
湖面の氷が陽の光を受け、ピシッピシッっとひび割れていく音を、あちらこちらで鳴り響かせている。
そういえば、もうだいぶ彼とは会っていない… 前はそれこそ毎日のように会ってたし、メッセージが来たら、すぐに返信してた。だけど最近はなんの連絡もないし…
ちょっと待って、それでもいいなんて、わたし思ってる?
彼の声も、彼の笑顔も、彼の温もりも、何か全てが朧げ…
薄ら氷
移ろい
虚ろな心
揺らぎ
揺らめき
戸惑う想い
沈み
静かに
さざめく想い
薄ら氷のよう
そう、本当のことを言うとね、ここに来たのは、あなたにちゃんとお別れを言うためだったの。
今までありがとう。
本当にありがとう。
もう会うことはないけど
さようなら。
〜〜〜〜〜
「先生、なんかこの子、泣いてるみたいなんですけど…」
背が倒されたアームチェアで眠る娘の顔を覗いていた母親が、不安そうに振り返る。
「お母さん、大丈夫ですよ、彼女は今必死に自分の心の中の整理をしているんです。」
「そうなんですか? でもほんとにこの子ったら、あれ以来ほとんど何も口にしてないし、まともに寝てなくて…いつ自ら命を絶ってもおかしくない様子で…」
自分も涙を流しながら、ハンカチで娘の涙を拭っている。
「それは当然ですよ。突然、愛する恋人を事故で亡くしたんですから、そのようになる方がほとんどです。でもそんな状況を改善するための、このヒプノセラピー、催眠心理療法なんですから。」
セラピストは母親の肩に手を置き、優しく語りかけた。
「ほら、もう目を覚ましますよ。」
閉じていた瞼が徐々に開いていく。
「陽子!」
「お母さん…」
「気分はどう?」
「うん、お母さん、わたし…わたしね」
「なに?」
「彼とね…ちゃんとお別れしてきたよ…」
涙を流しながら微笑む娘を抱きしめて、母親も泣いていた。
「陽子、よく…よく頑張ったね。」
「歌を聴いてたの…それとね、氷がね…どんどん薄くなって…消えていった…」
「そう…そうなの…」
母親はただただ頷いていた。セラピストも安堵の表情で微笑んでいる。
「お母さん、なんか…」
「うん?」
「なんか…お腹すいた…」
診療室に泣き笑いの声が広がる。窓からは優しい春の陽が差してきていた。
〜〜〜〜〜
…あれから時が経って、結婚もしたし、可愛い娘も授かった。もう彼の事を思い出すこともなく日々を過ごしてる。ええ、幸せよ。
でもね、なぜかしら、こんな満開の桜の下を通るたびにね、涙が出てくるの。おかしいわね。
それはたぶん、この胸の中の、溶けきれていない氷のせい…
[了]
〜〜〜〜〜
創作サークル『シナリオ・ラボ』2月の参加作品です。お題は『早春』。
薄ら氷(うすらひ・うすらい)とは春先の薄くなった氷のこと。春の季語です。
以前自分で作詞作曲した同タイトルの曲の世界観を元に、ノベライズしました。
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