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エンタメ異人伝Vol.6 襟川惠子

シブサワ・コウの実妹・襟川クロさんの話題から始まった対談

 黒川――今日はお時間いただきありがとうございます。私は以前、ギャガという会社におりまして、シブサワ・コウさんの妹さんである襟川クロさんと映画のお仕事をさせていただいたことがあるんです。

襟川 え!偶然ですね。ギャガということは藤村(哲哉)さんをご存じですか。

――はい。もちろんです。藤村さんは私の師匠というべき方で、最近、ハリウッド映画版『攻殻機動隊』のプロデュースをされたということもあって、このインタビューの第二回目に出ていただきました。

襟川 藤村さんは昔からの知り合いでして、今も一緒にお仕事の話をしているんです。

 ――どんな話か、ぜひ、公開できる段階で詳しく聞かせてください。それではお話を聞いていきたいと思います。会長は1949年のお生まれとのことですが、出身は神奈川県のどちらでしょうか。

襟川 日吉です。現在、私どもの「科学技術融合振興財団(注2)」が入っているビルがあるのですが、そこに私の祖母が住んでおりました。ですが、恵比寿で歯科医をしていた父が早くに他界しましたので、子供を育てるのに環境がいいということもあって、母と一緒に群馬県の別荘だった川原湯に移ったんです。八ッ場(やんば)ダムになったところです。 

注1)シミュレーション・ゲーミングの研究助成などを行っている公益財団法人で襟川陽一氏が理事長を務める。通称「FOST」。

FOSTが入居するビル @日吉 襟川氏の祖母の実家あとに建つ

 人生が変わった艱難辛苦の3年間 いじめ体験を越えて

群馬県川原湯の小学校時代 前列左(帽子)

――あの、いろいろ問題になったダムですか。

襟川 ええ。小学生のときに3年近く、そこで暮らしました。ものすごく自然環境に恵まれたところで、小さいときはそこに行くのが大好きでした。本当に素晴らしいところなんですけど、そこから学校に通うようになったら話はまったく別です(笑)。まず、学校まで4キロくらいありまして、ずーっと歩いていかなきゃならないんです。

――子供の足で4キロは大変ですよね。

襟川 大っっ変でした! 冬の寒い日には、地面が凍りつき、吹雪の中を歩くときなど特に…。しかも、片側が崖で上から石が落ちてくることもあるんです。その反対側は渓谷で落ちて子供が亡くなったりしたこともあって、危ないので何人かで列を作って学校に通っていました。あそこで相当精神的に強くなったといいますか、あの頃の体験が今に生きている気がしますね。

――自然環境以外に精神的に強くなるようなことがあったのでしょうか。

襟川 学校でいじめられたんです、ものすごく!!

――それはやっぱり都会から来たということで?

襟川 そうです。都会の子だというので、ものすごくいじめられました。どういうわけか優秀で頭のいい子がいじめをするんですね。ひとりだけすごく優秀な子で、いじめをしない子がいたんですが、なぜかそういう子は私が泣かしたりしていました(笑)。

――良くもあり厳しくもありといいますか、すごい環境だったんですね。

襟川 自然環境はステキでした。景色は本当にきれいですし、草笛を吹いたり木の実を取ったり。山火事を見つけて、警察に表彰されたこともありました。ただ、あそこでのいじめは尋常じゃなかったです。私の祖父は狩猟が趣味で猟犬を飼っていたのですが、いじめが怖いので、その猟犬を学校に連れていったりしました。子供は猟犬を怖がるから、学校に着くまではいじめられないんですよ。でも、犬は学校に着くと勝手に帰ってしまうので、結局、帰りにいじめられるんですけどね。心配をかけたくないので、親には絶対に言いませんでしたし、あれで根性がついたと思います。 

昔のいじめっ子が今は地元の教頭先生になった 

――先生が止めるとか、そういったことはなかったんですか?

襟川 先生はすごくいい方たちでした。先生のお宅にお友達と遊びに行って、お昼をごちそうになったりしたのはいい思い出です。でも、いじめってどういうわけか先生には言いつけませんでした。

――やっぱりそういうものですか。

襟川 そうですね。それで、私をいじめた子が、こともあろうに中学校の教頭になりまして。今は仲良くしているんですけど、私へのいじめを凄く後悔して「絶対にイジメはいけない」なんて生徒に教えていたとかで、何を今更と。そういえば、そのいじめっ子の一人は草津でサンバレーというホテルを営んでいて、襟川(陽一)が大学時代に楽器演奏のバイトをしたことがあったそうです。(注3)。すごく楽しいバイトだったそうですよ。朝昼夜3食付きで1日何千円とかもらえて、しかもずっと遊んでいて夜だけちょっと演奏すればいいので最高だったって言っていました。 

注3)学生時代、襟川陽一氏はジャズバンドのサークルに所属していた。

 ――そういったことがあって、強くなられたんですね。

襟川 父が早く亡くなったことも要因だったかもしれませんね。母は本当にお嬢様育ちで、おっとりとした人でしたから。そんな母に心配をかけたくなかったので、自分のことは自分自身で判断して行動するようになりました。

 フランス人形からあばずれ女のイメージに…?!

 ――群馬には3年ほどおられたとのことでしたが、その後は日吉に戻られたんですか? 

ご両親との記念写真

襟川 教育には東京の方がいいと親戚たちが言い出しまして、私もいじめっ子たちがいる中学に行くのはイヤでしたからね。それで、母の実家がある日吉の小学校に転校したんですけど、皆さんとってもよくしてくれました。

――環境が一変したんですね。

襟川 恵比寿の小学校から長野原小学校(川原湯から通った)へ、そして日吉台小学校と転校しましたが、日吉では全然いじめはなかったです。父が恵比寿で歯科医(※)をしていたときも、みんなにちやほやされましてね。よくウチに近所の子とかがお母さんと一緒に宿題のことを聞きに来たりしていました。その中のひとりが偶然にもある会社の運転手さんになっていまして、小学生のとき私が憧れの的でフランス人形みたいだったとか言っていたそうなんです。その話が伝わって、孫正義さんのゴルフコンペに参加して入賞して表彰されたとき、「フランス人形のようだった襟川惠子さん」なんて言われちゃったんです。多くの方がコンペに参加されていたので、何かあると「恵子さんはね、小さい頃フランス人形みたいだった」って(笑)。それを聞いていた襟川は「今じゃ、魔法使いのオババだ」ですって(笑)。

 ――いい話じゃないですか(笑)。

襟川 ところが、知り合いと昔話をしていると、襟川がよくパチンコ屋で私と会ったなんて話も出てくるわけです。私は出玉を入れた箱を足元に5つも6つも積んで、取られないようにそこに足を乗せて、くわえタバコでパチンコを打っていたと。タバコの煙が目にしみるから片目をつぶりながら左手で玉を入れ続け、右手で打っていたそうです。全自動でない時代でしたから。しかも、彼が言うにはけっこう変わった服を着ていたそうです。それで、ソニーオープンの時、ノジマ電気の野島社長が、孫(正義)さんのゴルフコンペの時に一緒にいらして、前の日はフランス人形みたいで憧れの的だったみたいな話をしていたのが、次の日にはとんだあばずれ女になっているんです。久夛良木さん(注4)たちと食事をご一緒したときにもパチンコでくわえタバコの話を襟川がして、ソニーの方が「やめてください、イメージが崩れます」とか言ってくださったんですが、どっちもホントなんです。すごい落差でしょう? しかも、このパチンコの話を襟川がシブサワ・コウとして出版した「0から1を創造する力」という自分の本に書いたらしいんですよ。

 注4)プレイステーションの生みの親で元ソニー副社長の久夛良木健氏のこと。

 ――いや~、すごいお話ですね。陽一さんが書かれたという、その本は読まれたんですか?

襟川 いい話が書いてあるから絶対読むべきと皆さんおっしゃってくださるんですけれど。どうせロクでもないことしか書いてないでしょうからと、読んでいません(笑)。

 クリエイティブに目覚めたのは幼少期から

――そんな恵子さんがクリエイティブにのめり込んだきっかけはあったのでしょうか。

襟川 昔からモノづくりが好きでした。今でも同じで、ヒマさえあれば家でも細かいものをいろいろ作っています。それで、出来上がるともったいないですから、今度はそれを生産して会社でグッズにして売ったりとか。小さい頃からそういうことが好きでしたね。レース編みをしてビーズのバッグやお財布を作ったりして、それを祖母や親戚の人にあげると喜んでくれて、たくさんお小遣いをくれるんです。

――子供の頃からしっかりされていたんですね。

襟川 父が早くに亡くなってしまいましたから、何かの役に立つだろうということで、お小遣いなどは全部貯めていました。ですから、お金はけっこう持っていました。しかも、親戚には子供が私しかおりませんので、可愛がられていたのです。お小遣いの額も大きくて、お年玉に10万円とか信じられない額をもらっていましたね。

――小学生時代にお年玉に10万円ですか? それはちょっとケタが違いますね。

襟川 片親ですから皆、余計に不憫に思ってくれたんでしょうね。それで、貯金もボンボン貯まっていったのです。ですから、母にはいろいろ高額のものをプレゼントできました。そうすると母の母……私の祖母が「惠子は親孝行でえらい」と身内に言うわけです。きっと、祖母は母からあまりプレゼントを貰ったことがなかったのかも知れません。

――教育面ではどうだったのでしょうか。やはり教育熱心だったんですか?

襟川 いえいえ、母は私が勉強をしていると怒るんですよ。私はやりたいことがあり過ぎて、昼間はめいっぱい遊んで、レース編みとかいろいろなモノを作って。それで、宿題とかは夜になってからしようと思うわけですが、もう母が電気を消しに来ちゃうんです。勉強なんかしなくていいから早く寝なさいと。

――それは意外でした。

襟川 私の母方(※)の祖父は医者で、母がひとりっ子だったので女医にしようとしていたらしいんです。それで、祖母が日吉の家の裏にいた女医さんに相談したら、やめたほうがいいと言われたそうなんですよ。女性が手に職を持つと生活力があるから、我慢できずに離婚してしまうと。ですから、私が大学に行くのも親戚は反対でした。短大までは入れてあげるけど大学はダメだと。しかも、短大を出たら就職先は叔父が役員の大成建設の受付をやれと言われました。なぜ受付かというと、みんなの目にとまり早く結婚できるって(笑)。 

理想の大学生活を夢に描いて多摩美に入学

大学キャンパスでジャズ演奏を聴く襟川惠子氏
大学教室でフルートを奏でる襟川惠子氏

――何かいい出会いがあるだろうと。

襟川 信じられないでしょう? だから、手に職を持つのは絶対ダメで。

――それで、多摩美術大学(多摩美)の美術部デザイン科に入学されたわけですが、やはりクリエイティブ志向があったのでしょうか。

襟川 それがまた動機がすごく不純なんですよ。友達のお姉様が多摩美の油画科に通っていたんですが、その人からすごく楽しい学校だと聞かされたんです。庭には芝生が植わっていて、お昼になると軽音楽部とかフォークソング部とかモダンジャズ部とかが庭に出てきて、みんなで芝生の上に座って音楽を聴いて。しかも、エプロンのデザインを男子がして、女子がそのエプロンを作ってきて、みんながおそろいのエプロンを着けて食事するんですって。聞いたとたんに「ココだ!」と思いましたね。

――確かにそれは楽しそうですね。なぜ、デザイン科だったのでしょうか。

襟川 油絵科は就職が難しいんです。グラフィックデザインであれば、いろいろ就職先があると思っていました。ところが、絵を教えてくださっていた先生が、多摩美だけしか受けないなんてダメだと。藝大(東京藝術大学)も受けて、滑り止めにも女子美(女子美術大学)や武蔵美(武蔵野美術大学)も受けろと言うんです。

――先生にしたら当然そう言いますよね。

襟川 当時の多摩美のグラフィックデザイン科は倍率が高くて、実質は33倍だったと教務課の方に教えてもらいました。入学したら浪人の方が多くて、三浪、四浪の方もいました。だから、普通は滑り止めも受けるんですが、私にはそんなことは全然関係なかったんですね。芝生に座って、おそろいのエプロンを着けて、音楽を聴きながらお弁当を食べる。それで、就職が有利なのはグラフィックデザインだと。もうそれしかないんです(笑)。

――それは、面白いですね~。

襟川 大学受験のためにお世話なった絵の先生とは今でもお付き合いがあります。私は絵を習い始めたのが遅くて、熱心に休日でも教えて下さったその先生がいなかったら私は現役で合格できなかったと思います。

 学生運動でロックアウトされたなかアルバイトをいっぱいした

――大学生活はどうでしたか?

襟川 面白かったですよ。映画監督の大島渚さんとか篠田正浩さんとか、一流の方々が教えに来てくださったり。学園祭も……芸術祭っていうんですけど、ものすごくに楽しかったですね。ボディペインティングをしてくる人がいたり、ヌードになっちゃうコもいたりして。模擬店でおいちょかぶをして、出前のラーメン屋さんを参加させて、ラーメン代をチャラにしたり。ただ、私が二年生のときは学生運動でロックアウトの最中だったんですね。

――学生運動が盛んな時代でしたからね。

襟川 そうです。なかなか学校に行けなくて、それが残念でした。

――ロックアウトされている間、アルバイトとかされていたのですか?

襟川 アルバイトはいっぱいしましたね。テレビ局の子供向け番組のイラストを何十枚も描いたりとか。三越百貨店のディスプレイデザインなどもしました。ウィンドウディスプレイにキャッチコピーを書いて、ショーカードとか置いたりするじゃないですか。ああいったものです。ヒマなときはそこで販売員をしてもよくて、もう働き放題でした。あとは逸品会のディスプレイデザインや出版社の本の表紙のイラストとか。

――いろいろなことをされていたんですね。

襟川 そうです。ただ、逸品会というのはホテルが会場で、お客様も一流の方をお呼びするので、さすがに自分たちだけではなかなか手に負えなくて。それで、お友達のお父様がディスプレイのデザインをされていたので、その方にお給料を払って協力してもらったりしました。

――学生時代からすごくアグレッシブだったんですね。

 45日間ヨーロッパ一周旅行 仕事も遊びもやるときは徹底的

とてもカッコいいスナップ ヨーロッパ旅行中の惠子氏

襟川 また、よく遊びました。デザインの教授が徹底的に遊べと。遊んで感覚を磨かないと良い作品が出来ないと、お墨付きをもらいました。新宿、赤坂、六本木、青山で楽しい時を過ごし、スキーに行ったり、海の合宿に行ったりとかね。クロッキー部の人たちとみんなで合宿に行ったときは、場所がお寺だったのでカーテンで部屋の真ん中を仕切って向こうが男性、こっち側が女性って。それで、夜はみんなで料理を作って食べたりとか。

――すごくいい時代を過ごされたんですね。

襟川 最高の時代でしたね。海外に遊びに行ったりもしました。祖父がアメリカやヨーロッパに視察に行っていて、「井の中の蛙になるから海外に行かなきゃダメだ」といつも言っていたので、女性友達とヨーロッパに2週間くらい行くことにしたんです。襟川にヨーロッパに行くと言ったら、どうしたことか全然関係ないはずの彼が、ヨーロッパ旅行のすごくいいのを見つけてきたって、45日間かけてヨーロッパを一周する「英語とヨーロッパの旅」というのでした。襟川は友人と「アメリカ横断の旅」に行くと言っていたんですが・・・。期間が長いので「ああ、それもいいな」と思って、そちらのほうに行くことにしました。でも英語の勉強なんかしたくないので、そこのところは何とか抜け出そうと画策していました。

――45日間ですか。それは良かったでしょうね。

襟川 ホンッットに素晴らしくて! かけがえのない生涯の思い出になりました。そのときご一緒した方たちとは、ずっとお付き合いさせていただいていて、今でも4年に1回集まっています。

――そんなにすごかったですか。

襟川 感受性が強い時期でしたので、もう想像を絶する世界でしたね。慶應大学の主催で、私は年上でしたから団長格になって、ルーブル美術館に行くとなったら、美大ですから慶應の教授に「ルーブルの絵の見方を教えてやってほしい」とか言われ、講義したり、若いから何でも面白くて、オプショナルツアーでムーランルージュやリドのショーを見たり、イギリスでは英語の授業を二週間ほど受けるのですが、せっかくヨーロッパに来たのに何で教室なんかで勉強するのが時間がもったいないと友人5名とイギリスの英語の授業を抜け出しました。ビクトリアステーションから夜行列車でエディンバラへ行き、目覚めたときのエディンバラの荘厳な景色には心を打たれました。スコットランドですから英語のなまりが強くてさっぱり分からず、アドベンチャーゲームのような珍道中でした。

祖父にいろいろ買い物を頼まれたことも覚えています。マロングラッセを買ってこいだとか、モーゼルのトウェンティワンを買ってこいとか。「トウェンティワンって何?」って聞いたら、1921年ものの白ワインのことで、そんなもの探したってあるわけないじゃないですか。他にもウイスキーが好きだから、ジョニーウォーカーを買ってこいとかね(笑)。

ヨーロッパ旅行中のスナップ 惠子氏の隣、襟川陽一氏は写真右に

 夫・襟川陽一との出会い

 ――多分、1ドル365円くらいの時代だと思うんですけど。その時代にそれだけヨーロッパを長期旅行された方というのはすごく少ないと思いますよ。

襟川 一緒に行った方たちも、行かせてくれた親に感謝すると言っていました。今の自分が子供に言われてあれだけのお金をかけて海外に行かせてあげられるだろうかって。ついこの間もそんな話をしていました。でも、私はそんな感覚はなかったですね。お小遣いをいっぱい貯めてありましたから(笑)。それに、「ヨーロッパに行く」って言ったら、また親戚たちから、たっぷり過ぎる旅行代金以上のお餞別をもらいましたので(大笑)。

――レベルが違いすぎると言いますか、すごすぎですね。襟川陽一さんとの出会いについて聞かせてもらえますか。

襟川 日吉の家は広くて、たくさん部屋があったので上の階を下宿にしようということになったんです。それで、親戚の人から部屋を貸してやってほしいと頼まれまして。時期外れでどこも空き部屋がなかったそうなんです。何とかならないかということで、やって来たのが襟川だったんですよ。

――運命ですね~。

襟川
 彼にはバイトもよく世話しましたが、とんでもなかったですよ。私がテレビ局の作画のアルバイトをしていた関係で私の描いた絵を一枚ずつめくってお話しが進む番組(注5※)でしたが、隣のスタジオで歌番組の収録をやっていて、弘田三枝子さんとか青江三奈さんとか小川ローザさんたち、当時のスターが出ていると、見に行っちゃって。秘読みが始まっても絵をめくる係り2名がいないんですよ(笑)。あのときずいぶん高いバイト代を払ってあげていたのに(笑)。

 注5)「テレ朝 おはなしひろば」

 ――アハハハ、そんなことがあったんですか。

襟川 そうですよ。それなのに襟川は「下宿屋の娘が2階から釣り糸を垂らしていて、それに引っかかってしまった」、「私と結婚しなかったら死ぬって言ったから人命救助婚だ」なんて、友達に言っているんですから。

――ハハハハハハ。

襟川 しかも、親戚や母が長男と仲良くなったら大変で、お婿様が良いと思っていたので、家を改築するからと彼を追い出しました。すると、いつも多摩美から帰ってくるのをウチの前で車に乗って待っていて、毎日通ってくるから、母が「深草の少将」(注6)ってあだ名をつけたんですけど、襟川は「人命救助婚だ」って言っているんです。さて、どっちが本当でしょう、なんて話を新入社員研修のときにしていたこともありましたね(笑)。皆、二人の馴れ初めと知りたいですから。 

注6)小野小町に恋するあまり彼女の邸宅に毎晩通い続けたとされる伝承の人物。 

かつて襟川陽一氏が下宿をしていた場所は、現在、関連会社の入居するオフィスビルとして日吉駅近くにある。 

襟川陽一との結婚は親戚たちからは大反対されました。

 ――なるほど、そういう経緯だったんですね。では、当初、結婚対象としては、どう思われていましたか……?

襟川 全然、対象ではありませんでした。だって2歳年下で幼い感じでした。それに、私は別に付き合っていた人がいたんです。その人のことは最初は全然好きではなかったんですけど、いつも傍にきて離れない人がいたんですよ。もう見るからにイヤで、鳥肌が立つから「カマキリ」ってあだ名をつけていました。それでも、付き合うようになり、結婚してくれとか言われると、不思議なもので「まあ、それでもいいか~」とか思ってしまうんです。女性は順応性があるんですね。

――そんな男性がいたのですか。その方とはどうなったんですか?

襟川 歌手の方と結婚しましたよ。その後、離婚しちゃいましたけどね……(笑)。友人から聞いたのですが「オレ、B型の女には縁がないんだよ」とこぼしていたそうです。

――何と言ったらいいか、すごい話ですね(笑)。

襟川 その方は音楽の仕事につき、襟川が仕事を依頼しちゃったことがありましたね。しばらくして、その彼から私に手紙が届いたので、「〇〇から手紙がきているけど、仕事を頼んでいるの?」って。聞いたらびっくりしちゃって、現場の社員に「何でこんなところに仕事を出すんだ!」って怒ったんですよ。そうしたら「社長が決めて、しかもしっかり値切って」って(笑)。もちろん、その後は仕事をお願いしないようでした。

――すごいですね。こんな話を聞いてしまって大丈夫かな?

襟川 面白いでしょう?(大爆笑)

――では、どういうきっかけで、陽一さんとおつき合いするようになったんでしょうか。

襟川 夜中の2時頃に私の仕事が一段落して、階段に腰掛けていたら、襟川がへらへらとほろ酔い加減で帰ってきましてね。「一杯飲みにいきませんか」って誘われました。それまで何回も誘っていたらしいんですけど、彼はバンドをやっていましたからね。私にパーティー券を買ってもらいたいんだろうと思って、「ダメ、彼と今ケンカしているから」とか言って、いつも断っていたらしいんです。でも、そのときは絵の仕事がなかなか終わらないし、一杯飲みに行くのもいいなって思ったんです。それで、襟川の慶應の同級生がすぐ近くでバーテンをやっているというので、じゃあちょっと行こうと。それが、きっかけですね。

――そういうことだったのですか。人生って面白いですね。

襟川 ホントにねえ、分からないですよね。 

――結婚を反対されませんでしたか?

襟川 大反対されました。私は母が一人っ子で父が二人兄弟で叔父には子供がいません。ですから親族一同はお婿様が良いと思っていました。また、母の従兄が襟川の実家と仕事の関係があり、生活環境がまるで違うので、私が嫁として勤まらないと反対されました。私は私で、嫁として彼の実家で専業主婦になる気はまったくありませんでした。

――そうだったんですか。

襟川 襟川との結婚条件は仕事を続けることでした。あちらのご両親にしてみれば、気にいらない嫁でしょうね。大事な跡継ぎ息子の嫁が生意気なアバズレ女で。

――大変だったんですね。

襟川 祖母には年下と結婚したら損をするからダメだとも言われました。損なんかしないんですけどね。でも、確かに年上のほうが面倒見はいいですね。ほら、荷物を持ったりとか気をつかってくれるじゃないですか。若い頃の襟川は全然そういうことに気が回らなかったですから。それで、ある一般社団の専務理事に襟川が怒られたことがありました。「こんなデカい体をしているのに、何で惠子さんに荷物を全部持たせているんだ。いい、オレが持ってやるっ。ふざんけな!」って(笑)。 

新婚旅行で行ったイタリアの「リド」
思い出深いイタリアの「リド」には何度も訪れた

光栄=起業のキッカケになったマイコン資金は惠子さんから

――陽一さんの誕生日にMZ-80C(注7)をプレゼントされたという逸話は大変有名ですが、それはやっぱりアルバイトをされたりしてお金があったんですか。

 注7)1979年にシャープが発売したパーソナルコンピュータ。ディスプレイとカセットテープレコーダーを搭載した一体型のハードが人気を呼んだ。

 襟川 そうですね。それに身内に子供は私ひとりで誰かが亡くなったら遺産が入ってきたりして、お金には困りませんでした。

――陽一さんがマイコンを買いたいと言い出したときはどのように思われましたか?

襟川 「夢のような箱がある!」とか言ってきたんです。それがあれば自分で見積もりができると。見積もりなんて普通は頼んだらすぐできるんですが、親の会社の倒産後、再建した会社で信用がなかったですし、見積もりも後回しにされたのでしょう。でも、マイコンがあれば見積もりは自分でできちゃうし、給与計算もできると言うので。給与計算といっても、そのときは社員は一人しかいなかったんですけどね(笑)。

――いろいろ大変な時期だったんですね。

襟川 義父は地元の足利にはほとんど借金を残さなかったので、「倒産じゃない。あれば会社整理だ」とよく言っていましたが、とにかく会社を畳んだわけです。それで、襟川が起業しようとなったとき、なかなかお金が借りられないから、私が伊豆の方に買ってあった土地を担保にしたり株を売ったりして資金を出したりしました。昔から株式投資などもやっていましたからね。

――当時から、株をやられていたんですか。

襟川 祖父や祖母が株をやっていて、祖母が銘柄のことなどをいろいろ教えてくれたんです。「株で損するのはバカよ」なんて言っていましたね。「なんで?」って聞いたら、株は下がったら売ってはダメなんだと。ずっと持っていれば必ず上がるんだって。それはそうですよね、高度成長の時代ですから。

8ヶ月の惠子氏を抱いている祖母


――確かに、右肩上がりの時代でしたね。

襟川 だから、それを信じていたんですけど、そのあと下がりっぱなしの銘柄もあり、大変な目にあったこともありました(笑)。そんなわけで株式投資は18歳からやっていました。そのお陰で今でもファイナンスの責任者として多大な利益を上げることができています。めぐりあわせですよね。

 白馬の王子様が迎えに来て、その人と結婚するつもりだった

 ――では、陽一氏がゲームを作ると言ったときはどのように思われましたか。

襟川 ゲームは自分の趣味で作っていたんです。市販のゲームを買ってきても途中で止まっちゃったり、反射神経を競う物が多く、つまらないと。学生時代からサイコロで遊ぶゲームとか作って友人と遊んでいました。それで、自分で作るようになったんですよ。

――なるほど。その頃の恵子会長はゲームにご興味は?

襟川 その頃の私は忙しくて、ゲームを作って遊ぶ時間はなかったです。自分でもいろいろな仕事をやっていましたからね。布施明さんを使ったカネボウさんのキャンペーンの仕事なんかも広告代理店さんと一緒にやらせていただきました。でも、私はそんな風になるはずじゃなかったんです。私は白馬の王子様が迎えに来てくれて、その人と結婚して大切にされて優雅に暮らすって昔から決めていたんです。それが畑仕事なんかもして、母に指の形が悪くなるし、日焼けするとしかられました。

――そんなこともされていたんですか。波瀾万丈ですね。

襟川 襟川が起業して、足利にある彼の祖母の別荘だったところに住むことになったのですが、手入れがされていなくて隙間風とかひどいんですよ。障子も汚いので自分でみんな外して張り替えて、きれいな絨毯を敷いて。庭も荒れ放題だったので整地をして煉瓦で花壇を作ったりして。美大出だから何でもやりましたね。

――大変でしたね。

襟川 そうして、いろんなものを作ったりしていたんですが、どうしても抜けない木があったんです。根が張ってしまっているからノコギリで一生懸命ギッコギッコやりましてね。やっと抜けたと思ったら木を抱えたまま一緒に倒れちゃいまして。その木が体の上に乗っかって動けなくなっちゃったんです。重いからどうにもならなくて、「困ったな、どうしよう……」って空を見上げていたら従業員が帰ってきたんですが、私を見て「奥さん何してるん?」って(笑)。バカじゃないのこの人は、木を抱えて倒れて動けないのに早く助けないとと思わないのか、と。逆恨みです(笑)。そんなこともあって流産したりして。

――ええっ!? そんなことになっちゃったんですか?

襟川 はい。もう色々ありました。他にも、万年寝不足で台所を洗っていてタワシの先端が取れて落ちてしまったので、ボーっとしながら拾おうと思ったら、それがタワシじゃなくってムカデ? 生まれて初めて見るムカデに「ギャーーッ!!」って叫びましたね。そうしたら襟川が「うるさーーい!」って怒鳴って。もう何という人でなしだと。

――それはビックリしますよね。

襟川 でしょう? しかも、それ1回じゃないんです。食器棚に手を入れたら野ネズミですよ。ネズミは可愛いですから、そんなに怖くはないですけど、サーっていきなり手の上を飛び越えて、「ギャー!!」って。庭にも大きなヘビが出るし、しょっちゅうギャアギャア言っていたのですが、そのたびに襟川は仕事をしていますから「うるせえーっ!」と怒鳴るわけです。もうアタマにきて「離婚だ、離婚!」って荷物をまとめて日吉に帰ったこともありました。

――本当にいろいろあったんですね。

襟川 無給で会社を手伝い、子供を育てながら自分の仕事もして。若いから出来たのですね。彼が病気になって入院した時は、手術で輸血させたくなくて、夜にスープを作って毎日届けて、朝はトラックに乗って荷物を配達したりとか……。白馬の王子様が迎えにきてくれて、優雅に暮らすはずがどうなっちゃったんでしょう。だから人間なんて分からないものですよ。全てが修行で、今では良い思い出です。

――でも、これだけ会社が大きくなって、ある意味かなったとは言えませんか?

襟川 いえいえ、まだまだ。世界No.1になっていません。

――おお、そうなんですね。ゲームのソフトを出すようになったとき、絵のデザインなどをされたそうですが、それはご自身から率先してやられたのでしょうか。

襟川 美大でしたからデザインはお手の物ですし、仕事でもずっとやっていましたから。襟川は光栄の仕事をしながらのゲーム作りでしたから、宣伝や営業も私がしていました。昔からいろいろな仕事をしていて取引条件のことなども分かっていましたし。でも、好きだからどうとかではなく、ただただ生活のためでしたね。取引先が倒産したり、あの当時は本当に生活していくのが大変でしたから。

 乙女ゲームのパイオニア

 ――惠子さんは、今に至る女性向けの「乙女ゲーム」のルーツをお作りになられたわけですけど、それはやはりご自身で今のゲーム産業に足りていない、もしくは無いもの作ろうという発想だったのでしょうか。

襟川 自分も女性で世の中の半分は女性ですからね。撃ったり殺したりが多かった男性向けのゲームでしたから。もっと女性が楽しめるゲームがあれば絶対に売れると思ったんです。

――当時、パシフィコ横浜で『アンジェリーク』の発表会をやっていたのを拝見しまして、これはダイナミックなことをしているなと思いました。

襟川 キャラクターが好きになったら声優さんにも憧れますよね。だから、その声優さんに歌を歌っていただこうと。ところが、歌手ではない方たちなのでリズムは外れるわ、音程は狂うわ(笑)。大変でしたがキャラクターのイメージがあってユーザー様は思い入れがありますから、ものすごく売れました。でも、最初はイベントをすることさえ、社員にもすごい反対されたんですよ。

――そうでしたよね。

襟川 声優さんひとりにつきCDが1万5千~2万枚売れました。当時は初めてのCDで2万枚売れたら、音楽業界は社長賞をもらえるんですって。しかも、守護聖(注8)は9人いますから9倍です。そのあとも舞台化をしたりとか、あったらいいなと思う、世の中にないものをどんどん作っていきました。でも、声優さんは歌なんか歌わされて最初ビックリしたでしょうね。

 注8)『アンジェリーク』に登場する、主人公の女王に仕える9人の男性。

 ――今では当たり前ですからね。そういう意味ではすごくパイオニア的だったと思います。

襟川 今の声優さんは歌もすごく上手で素晴らしいですね。

――実は私の姪も声優なんです。「三森すずこ」といまして、ブシロード所属です。

襟川 ブシロードさんにおられるのですか。それはすごいですね。

――ありがとうございます。

周囲の反対を押し切ってスタートしたVRSENSEの開発秘話

――ところで、今回は新作のアーケードゲーム機VR センス(注9)も「アンジェリーク」のように、惠子さんが直接チームを編成して開発も主導していると伺いました。そのお話も聞かせていただけますか。VRをフィーチャーした筐体は、とても革新的ですよね。随時コンテンツを変えていくようなお考えもあると思うのですが?

 注9)コーエーテクモウェーブが手掛けるアミューズメント施設向けのVR筐体とコンテンツ。シートが動いたり、香りが漂ってきたり、温度や湿度が変化したりとさまざまな体感機能が搭載されている。

 襟川 通常のVR(バーチャルリアリティ)は皆さんがやってくるでしょうから、仮想現実がもっとリアルに感じられるものにしようと。それで、風や雪の表現ですとか、イスの動き方は他社ではできないものにとか、臨場感を高めて。今までに体験したことのないような感動をお客様に味わっていただきたいということで作ったんです。ただ、初めてやることですから、すべてはこれからですね。

 ――今回のVR センスは「アンジェリーク」の開発のときと同じように惠子さん自身が主導したとのことで、襟川陽一さんとは意見が合わなかった部分があると伺っておりますが、実際のところはどのようにプロジェクトを進めたのでしょうか?

襟川 今回のVR センスの企画は私が考えたんです。もう、一言で言えば「艱難辛苦」ですよ。だって、経営メンバーからは「アーケードゲームとしてのビジネスモデルが確立されてないとか、どこも儲かってない」とか…ネガティブな反応しかありませんでした。とくに襟川は「やってもいいけど、コーエーテクモゲームスのラインは埋まっているから社内の開発人員は使うな」って言われましてね…。「なんて冷たいヒト…」って思いましたよ。(笑)

 ――ええ、そんな状況からのスタートだったんですか?

襟川 はい。だから、私は仕方なく、別会社の社員の勤怠を調べて、残業時間の少ないスタッフを集めるところから始めたんです。実際にはヒマだったということではなくて、その時期はたまたま残業時間が少なかったと彼等は言っていますが、半年以上もほとんど残業していないので、コーエーテクモゲームスとは違いました。でも、優秀なメンバーです。

――なるほど、たまたま残業が少ない社員さんが候補にあがってしまったんですね。

襟川 幸い、コーエーテクモウェーブにはゲームセンターを運営している社員や、パチンコ・パチスロのノウハウがあり、ソフト開発は3名でスタートしました。VR センスの筐体のデザインの原画は私が移動時間のクルマのなかでメモ帳にえんぴつでササッと描いたんです。

――あれですね。原画は6月18日のVR センスの発表会で紹介されていましたね。確かにイメージスケッチの要素が筐体に残っていましたね。

襟川 シルバーグレーに丸がついていますからチャコールグレーをやめたんでしたね。

VRセンス開発中の筐体イメージスケッチ 襟川惠子氏による


――VR センスで重要視されたポイントを教えていただけますか。

襟川 VR センスは人間の五感に訴える世界初のアーケードゲーム筐体なんです。座席シートは演出に併せて動く「3Dシート」と名付けています。そして嗅覚を刺激する「香り機能」、あと、そこに何かが居る感じを演出する「タッチ機能」、空間の広がりを増幅させる「風機能」、環境やアクション演出に効果的な「温冷機能」、雨や水しぶきなどの演出を感じる「ミスト機能」があります。当然ながらそれらのギミックを活かしたコンテンツを準備しています。

――私は90年代の前半にセガにいまして、セガがアーケードゲーム用のゲーム開発基盤として「MODEL1」や「MODEL2」などを開発しました。当時のナムコは「システム11」などがありましたが、VRSENSEはそのようにユニットのように他社様に活用してもらうことや、コンテンツ協力や提携をして開発をしていく可能性はありますでしょうか?

襟川 もちろんです。技術開示も積極的に行っていきたいと思っていますし、必要に応じて開発もアドバイスもさせていただきます。今は各社が協力してVRを世の中にアピールする貴重な機会だと思いますのでお役に立てればと思います。

――VRの未来にはどのような可能性を感じていますか?

襟川 VR センスのコンセプトは、安心、安全で常時アテンドの人員を付ける必要がありません。筐体サイズはコンパクトに設計がなされています。二つに分割ができますので設置や移動も簡単です。ホテルや百貨店、病院とか、それと場所を取らないのでショッピングモールなどにも置いていただけると思います。あとは、ご老人たちの施設にも良いと思います。若いに頃に行けなかった海外のリゾートにVR上で行ってみるとか、思い出の場所に行くことも可能ですね。

VR センス完成発表会でのスライド資料
VR センス体験中の筆者 黒川文雄


2017年6月28日開催 VR センス完成発表会での登壇スピーチ

テクモとの経営統合は緩やかな統合

――楽しみにしています。2009年にテクモとの合併がありましたよね。今までの御社を見ていますと、コーエーという会社は恵子さんと陽一さんのお子さんのように思えるんですよね。すごく優しく手厚く、ときに厳しく育てられて、ここまで大きくなったと。テクモとの合併はそこにある種の違う文化が入ってきた時代だったと思うんですけど、どのように受け止められていましたか。

襟川 いきなり全部一緒に統合するのはやめました。コーエーのいいところである開発エンジンなどは共有化しながら、テクモのいいところを伸ばしていこうということで経営統合しました。ですが、企業文化も社風もまったく違いましたから最初はなかなか難しかったですね。うまく交通整理できたので、今はまったく問題はありません。

――今は本当に一丸となっておられますよね。e-SPORTSはじめ、いろんな意味で相乗効果出ていると思います。

襟川 そうですね、いい出会いだったと思います。e-SPORTSの方も私が理事長としてAMD(注10)で協議会を立ち上げまして、国際的に大きく遅れをとった分巻き返しを図ります。

 注10)襟川恵子氏が理事長を務める一般社団法人デジタルメディア協会の略称


思ったことは行動に、チャンスはいっぱいある。

――最後にエンターテインメントの世界を目指す女性や若手のクリエイターにアドバイスをいただけますか。

襟川 自分が楽しいと思えるもの……こういうものが欲しいとか、こういう風にしたいということを突き詰めてほしいです。これは主観ですよね。そうしたら、今度はお客様の立場として今の市場などと照らし合わせて客観的な立場から、その市場があるのか、売れるのか、だれをターゲットにするかということをシミュレーションしてみると良いですね。その上で「これはこういう風にしたい」、「これをやるんだ」としっかり心に強く決め、行動したら、必ずそのようになります。だから、自分で強く思ったことは実行することです。世の中には素晴らしいことがたくさんあって、チャンスはいくらでもありますから、もっともっと若い人に活躍して欲しいなと思います。若い人はDNAも進化していて、賢くて、大きな可能性を秘めていますから。


 今回で5回目を数えるこの取材記事の復刊ですが、今回はコーエーテクモホールディングスの襟川惠子会長をご紹介しました。
お話もざっくばらんにしていただき、実際のテキストの修正もほとんどなく、キャパシティの広さを感じさせてくれました。コーエーテクモ社がここまで大きくなったのはクリエィティブの陽一氏(シブサワコウ)と経営ビジネスの惠子さんの素晴らしいマッチングがあったからだと思います。
御高覧ありがとうございました。
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出展:エンタメステーション
写真:北岡一弘
協力:仁志睦

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