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呟き的な個人的考察New『飛騨と新羅と渡来人』

皆さん、こんにちわ。

臥龍桜です。

さて今回は前回のお話しの終わりに

日本の歴史がゴチャゴチャになった原因は

『新羅』だと書いて終わりました。

では話しを始めます。

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一般的に新羅(しんら、しらぎ)とは

紀元前57年から935年まで続いた国です。

今の北朝鮮や韓国の場所にあたります。

こんな感じです。

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年代により領土が変わりますが大体この様な感じです。

新羅に関して避けて通れないのが

飛騨の口碑です。

この飛騨の口碑のお話しを簡単に説明します。

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飛騨の口碑の個人的ポイントを抜粋します

※『大国主命が飛騨(高天原)との約束を破った。』


飛騨の口碑の大国主が誰を指しているのかは分かりませんがホツマツタエ的には

181人の子供がいた『オオナムチ』の事だと推測出来ます。

『飛騨=高天原』

と書いてありますが以前もお話しした様に。

(マガジンの『飛騨から世界へ、、、』をお読みいただけたら理解しやすいと想います。)

飛騨の口碑では今の乗鞍岳(淡山)の

丹生池(にゅうのいけ)から人類が誕生したと書いてあります。

(ここもポイントになるので丹生池から人類が誕生したという所を覚えていてください。)

歴史的に見ても乗鞍岳や白山は何十億年前から陸地だったというのは科学的にも分かっています。

この様な事から飛騨=高天原になります。

またホツマツタエ的にも

イザナギさん達が最初に居たのは今の『中越地方』です

飛騨の口碑とホツマツタエの共通点として個人的にポイントになる所だと想っています。

簡単に言うと

『中越地方に王朝があった』という事ですね。


その飛騨の姫と大国主(オオナムチ)が結婚します。

飛騨と出雲の末永い繁栄の為に飛騨の口碑でいう天照大御神の娘を本妻としてオオナムチと結婚する。

しかし、オオナムチは天照大御神の娘

多紀理姫(たぎりひめ)と結婚して

多紀理姫(たぎりひめ)が子供を産んだ後はオオナムチは家にも帰らずに

須勢理姫(すせりひめ)を本妻にするとスサノウに伝え、スサノウは激烈に反対したがオオナムチは

須勢理姫(すせりひめ)を連れて逃げ出してしまいます。

その後は古事記と少し似ていて飛騨が出雲へ使いを出すがオオナムチが逃げまわったり。使者が、出雲に取り込まれたり、殺されたりしました。

最終的には飛騨から大軍を出雲に送り

出雲側はタケミナカタを出陣させ飛騨の大軍と戦になり出雲側は負けてしまいます。

こうしてオオナムチは飛騨から譲り受けていた

出雲を飛騨に返す事になりました。

ざっとですが

これが

『大国主命が飛騨(高天原)との約束を破った経緯です。』

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その後の話に行きましょう。

その後、自らの誤ちに気づいた

オオナムチとコトシロヌシは『幽閉』される事が決まりました。

『幽閉場所』が出来るまで『仮の宮』を

『稲佐の浜(いなさのはま)』に作りました

また

『出雲大社』(千家尊統著)には

十月の神在祭には全国の神々が出雲に参集するがそのときの神議り(かみはかり)が行われるのは

「仮の宮」であると書かれています。

また

『出雲大社』の『身逃神事』(みのがれ)

これは幽閉されていたオオナムチ、コトシロヌシを他人の目につかない様に夜中に完成した

『幽閉所』に連れて行く行為が

『身逃神事』として残ったものではないかと飛騨の口碑は説明しています。

そして出雲を天照大御神の息子の

『ほひのみこと』が統治する事になり

飛騨の大軍も飛騨に帰っていきました。

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では次に行きます。

オオナムチとコトシロヌシが幽閉された場所。

それは

『昔の高層出雲大社』です。

画像2

約50mの高さがありました。

この場所にオオナムチとコトシロヌシが幽閉されていました。

その事を知らないオオナムチが新羅に行って作った子供達が

『自分の父親は出雲の王だと母親から聞いて船で出雲に来ました。』

しかし

現実は50mもの高層の今で言う牢獄の中に居ました。

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ここからがポイントになります。

飛騨の口碑にはこの様に書いてあります。

シラギの子供たちが成長し日本に来て。

『シラギ神崇拝教』と言う宗教を作り

あらゆる手段を使って飛騨(天孫)に復讐を図りさらに皇位を奪おうと狙ったのです。

※日本初の新興宗教だと言われています。

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これが最大のポイントです。

『シラギ神崇拝教』

どうも現在は

『出雲教』というのがそれにあたるという話がありますが、、、、、、、はたしてどうなんでしょうか?

さて。ではシラギ神崇拝教に関して何かヒントは無いのか調べてみました。

ヒントはありました。

ヒントは、、、、『常世神』でした。

僕のnoteをずっと読んでくれている方々は

はい?って皆さん想うかもしれませんが、、、、

とりあえず話を進めていきましょう。

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常世神は『日本書紀』に登場する新興宗教の神。

この神を祀ると、富と長寿が授けられ

貧者(ひんじゃ)は裕福になり、老人は若返ると説かれた。

また個人の欲求を叶える信仰であると言われている。

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はぁ、、、、常世神が新興宗教で欲求を叶える為の信仰ね、、、、

中々面白い。

もう少し常世神の話を進めていきましょう。

『日本書紀』によると

皇極(こうぎょく)天皇3年(644年)に東国の富士川の近辺の人

大生部多(おおうべのおう)が村人に虫を祀ることを勧めた。

『これは常世神である。この神を祀れば、富と長寿が授かる。』と言って回った。

さらに人々に財産を棄てさせ酒や食物を道端に並べ

『新しい富が入って来たぞ』と唱えさせた。


やがて信仰は都にまで広がり

人々は『常世虫』を採ってきて清座(せいざ)に祀り

歌い舞い、財産を棄捨して福を求めた。

しかし

全く裕福になることはなく、その損害は甚大だった。山城国の豪族・秦河勝(はたかわかつ)は、民が惑わされるのを憎み、大生部多(おおうべのおう)を討伐し

民衆は秦河月を讃えた。

※常世虫とは一説には『蛾もしくは蝶』と言われています。

『秦氏の秦河勝さんが出てきました』


秦河勝さんが何故?

大生部多(おおうべのおう)を討伐したか。

当時、仏教の信仰に篤い豪族は他にもいた。

秦河勝より強い政治権力を持った人物も多かった。

ではなぜ秦河勝、1人が常世神信仰を討伐したのかについては(実際は1人ではないと想いますが)

全国に秦人・秦部を抱え、殖産(しょくさん)興業を推進してきた秦氏としては

民の生産や経済活動を停止させる宗教は見過ごす事ができなかったとする考えがある。

渡来氏族である秦氏の秦河勝は新興(新興宗教の意味だと想います。)ではあるが

原始的な『神』を恐れることなく

大生部多(おおうべのおう)と対決、討伐できたのではないかとも言われる。

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個人的には飛騨の口碑に出てくる

『シラギ神崇拝教』とは『日本書記』に出てくる『常世神』の事ではないかと想っています。

厳密に言えばシラギ神崇拝教が常世神というものに変化していったと想っています。

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ではもう少し飛騨の口碑のお話しを簡単に説明します。

出雲を『ほひのみこと』が統治しました。

しかし、先程話したオオナムチが新羅で作った

子供達が復讐しにきます。

『ほひのみこと』は罠にはまってしまい1人になった所を何度も何度も謝罪させられました。

それが出雲大社の神事の『百番の舞』の始まりだと言われています。

その百番の舞について千家氏(せんげうじ)は
『出雲大社』のなかで神に捧げる舞ではないと話ている。

※千家氏は代々出雲大社を取り仕切っていた一族『出雲国造(いずもこくそう)』=『千家氏』

次に

『釜の神事』

釜の神事とは簡単に説明します。

竹の棒の前に瓶を(お酒をいれた物)

後ろに稲をくくりつけたものを肩に担ぎ

青竹を杖にして。

釜の回りを三回『あらたのし、あらたのし』と言いながら周ります。

国造(こくそう)は座ってそれを見ています。

千家氏(せんげし)曰く『釜の神事について』

『釜』は

『ほひのみこと』が天降る時に乗ってきた物と言っています。

飛騨の口碑ではこれは

『ほひのみことをオオナムチの子供達がバラバラにして煮て食べた』

と解説しています。

元々、飛騨の口碑で食人族が海を渡り人が食べられるという事があり、今の富山に防衛の為に国を造ったとあります。

悲しいかな、、、オオナムチが子供を作った相手はその食人族だったと個人的には想います。

(なかなか、、、食人族なんていませんからね。)

では続きます。

ほひのみことを食べた後、どうするか悩んだシラギ神崇拝教はほひのみことの亡骸を

『水に沈めました』

そして

シラギ神崇拝教は

『ほひのみこと(国造)は永生だから墓は無い』

という言い訳をしています。

※永生とは(永遠に生きている、永遠に絶えることがない。という意味)

出雲大社には

『国造(今で言う宮司)が死去すると次の国造は直ぐに違う場所で神事を行う。

終わったと知らせが入ると亡くなった国造を小門から赤い牛に乗せて運び出し

杵築(きづき)の東南の池に水葬する事になっていた』

とあります。

また江戸時代には

『国造の父が死してもその族は泣く者なく、子は父の葬に会うことなく喪に服することもない』

と書かれていたそうです。

そして

幼いほひのみことの子供を新国造として

オオナムチの子供達が裏で実権を握っていたのでした。

また『相撲神事』の事も書いてあります。

鶴山と亀山が相撲をします。

相撲をとる前に鶴山が新国造にお酌をします。

鶴山が新国造にお酌をする事から

鶴山=ほひのみことの身内(飛騨)

亀山=オオナムチの子供達(出雲)

(鶴=飛騨=天尊 亀=出雲=シラギ神崇拝教)

どちらが勝ったかは神事では言わない様です。

しかし

『鶴は千年亀は万年』という事から相撲をする前から勝負はついていた。

という事です。

ちなみに出雲大社の神紋は

こちらです。

画像5

亀甲紋と剣花菱(けんはなびし)です。

亀甲=亀の甲羅 剣花菱=剣と花です。

※現在の出雲大社=飛騨の口碑の出雲大社ではありませんので、そこは間違えない様にお願いします。

ただ、個人的には何らかの飛騨の口碑の出雲とは関係性があったとは想っています。

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この様にオオナムチの子供達は復讐と乗っ取りをどんどん進めていきました。

ここまでは大丈夫でしょうか?

簡単にポイントを纏めます。

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淡山(乗鞍岳)の丹生池から人類誕生

陸地が増え、若い子達は飛騨から全国に広がる。

食人族が海を渡り飛騨の人間を食べる事件が起きた為に富山に防衛国を造る。

飛騨王朝の天照大御神の娘とオオナムチが結婚し子供が出来る。

オオナムチが沢山の浮気をして子供を作る。

その沢山の浮気相手に新羅の女性がいた。

後に成長した新羅の子供達が出雲の王オオナムチに逢いに来る。

しかし現実は50mもの高層牢獄に囚われていた。

そして新羅のオオナムチの子供達は新王ほひのみことを殺して食べた。

ほひのみことにした仕打ちが謎の神事として出雲大社に残っている。

幼いほひのみことの子供を新国造にして裏で新羅のオオナムチの子供達が実権握った。

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ざっと纏めるとこの様な事が飛騨の口碑には書かれています。(一部です。)

では更に飛騨の口碑の個人的なポイントを簡単にお話ししていきます。

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新羅のオオナムチの子供達は出雲の実権を握った。

しかし武力では飛騨に敵わないのは理解していたので『宗教』『信仰』で攻める事にした。

オオナムチが亡くなった後の牢獄を『社』として利用しました

問題は誰を祭神にするかです。

オオナムチを祭神にする訳にはいきません。

そこで『イソタケル』を祭神にしました。

イソタケルとは?

日本書記や古事記や先代旧事本紀にも登場する

『スサノウ』の『子供』です。

簡単にお話しするとイソタケルはスサノウと

『新羅』から出雲に渡ったと書いてあります。

飛騨の口碑では

このイソタケルはスサノウの子供では無く

大国主(オオナムチ)が新羅で作った子供であるとしています。

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まずは古事記の内容を簡単に

大国主神の元に海の向こうから小さな神がやって来たが名を尋ねても答えず。

誰もこの神の名を知らなかった。

するとヒキガエルの多邇具久(たにぐく)は

『久延毘古(くえひこ)なら、きっと知っているだろう』と言うので久延毘古を呼び小さな神に尋ねると。

その神は

『私は神産巣日神の子の少名毘古那神(スクナヒコ)である』

と答えた。

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様は久延毘古(くえひこ)は『通訳係』だった訳ですね。

古事記には

久延毘古とは『山田のそほど』の事。

と書かれています。

『山田のそほど』とは『かかし』の事の様です。

かかしは

『田の神 農業の神 土地の神 山の神』ともされている様です。

またクエヒコには

『朽ちた男や杖彦(つえの男)や知恵の神や道祖神などの意味もある様です。』

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さて飛騨の口碑ではこの様にクエヒコを通訳としてスクナヒコと会話をして

『スクナヒコ少年』は1人で海を渡ってきた勇敢な子として

『イソタケル』と言う名を貰う。


『スクナヒコ=イソタケル』


飛騨の口碑では


『イソ』とは新羅の曽戸茂梨(そしもり)に

居(イ)たソの人という意味です。

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そして大昔、オオナムチ、大国主以前は出雲大社は

『曾(ソ)の宮』と呼ばれていました。

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古事記には(簡単に説明します。)

曾の宮とは高層出雲大社が出来るまでの間に

神名火山(かんなびやま)(仏経山)の、山頂にある。石砢(いはくま)の曽の宮に大国主が祀られていたとあります。

元々は石砢(いはくま)の曽の宮は

曽枳能夜(そきのや)神社のご祭神

岐比佐都美(きひさつみ)が祀られていた場所で『初代出雲国造』だと書かれています。

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この事からすると『曾の宮』にも何か色々ありそうですね。

話を続けます。

オオナムチ死後の牢獄を『社』『曾の宮』に変えます。

『曾の宮』には『イソタケル』を祀ります。

実はイソタケルは若くして亡くなってしまったのです。

その事をオオナムチの新羅の兄弟や何も知らない出雲の人達は嘆き悲しみました。

それを逆手に取り

オオナムチは牢獄に幽閉されていたのでは無く

曾の宮で『イソタケル』を祀っていた。

オオナムチ死後は『ほひのみこと』が

『イソタケル』を祀っていた。

そして今は新羅のオオナムチの子供により実権を握られた『ほひのみことの子供』が『新国造』として

『イソタケルを祀っている』

という事にしたのです。

それが飛騨の口碑で言われている

日本初の新興宗教

『シラギ神崇拝教』です。

そしてより多くの新羅の人達が出雲に来る様になりました。

まぁ出雲に行きやすかったんだと想います何せ

出雲に行けば同族の人が居るので言葉で困る事がなかったでしょうし。

何せ出雲唐人(いずもとうじん=外来の人)という言葉が日本に残っているぐらいなので沢山来ていたと、この様な事からも推測できます。

では話を簡単に続けていきます。

この様に新興宗教のシラギ神崇拝教を武器として

オオナムチの新羅の子供達は復讐を進めていきます。

飛騨の人々は天照大神の命により大和に都を移す為

天照大神の孫たちが大勢の者を引き連れて近畿一帯に降りて近畿一帯を開拓しました。

孫の一人のニギハヤヒは大和の御諸山(みもろやま)に拠点を置いていました。

しかし実際には御諸山(みもろやま)には

ニギハヤヒは祀られてはいません。

※『御諸山とは三輪山』の事です。

何故?

三輪山にニギハヤヒが祀られていないのか?

飛騨の口碑から簡単に説明していきます。

オオナムチの新羅の子供達また、孫やひ孫や身内もシラギ崇拝教を武器に『大和』を目指して移動していきました。

十代目の崇神天皇(すじんてんのう)の時に

疫病が流行り半数以上の民が亡くなりました

崇神天皇は神に祈ったり占いをしたりして色々と頭を悩ませました。

そこにシラギ崇拝教の占い師が付け入りました。

『この疫病の原因は宮中に神を祀っているからです!神を宮中から外に祀りなさい!』

と言い。

崇神天皇はシラギ神崇拝教の占い師にまんまと騙され

『八咫鏡とニギハヤヒの御魂を宮中から外に祀ったのです。』

※『八咫鏡』は皇位の印でありこの鏡を持っている人が天皇だからです。

※ニギハヤヒの御魂とは?

ニギハヤヒが生前身につけていた(勾玉と剣)だと言われています。


そしてニギハヤヒの御魂は行方不明になりました。

その当時、ニギハヤヒの御魂をヌナキイリ姫が祀っていました。しかし、シラギ神崇拝教の策略により御魂は行方不明になりヌナキリイ姫は責任を感じて髪が抜け落ちる程に衰弱してしまいました。

また崇神天皇もニギハヤヒの御霊代が盗まれたなどとは大恥なので黙ってしまわれたのです。

そして困り果てた崇神天皇はニギハヤヒの御魂が無くなった今三輪山に誰を祀ればいいのか悩んでるいる所に、、、、、、

崇神天皇の側近(実はシラギ神崇拝教の者)が現れ

『大物主を祀れば良い。大田タネコを祭王にすれば良いと言います。』


飛騨の口碑では

※大田タネコは(イソタケル)の九世孫です。

シラギ崇拝教では大物主=イソタケル

これを利用しました。

崇神天皇が大田タネコに『お前は誰の子だ?』と尋ねると。

大田タネコは『私は大物主の九世孫です。』と答え。

崇神天皇は孫ならば申し分無しと大田タネコを祭王に任命しました。

崇神天皇の中では

『大物主=ニギハヤヒ=九世孫=大田タネコ』

だったのです。

これをシラギ崇拝教は利用して三輪山の乗っ取りに成功しました。

そして八咫鏡をシラギ崇拝教は狙います。


しかしシラギ神崇拝教は焦りません。

ゆっくりと蛇の様にその時を伺っていました。

しかしある事件が起こりシラギ神崇拝教の策略は失敗に終わります。

『日本書紀』には


『皇女(ひめみこ)モモソ姫は大物主神の妻となったのですが大物主は夜だけに来ていたので姫が顔を見たいと言うと。

『明日の朝わかります』と言いました。

次の朝になると三輪山の小ヘビであった。

姫は悔いてドスンと座り箸で陰部を突いて死んでしまわれた』

と言う話が日本書記にあります。

飛騨の口碑によると

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この話は(簡単に説明します)

大物主との間に子供が出来たモモソ姫は大変喜びました。

しかし子供が出来た後に大田タネコは自らの素性をモモソ姫に打ち明け。あまりのショックに

モモソ姫は自らの陰部を刺して亡くなった。

と飛騨の口碑には書いてあります。

モモソ姫=大物主=ニギハヤヒ

大田タネコ=大物主=シラギ神=イソタケル


ニギハヤヒの子供ではなくシラギ神崇拝教の

イソタケルの子供を身篭っていたんですね。

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そしてようやく、、、崇神天皇はシラギ神崇拝教の策略に気づきました。

そして『八咫鏡』が危ないと察して

トヨスキイリ姫に『八咫鏡』を持って逃げろと言い、それからトヨスキイリ姫はシラギ神崇拝教から逃げ続けるのです。

しかし、逃げては見つかりそうになり、また逃げてを繰り返しました。

そんな事を何年も続けるうちにトヨスキイリ姫も

心身共に疲れ果て、その役割を『ヤマト姫』に託します。

ヤマト姫も逃げました。

しかし、途中でヤマト姫を助けた村などがシラギ神崇拝教によって差別を受けたり最悪殺されてしまいました。

ヤマト姫を助けた村はヒダ村と言われる様になり

ヒダ村、ヒッタ村、エッタ、エタヒニン、エタなどと言う風に呼ばれる様になり飛騨の人々は

『被差別部落』に落とされてしまいました

この様な事が何年も繰り返えされました。

何故天皇は動かないのか?

飛騨の口碑には天皇には権威はあるが、武力は持ち合わせていなかった為にシラギ神崇拝教に対抗する手立てが無かったとあります。

そしてトヨスキイリ姫から始まりヤマト姫に続いた逃走も約30年後に終わりを迎えます。

ヤマト姫が三重県の『椿大神社』に着いたのです。

椿大神社は飛騨の人々が沢山住んでいた場所だったんです。

そしてシラギ神崇拝教もヤマト姫の行方が分からなくなります。

しかしシラギ神崇拝教は

『伊勢に居るのは間違いない』として

伊勢に『見張所』を作りヤマト姫と八咫鏡の行方を見張り続けました。

それが外宮だと飛騨の口碑では言っています。

更にシラギ神崇拝教は遂に皇室にまで入り込みます

民衆はシラギ神崇拝教に熱狂していたのです。

(個人的には熱狂もありつつ武力で民衆を押さえつけていたと想います。なので皇室にまで入り込む事が出来たのだと。また簡単に言うと以前の日本の『韓流ブーム』の様な事が起きていたんです)

28代宣化(せんか)天皇の時になると

『蘇我稲目(ソガイナメ)』

が大臣にまでのしあがってきました。


『蘇我』とは出雲のイソタケルの『ソ』であることを強調しています。

『我はソ(蘇)だ』とだから『ソ』を強調しています。

そして蘇我稲目(ソガイナメ)が亡くなるとその後を

『蘇我馬子』が大臣として跡を継ぎます。

そして

『蘇我蝦夷』『蘇我入鹿』も大臣になり蘇我氏の横暴はどんどん加速します。

そして遂に八咫鏡を手にいれ名実ともに天皇になる瞬間。

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が

蘇我入鹿(イルカ)を切りつけて殺したのです。


藤原鎌足(ふじわらかまたり)と諮(はか)っていたのです。

これにはシラギ神崇拝教の弱体化も関係しています。

仏教が日本に入ってきてシラギ神崇拝教に熱狂する人々がどんどん冷めていったのです。

(韓流ブームがタピオカに変わった。今風に言えばそんな感じですね)

そして蘇我入鹿を殺した事が決定打になったのです。

しかしシラギ神崇拝教の残党はしぶとく

シラギ神崇拝教を『出雲教』として名前を変えてまた布教活動に励みました。

仏教が入ってきた事で『漢字』も普及していき

元々

出雲が九つに分かれていた頃の

一地方である意宇(オウ)という(小さい)国の集団の主を

意宇国主(オウクニヌシ)と言っていたのを

漢字が普及した事により『大国主』と凄い大きな国の主の様に見せたけたりしたのです。

出雲教の布教活動は江戸時代まで続いたとあります。

全国あちこちのお宮さんの名前を変えさせたり

祭神を替えさせたり。

時には神主の一家を追い出して社を乗っ取ったりしていた様です。

そして祭神が変えられ今もなおそのままです。

さて。本当に簡単に飛騨の口碑の説明をさせていただきました。

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余談ですが。

(飛騨の口碑に関して。)

現在も飛騨の口碑について

『福来博士記念館』

と言う場所があります。

住所は

岐阜県高山市国府町八日町702 

(飛騨福来心理学研究所内)

心理学研究所という名前ですが至って普通ですので安心してください。

入場料は大人500円 子供200円です。

また飛騨の口碑に関するホームページもあります。こちらです。

飛騨の口碑に興味を持たれた方は内容が難しいかもしれませんが一度お読みになる事を個人的にはオススメします。

日本の昔の歴史を知る事で『真実のヒント』に触れることが出来ると想います。

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さて。ある種、ここからが本番です。

個人的なスタンスは今もnoteを始めた時から変わっていません。

古事記にしろ、日本書記にしろ、ホツマツタエにしろ、竹内文書にしろ、飛騨の口碑にしろ。

一つの書物に日本の全ての真実が書かれているとは想いません。

偽書だと言われいる物にも口碑にも

『真実のカケラ』や『ヒント』があると想っています。

では話を進めていきます。

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まずは飛騨の口碑の

『新羅』はお分かりいただけたと想います。

まぁ飛騨の口碑以外でも新羅は新羅なんで変わりは無いんですが。

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飛騨の口碑での新羅というポジションがどの様なポジションか?

それが分かったと想います。

食人族でありオオナムチ(大国主)の子供が沢山いる国で復讐に燃え、シラギ神崇拝教という新興宗教を作り、暴力や嘘で民を騙し、殺し、皇室に入り込み日本を乗っ取ろうとしていた。

簡単に言うとこんな感じですね。

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では本題の

『新羅が日本の歴史をゴチャゴチャにした』


の意味も今お話した飛騨の口碑で分かったと想います。

しかしです。

この『新羅』という表記?言葉?が更に

ややこやしくしていると個人的には想います。


何を?

簡単に説明します。

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飛騨の口碑バージョン

『新羅』=『渡来人』=『食人族』=

『オオナムチ(大国主)の新羅の子供』

ですね。

飛騨の口碑以外のバージョン

『新羅』=『渡来人』=『新羅系』=

『秦氏』

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となります。

厳密に秦氏がどこから来たのかは分かっていません。

色々な諸説があります。

基本的には『秦(しん)』(今の中国)の始皇帝の末裔だと言われています。

秦の場所はこちらです

画像3

そこから百済に行きました。

百済の場所はこちらです。

画像4

右に新羅がありますね。

その新羅に

秦氏が『辰韓(しんかん)』と言われる国を作ったという話もあります。

(秦韓(しんかん)とも表記されていた様です)

この辰韓(しんかん)の王に秦氏はならなかった。

(書物には辰韓(しんかん)と周りの国の言語や風習は違っていたが一緒に生活していたとある)

この辰韓(しんかん)が滅びた後に秦氏が日本に来たという説があります。

(諸説色々あり、ちなみに辰韓(しんかん)は

紀元前2世紀から356年まであったとされます。)

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さて僕が何を言いたいかもうお分かりですよね?

簡単に言えば

『新羅』という言葉には2つの種族が混じってる。

という事です。

『飛騨の口碑の新羅』と『秦氏の新羅』

上記にも書いた様に

辰韓(しんかん)と辰韓(しんかん)の周りの国とは

『言語が違う、風習が違う』

という事からも

一見した場合は『同じ新羅の人』の様に

見えるが実は違うという事になります。


そして先程話た。

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『常世神』の話です。

もう簡単に一度お話しします。

常世神とは新興宗教の神です。

秦河勝さんが何故?

大生部多(おおうべのおう)を討伐したか。

全国に秦人・秦部を抱え、殖産(しょくさん)興業を推進してきた秦氏としては

民の生産や経済活動を停止させる宗教は見過ごす事ができなかったとする考えがある。

渡来氏族である秦氏の秦河勝は新興(新興宗教の意味だと想います。)ではあるが

原始的な『神』を恐れることなく

大生部多(おおうべのおう)と対決、討伐できたのではないかとも言われる。

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まずは『大生部多(おおうべのおう)』

飛騨の口碑でいえば

出雲が九つに分かれていた頃の

一地方である意宇(オウ)という(小さい)国の集団の主を意宇国主(オウクニヌシ)と言っていた。

(意宇(おう)が九つに分かれていた。ならばこれは『ヤマタノオロチ』か?)


意宇(おう、おお)

大田タネコ=おおた(おうた)たねこ

おうた=出雲=出雲のたねこ

飛騨の口碑では『大田タネコ』の名前はこの様に解釈出来ると言っています。

ならば

大生部多=おおうべのおう

おお(おう)=出雲 部=村?の 多=おさ

あくまでも個人的にはこの様に解釈出来るんじゃないかと想っています。

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次に

全国に秦人・秦部を抱え、殖産(しょくさん)興業を推進してきた秦氏としては

民の生産や経済活動を停止させる宗教は見過ごす事ができなかったとする考えがある。

渡来氏族である秦氏の秦河勝は新興(新興宗教の意味だと想います。)ではあるが

原始的な『神』を恐れることなく

大生部多(おおうべのおう)と対決、討伐できたのではないかとも言われる。

確かに秦氏が民の生産や経済活動を停止させる宗教は見過ごす事ができなかった。

これも理由の一つだと想います。

しかし個人的には最大の理由は、、、、、

『同族と想われる事が嫌だった』

ではないかと想います。

『新羅』という言葉一括りで

自分達が共に日本人と共存、共栄してきた平和が壊されてしまうのを見過ごす事が出来なかったんではないでしょうか?

なので秦河勝さんは大生部多(おおうべのおう)を

討伐したと個人的には想います。

そして秦氏は出雲の事を知っていたんじゃないか?(飛騨の口碑の出雲の事件)とも想います。

また常世には『海の向こう』という意味がありましたよね。

この事から

海の向こう=新羅=シラギ神崇拝教とも考える事が出来ますね。

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さて次です。

以前のnoteに今後ポイントになるから覚えておいてください。

と言ったのを覚えていますか?

そう今回登場しましたね。

ホツマツタエの後半の作者

『大田タネコ』です。


この事からホツマツタエの後半は果たして信用していいのか?

シラギ神崇拝教の良い様に書かれていないか?

と個人的には疑いの気持ちもあります。

この様な事もあるので日本の歴史が一冊に纏まった書物は存在しないと想っています。

でもだからホツマツタエは偽書だとか飛騨の口碑は嘘だとは想いません。

日本の本当の歴史は色々な書物や口碑にパズルのピースの様に散らばっていると想っています。

では次に行きます。

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飛騨の口碑では

被差別部落=ヒダ村 ヒエッタ エッタエタ エタヒニンと言われていた。

元々天孫は『飛騨』から降りてきた人々の事を

『天孫』と言っていました。

それをシラギ神崇拝教の策略や暴力により山奥などに追いやられ人間以下の扱いを受けていました

その山奥に逃げた飛騨の人々を『サンカ』と言ったとあります。

そう。『サンカ』です。

竹内巨麿さんは『サンカ』でしたね。

竹内巨麿さんと言えば、、、、、、、

『竹内文書』ですね。

竹内文書は

古代の文書を装ったとされる偽書。神代文字で記された文書と、それを武烈天皇の勅命により武内宿禰の孫の平群真鳥(へぐりのまとり)が漢字とカタカナ交じり文に訳したとする写本群と、文字の刻まれた石、鉄剣など、一連の総称。天津教の聖典とされる。

とあります。

竹内巨麿さんは

平群真鳥(へぐりのまとり)の子孫であるとされる竹内家に、養子に入ったと自称する竹内巨麿(たけうちきよまろ)が、1928年(昭和3年)3月29日に文書の存在を公開した。

そして竹内巨麿さんが『神代文字』を読めたのは

『サンカだったから』と

武内宿禰の73世子孫の竹内 睦泰(たけうち むつひろ)さんが言っていますね。


しかし飛騨の口碑で『サンカ』とは元々は天孫

飛騨の人々がシラギ神崇拝教に山奥に追いやられた事により『サンカ』『穢れ(けがれ)』と言われる様になる。

この事から竹内巨麿さんがサンカなら

『神代文字』を読めた事は何ら不思議では無い。

(そもそも神代文字を使っていたのが飛騨の人々である可能性がある事からサンカなら神代文字を読めたり書けたりする事は当たり前だと想われる。)

そして竹内巨麿さんが本当にサンカなら

竹内巨麿さんの身内は飛騨の人々=天孫だった事になる。

そして、この事から

竹内文書の原型は飛騨の口碑となる。

何故か?

以前もお話した様に竹内文書の原型も

『口伝え 口碑だ。』

ならば

『竹内文書=飛騨の口碑』

という以前からnoteに書いている事の信憑性も上がると想う。

しかし先程からも書いている様に仮にそうだとしても信憑性があがるだけで全てが真実だとは想わない。

あくまでも散らばったパズルのピースの1つだ。

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では次へ行きます。

飛騨の口碑では『日枝神社(ひえいじんじゃ)』はシラギ神崇拝教に乗っ取られたとあります。

日枝神社(ひえいじんじゃ)のご祭神は大山咋(おおやまくい)です。

出雲で起きた新興宗教シラギ神崇拝教の神です。

『昔、古神道の神が祀られていた社』が

シラギ神にすり替えられてそのまま今日なお祀られ続けているのです。

それは大山咋の神名がシラギ神とは全然わからないために、シラギ神が失墜したときにかろうじて失脚を免れたと思われます。

と飛騨の口碑にはあります。

また

大山咋(オオヤマクイ)の神。

別名を山末之大主神(ヤマスエノオオヌシノカミ)です

この神は近江の日枝(ひえ)の神で。また松尾(まつお)の神である。

と飛騨の口碑には書いてあります。

ポイントはお分かりですね。

まずは『日枝』は『ひえ』ですね。

ひえ=ヒエッタやエッタやヒエですね。

飛騨の口碑が言っている様に元々は

日枝神社は古神道の神が祀られていた社だと想います。


その神は簡単にいうなら

『山の神』でしょう。

何故なら飛騨の口碑の人々は乗鞍岳の

丹生池(にゅういけ)から産まれた、そして自然崇拝なら尚のことです。

大山咋(オオヤマクイ)の神も山の神ですから。

そこをシラギ神崇拝は利用したと考えられます。

どう利用したか?どう変えたか?

個人的には『大田タネコ』の言葉の変化と似ているんではないか?と想っています。

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大山咋=おおやまくい

大山(乗鞍岳)を飛騨と考えます。

では

『大山咋』の『咋』とは?

咋とは『食う、食らう』という意味です。

個人的には間違いなく、、、bingoです。


『飛騨を食らう』=『シラギ神崇拝教』

『大山咋』=『シラギ神崇拝教』で間違いないでしょう。


そして飛騨の口碑では

大山咋この神は近江の日枝(ひえ)の神で。また松尾(まつお)の神であると書いてある。

しかし

松尾大社は『秦氏』が造りましたね。

この事からも飛騨の口碑の

『新羅』はやはり2つの種族が混ざっていると考えられる。

では本当の日枝神社のご祭神は誰か?

『大山津見神 おおやまつみのかみ』

ですね。

一説には

伊勢神宮豊受大神宮(外宮)の摂社である山末神社(やまずえ)は

大山津姫命を祀るが大山咋神が祭神だとする説もある。

と言われています。

先程の飛騨の口碑の伊勢に逃げ込んだヤマト姫と

八咫鏡を監視、捜索する拠点が『外宮』だったと言われています。

その事からしても

『外宮の摂社である山末神社は大山津姫命を祀るが大山咋神が祭神だとする説もある。』

と言っている人達がシラギ神崇拝教の可能性は高いと個人的には想う。

山末神社も分解すると

『山』と『末』=『山の神の末裔』=『飛騨』と考えられる。

また

松尾大社のご祭神について

比叡山の日吉大社(滋賀県大津市)の祭神と同じくする神である。

とある。

日吉大社のご祭神は

西本宮に大己貴神(オオナムチまたは、オオアナムチ、または大国主)、東本宮に大山咋神とある。

この事から先に日吉大社ありきなんですね。

では日吉大社はいつ頃からあったのか?

日吉大社は崇神天皇7年にに創祀され、全国3800余の日吉・日枝・山王神社の総本宮です。

とあります、、、、、、

先程の話を覚えていますか?崇神天皇の時に

ニギハヤヒの御魂は無くなり、八咫鏡は狙われ、

姫は亡くなったんですね。

という事は日吉大社が創祀されて間もない頃にぐらいに三輪山はもうシラギ神崇拝に乗っ取られていたのかもしれませんね、、、、、、

しかし日吉大社で有名な『神猿(まさる)』

実際に社務所前にいる『リアルな神猿さん』

飛騨の口碑では神武天皇の幼い頃の名前が

『サヌ』という名前だとあります。

『サルではないですよサヌですよ』と飛騨の口碑では教えています。

しかしこれは見方を変えてみると

何故?日吉大社に『猿』がいるのか?

日吉・日枝・山王神社の総本宮であり

飛騨の人々の古来の神々である事の証明にもなるんじゃないかと想います。


シラギ神崇拝は本来『サヌ(神武天皇)』を『サル』として飛騨の先祖を馬鹿にしていたのか。

もしくは崇神天皇の暗号的なものだったのかもしれませんね。

日吉大社のご祭神はシラギ神崇拝教に乗っ取られても必ず本当の事に行き着く様にサヌをサルに変えたのかもしれません。

神猿(まさる)=魔が去るで魔除けの象徴になっている。と日吉大社の説明には書いてあります。

(※一般的には鬼門封じの意味の様です)

しかし

個人的にはもう1つあって

神猿=神と猿=かみさる=かみさぬ=

かみ+サヌ(神武天皇幼少の名前)=

神武=大山津見=飛騨の神々

こんな暗号?を崇拝天皇は残してたのかもと個人的には勝手に想っています。

さて話を続けます。

日吉大社の大己貴神(大国主、おおなむち)は668年に大物主から大己貴神に変えたとある。

668年は中大兄皇子が天智天皇になる。

669年に中臣鎌足が亡くなる

671年に蘇我赤兄(そがのあかえ)を左大臣する。

672年に壬申の乱(じんしんのらん)により

左大臣蘇我赤兄が流刑になる。


この流れを見るとシラギ神崇拝は中大兄皇子が

天皇になる前に日吉大社のご祭神をすり替えた

(シラギ神崇拝からしたら蘇我入鹿が殺された事により更にシラギ神崇拝が弱体化する事を察していたからか?)

そして中臣鎌足が亡くなった?(殺された気もするが)

後にシラギ神崇拝の残党が蘇我赤兄臣を持ち上げる。

が僅か1年で蘇我赤兄は流刑になる。

この事を考えるとシラギ神崇拝教の残党はこの時まで足掻いて様にも感じる。

がしかし、、、、、

松尾大社は701年に造られたとある。

という事は701年の時にもシラギ神崇拝は足掻いていた可能性は高いと想う。

松尾大社のご祭神は日吉大社と同じという事にしたかったのは松尾大社を乗っ取りたかったからではないだろうか?

671年に蘇我赤兄を左大臣する

誰が推薦したのか分からないが少なくとも蘇我氏の勢力はこの時もまだある程度の影響力があったと考えられる。

しかし松尾大社に関して個人的に想う事がある

実は

『松尾大社は実は表向きの為の物ではないのか?』です。


松尾大社のご祭神は大山咋神だけではない。

市杵島姫もご祭神なんです。

そして松尾大社と言えば忘れてはいけない

『月読神社』です。

松尾大社の月読神社は

長崎県の壱岐市の月読神社が大元です。

そして『487年』に

壱岐の月読神が

『私は月神である。私を京都にまつりなさい。その通りにすれば日本国中が幸せになるだろう』

と言い。

それを聞いた阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が天皇に伝え

京都の嵐山に月読神社が出来た。

(実際は造るまでに何年かはかかったと想う)

という事は松尾大社が出来る約220年前には月読神社が出来ていた事になる。

そしてこの

『長崎県壱岐市の月読神社は秦氏との繋がりが強い神社だ』

それは長崎市の月読神社もそう話ている。

この事から勝手な推測だが

『秦氏が松尾大社を造る理由は無い』

と想う。

秦氏にしてみたら嵐山に月読神社が造られる事の方が松尾大社を造る事よりも重要な気がする。

なので松尾大社は何らかの理由で造ったと想う。

そもそも松尾大社は

文武天皇(もんむてんのう)の勅命を

秦忌寸都理(はたのいみきとり)が受けて造った。とある事から個人的には、この文武天皇がシラギ神崇拝教もしくは出雲教の残党に脅されていた?騙されていたのではないか?もしくは他の理由があった?のではと想う。

何故なら

秦氏の場合は簡単に言うと

元々秦氏の神が祀られていない神社を秦氏が祀る場所は在地神(ざいちかみ)を尊重・継承する。

この祀り方は秦氏の祭祀姿勢の特徴に挙げられるとある。


簡単に言うとその土地の元々の神を優遇する1番にして継承しながらも秦氏関係の神も祀る。だから順番的に言ったら秦氏の信仰する神は2番という事になる。

なので松尾大社のご祭神に市杵島姫が居る事から

秦氏ゆかりのご祭神は市杵島姫だという事。

なので701年に造られた

『松尾大社の大山咋はこの時すでに

シラギ神崇拝に利用されていた。』

そして

秦氏は松尾大社を造る理由が無かった。

と考える事が出来ます。

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話は日吉大社の話をもう少し。

日吉大社は以前は『日吉(ひよし)』では無く

『ひえ』と言われていた様だ。

なので日吉大社も元々は飛騨の古来の神々を祀っていた場所だと想う。

この事からもシラギ神崇拝教はどうしても

『大物主(ニギハヤヒ)を=

『大物主(大国主)(おおなむち)』=イソタケル』

にしたかったんだろうと想う。

この様な事から更に分かる事は

『シラギ神崇拝は秦氏も利用していた』

と考える事が出来る。

実際には同じではないが同じ『新羅の民』として先に日本に来ていた『秦氏』を上手いこと利用して自分達には『力』があると示したかったのかもしれない。

そんなシラギ神崇拝教は

飛騨の人々の古来の神々を利用し

飛騨の人々を苦しめ

秦氏の神を利用し

秦氏を同族として利用し

天皇も利用していた。


と個人的には今お話した事からその様に考える事が出来る。

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さてここまでの話を聞いて、皆さんはどの様に想いましたか?

日本の神話や歴史は本当に深いものやゴチャゴチャしたのもがあると改めて想いました。

また日本人や秦氏の様に日本に帰化した人にも色々あるんだなぁとも改めて感じましたね。

まぁでも物凄く単純な話

『浮気してやたらめったらに子供作りすぎなければ、、、、、』


こんな事にはならなかったんじゃないかな?

とも想いますが。

さて今回は一度ここで終了します。

(※注意 現在の出雲大社がシラギ神崇拝教だと言っている訳ではないので、そこは注意して下さいね。

ただ個人的に少し想う事を素直に書くならば、金比羅山が神社庁から抜けた件はもしかしたら?飛騨の口碑でいう所の

シラギ神崇拝教的な人物が関係しているのかもしれないな?と想ったりしています。)


さて

次回は今回の様に堅苦しい話ではありません。

話は一気に?!

『SF』的な話に変わります(笑)

今回、お話した内容の考察していない部分のお話になります。

なので今回考察していない部分が

『Key』になります。

さてさと

どんな展開になるかは次回までのお楽しみで。

次回は一緒に時空を超えちゃいますか? 

今回は以上になります。

ありがとうございました。

臥龍桜でした。

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