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N-001 ミロ島ヴィーナス全身像

石膏像サイズ: H.216×W.65×D.52cm(原作サイズ)
制作年代  : 紀元前130~100年頃
収蔵美術館 : ルーブル美術館
作者    : アンティオキアのアレキサンドロス(Alexandros of Antioch)
出土地・年 : ギリシャ・ミロ島(Milos)

19世紀前半、エーゲ海・キュクラデス諸島の一つであるミロ島(Milos)で発掘されたヴィーナス像で、古代ギリシャ・ヘレニズム期に製作されたオリジナル大理石彫像です。ルーブル美術館の至宝とされています。過去にルーブル美術館外へ貸与されたことは一度しかなく、1964年4月~6月に東京、京都での展示が実現しています。1900年頃にルーブル美術館で一度だけ型取りされた記録が残っており、石膏像はその時の複製物を原形にしていると推定されます。

①ヴィーナス像の発見

1820年4月8日、島の農夫のヨルゴス・ケントロタス(Yorgos Kentrotas )は、古代ギリシャの劇場跡の遺跡付近の畑を耕していたところ、一種の地下墓所のような洞穴を見つけ、その中でヴィーナス像の上半身と、ヘルム柱、大理石の破片を数点発見しました。その後ほどなくして、下半身も発見され、このとき、右手、リンゴを持つ左手、左手上腕部、結った髪の断片、洞穴入口に取り付けられていた奉納文を刻んだ大理石板、左足断片なども発見されました。

当時のギリシャはオスマントルコの支配下にありましたが、東方の海域を常時巡回していた艦隊の乗組員であったフランスの海軍士官オリヴィエ・ヴーティエが、たまたま島に立ち寄りヴィーナス像発見の場に居合わせたことで、この発見の重要性が認識され、ミロ島駐在の代理領事であったルイ・ブレスト(Brest)へと報告されました。ブレストは彫像をフランスの所有物とするべく奔走し、4月12日にはスミルナの総領事ダビッドにあてて発見を報告するとともに、政府予算での購入を提言し、一方では島の長老たちと協定を結び、フランス側に先買権があることを約束させます。19日にはフランスの軍艦「ラ・シュブレット号」が到着し、マットレール中尉、デュモン・デュルビル(Dumont d’Urville)士官候補生がこの彫像を目撃します。デュルビルは、ギリシャ語を原典で読み、考古学にも造詣が深かったため、この大発見の意義を十分に認識しており、作品を調査し略図もスケッチしたうえで、駐コンスタンティノープル大使のド・リヴィエール侯爵へ報告しました。デュルビルからの報告と、スミルナの総領事からの照会をほぼ同時に受取った駐コンスタンティノープルのフランス大使リビエール侯爵(Riviere)は、躊躇せずに自身の資金で購入することを決断し、書記官マルセリュスをレスタフェット号でミロ島に派遣します。船は5月23日に出発しましたが、この時点で彫像発見から6週間が経過していました。一方、島では彫像を巡って様々な駆け引きが行われ、島の長老たちはトルコ側に売却する決定を下してしまいます。彫像は海岸まで手荒く運ばれ、すでにトルコの艦船に積み込むためのランチの船上にありました。トルコ船への荷積みの直前になって、レスタフェット号がミロ島に到着し、何らかの交渉の末(話し合い、小競り合い、など資料によって経緯が異なる)、最終的に彫像はフランスの所有物となって船に積み込まれました。レスタフェット号はスミルナまで彫像を運び、さらにラ・リオンヌ号に積み替え、10月24日にはリビエール侯爵をのせてコンスタンチノープルを離れました。1821年2月中旬、船はパリに到着し、彫像はルーブル美術館に収蔵されました。5月1日、リビエール侯爵から国王ルイ18世に献上され、国王はこれをフランス国に贈りルーブル美術館の収蔵品となったのです。

②製作者・年代について

現在では、彫像は紀元前130~100年頃のヘレニズム期に製作されたものとする評価が定着しています。作者については、碑文が存在したとされる台座断片が行方不明となってしまったため、断定するには至っていません。発見当初は紀元前5~4世紀の古代ギリシャ・クラッシック期のものと分析されました。これはプラクシテレス作のヴィーナス像を現代に伝えているとされる「クニドスのヴィーナス(紀元前4世紀頃の作品)」との類似性を、当時のフランス考古学界の権威であったカトルメール・ド・キンシーが指摘したことによるものでしたが、現在では支持されていません。現在の考古学的な見解によれば、石片の組み合わせの方法、頭髪や衣文の加工技術、様式によって、この像は明らかに紀元前2世紀末に位置づけられます。顔の表情などに紀元前4世紀以前のクラッシック期な要素が含まれてはいますが、それはこのヴィーナス像を製作したヘレニズム期の作者が古典期の名作から多くのエッセンスを吸収し、自作に生かしたからであろうと想像されています。

③ヴィーナス像の本来の姿

彫像の本来の姿を復元する試みは、発見当初から様々な案が提出されましたが、いずれも決定的なものではありません。胴体部分と同時に発見されたいくつかの断片の存在が、このヴィーナス像の本来の姿を想像することをより難しいものにしています。ヴィーナス像のすぐそばで発見された大理石の断片は、その全てが必ずしもヴィーナス像の一部であるとはかぎりません。また、彫像制作から発見までおよそ2000年の年月が経過していることを考えると、その間に彫像が補修、改変されている可能性も否定できません。

ドイツの美術史家アドルフ・フルトウェングラー(Adolf Furtwangler)は、同時に発見された様々な断片を検証、再考することによって、この彫像の本来の姿の提示を試みました。フルトウェングラーの復元案では、発掘時に存在し、後にルーブル美術館内で消失してしまった台座部分の断片が重要な役割を持ちます。その断片には、「マイアンドロスの(アンテ)ィオキア人、メニデスの子(・・・)アンドロスこれを作る」と刻まれ、さらに上方にヘルム柱を穿つためのホゾが残されていたことが記録に残っています。まずこの碑文の書体から、彫像の制作年代がクラッシック期ではなく、もっと新しい時代のヘレニズム期の作品であると判断されるようになりました。さらにヘルム柱の存在が、彫像の全体像、特に不明確な左腕の様子を推測するヒントとなっています。右手については腰部の上辺で布をおさえているという仮説が有力ですが、左手については①リンゴを持つ、②笏(しゃく)を持つ、③アレスの盾を持つ、などあまりにもたくさんの仮設が存在し、どれも決定的なものとはいえません。他にも英国の医師タラル(Claudia Tarral)、アンリ・ルシャ(仏 Henri Lechat)などがそれぞれに復元案を提示しました。さらに彫像を群像としてとらえる意見もあり、ヴィーナスの横にアレスがたたずむ図案なども検証されました。

④ヴィーナス(アフロディテ)について

ヴィーナスとは、ローマ神話に登場するウェヌス(Venus)の英語読みです。ウェヌスは元々“魅力”を意味する言葉から来た名前で、本来は菜園・庭園の女神でした。ローマがギリシャ文化を取り込む中で、ギリシャの愛と美の女神アフロディテ(Aphrodite)と同一視されるようになり、その後は両者はほとんど区別なしに古代に於ける美神を表すものとして使われるようになりました。アフロディテは、オリンポス12神の一人ですが、ギリシャ本来の神ではなく古代オリエント地方の豊穣と繁殖の大地女神の信仰の流れを引くものと考えられています。ヘシオドスが神々の系譜を説明した「テオゴニア(神統譜)」という文献では、アフロディテは海水の泡から生まれ、キプロス島に流れついたことになっています(ボッティチェリの描いた「ヴィーナス誕生」)。原初の神々の次の世代として発生したティタン族のひとりであったクロノスは、父である天の神ウラノスと対峙し勝利します。その戦いの中で切断されたウラノスの男根が海へと投げ捨てられ、その周囲に発生した泡の中からアフロディテが生まれたとされています。

ヴィーナスを語るうえで、「パリスの審判」のエピソードは重要です。かねてから美貌に自信を抱いていたヘラ、アフロディテ、アテナという3神は、不和の神エリスによって投げかけられたヘスペリデスの林檎(“一番美しい人へ”と記されていた)を奪い合い、ゼウスに判定を求めます。持て余したゼウスはトロイの王子パリスにその任を委ね、パリスはアフロディテを最も美しい存在としたのです。このエピソードから、リンゴはヴィーナス像と密接に関連付けられることが多く、リンゴを手に持つヴィーナス像は「勝利のヴィーナス(Venus Victrix)」と呼ばれます。

ルーブル美術館収蔵 「ミロのヴィーナス像」 紀元前130年頃
(写真はWikimedia commonsより)



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