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月刊コグマ#4 春を呼ぶ雨

新しい年度が始まると不思議と創作意欲がわいてくる。

”新しい”という言葉には魔力があって、何かやったことのないことを始めてみよう とか 心機一転だ とか言って勝手に自分の体を動かしてしまう。

これの悪いところは、自分も”何かをしているんだ”という気分に囲まれてしまい、何も成せていないのに成せた気分になってしまうところだ。

自分はチェリーなので、女の子と話をするだけで この子は自分に気があるのかもしれない!!と勘違いするバカなのだが、この”勘違い”は直そうにも直せないのがまた苦しい。

だって、女の子と話すの楽しいし。
男と話してるよりも、なんか成長してる!って感じがするし。
まだ関わっていたいって心の奥底が叫んでる感じするし。

なんだろうなぁ。
単純に羨ましい。
けど、こんなことを言ってる自分が恥ずかしい。

成長のための踏み台がどうのって考えてる時点で
どうかとも思うんだけどさ。


🌸わたしを忘れないで

最近、桜の花言葉を知った。
と言っても、フランスでの花言葉だけど。

電車を降りるまでの間、いつも漫画やSNSを使ってひまをつぶしているのだが、その中でその花言葉と出会った。

僕は桜が好きだ。
まぁ、日本人はみんな桜好きだと思うんだけど。

だって、お花見とか好きでしょ?
レジャーシート広げて、食べ物用意して、大人はお酒も持って。

そういえば昔、愛知県に住んでた頃は近くの観覧車がある大きな公園で花見をしていた。

いざ花見に行こうと家族で出発したは良いものの、結局空いてる場所は一つも無くって帰った時もたくさんあった気がする。

その公園の近くにはそこそこ大きなスーパーがあったり、プールがあったり、本当にいろんなものが入っているところだったので、そこまで空いている日がなかった印象だ。

うろ覚えだけど。

そんないい思い出のある桜が、
まさか重い子みたいな花言葉を持っているとは!

『私を忘れないで』
なんて。

でも、正直な話、こういうことを言われてみたい自分がいるのも事実だ。
どれだけ愛されていたら、こんなことが言われるのだろうか。

そういえば桜といえば、こんなエピソードがある。

ちょくちょくここでも話しているとは思うのだが、僕は以前、高校時代までは吹奏楽部に所属していた。

高校の頃、ちょうどこの季節は定期演奏会が近く、週末なんかは駿府城公園のすぐそばのホールで練習をしていた。

昼休憩のときのこと。

どうせなので、駿府城公園まで散歩にいこうと思い、そこまで向かうとたくさんの桜が綺麗なピンク色を咲かせていた。

桜のこのピンク色が誘惑や恐怖の隠喩ととられる作品が多くあるのにも合点がいく。

たしかに、このピンク色が自分を誘ってどうにかしようとしてる気がするし、
この木の根っこに死体が埋まってないとこんなに美しいピンク色は出ない気がする。

人間の血を吸い上げて、白が滲んで、あのピンク色を作りだしている。
そうしてまた花を咲かせてして、また自分の養分を誘う。

だから、常にこの美しいピンクが語り掛けてきているのだ。
毎回毎回記憶に残るように
『わたしを忘れないで』と。

ちなみに、日本での桜の花言葉は
「精神美」「優美な女性」「純潔」
らしい。
(Google調べ)

まぁ、そんな雰囲気はするよね。

そんな恐ろしさよりも先に、綺麗だなぁって思うし。

結局今年はお花見行かなかったなぁ。
まだ上野の桜は咲いてるのかな。

もうすぐGWだし、また足を運んでみるのも良いかもしれない。


自分の中心にあるもの

『その瞬間、今まで見ていた景色がまるで昔、見たことあるかのように、ダブってみえた。』

自分ってどんな人間なんだろう?
どんな人間に映っているのだろう。

そんなことを考えるとき、
とりあえず一つ思い浮かぶのは、

カッコつけたがり
という点だろう。

自分はずっとカッコいいと思われたい
と思って生きているふしがあるから、
その言葉を言われたら嬉しいのは当たり前だ。

あと、自分についてきてくれる人がいると
背伸びをしたくなる。

実際、彼らにどう映っているのかは分からないが、先輩風を吹かせているようにでも見えるのだろうか。

それでいて、甘えたがりな自分がいることも確かだ。

現状が現状だからこそ、自分で掴まなくては手に入れられないよねっていうスタンスで生きてるけど、
実際のところ、僕はリードされたい人間だし。

自分の考えや行動に確信が持てないから、引っ張られる方が気が楽なのだろう。

でも、それって考えの放棄をしてるのと同義だとも思う。

そんな放棄した生き方じゃ本当に望んでるものも得られない気がする。

それを言ったら神頼みの生き方だってそうだ。

宗教団体を批判するつもりは無いが、そんな思考停止みたいな状態で生きてるのもどうかと思う。

一人ということに執着にも近い嫌悪感を持っているのも確かだ。

僕が一人になるのは、まぁまだいいけど、誰かが一人になっていて、自分が人に囲まれてるという状況が耐えられなくなってしまうのだ。

自分軽視をしてるのかもしれない。
それか、救世主か何かかと思っているか。

だって、そういう人を見ると手を差し伸べたくなっちゃうんだから。

その人に寄り添ってる僕ってかっこいいとかなんとか思っているのだろうか。

くだらない。

結局そのせいで、自分もその人も同じように首を絞めてる気がする。

なにやってんだろうなぁ。

去年の後期も最近だって似たようなことをやらかしてるし、それで繋がったコミュニティも長く続くとは正直思えない。

後輩に手を差し伸べるように。
困っている同級生の隣に立つように。

似たような/見たような 景色を何度も繰り返して、
なんども思い出をフラッシュバックさせて、後悔したり喜んだりして。

一喜一憂をしながら
自分はどんな人間になるんだろうなぁ。

終わりかけのコマみたいにふらふらしてて
自分の軸足がどこかも分かってないから
こうなのかもしれない。

もっと自分の中心にあるものをよく理解しないとダメだよな。
しっかりと上を見上げながら。

そしたらいつか
自分の中心にある、この器を満たせるようになるのかしら。


ネタ切れをネタにしよう

毎年のように、いや、毎月のように同じわだちを踏んでいる気がするが、ネタ切れが過ぎると思う今日この頃。

先月、3月号は色々なことをしたし、行ったから書きたい内容というものがたくさん出てきた。

でも、学校が始まるとこうも行かない。
たくさん写真を撮るほどのスポットも特になければ、なんなら去年にそこらへんは済ませてしまった。

やっぱり写真とかがあった方が話とかは分かりやすいと思うんだけど、そもそもの写真がついてくるほどの体験がない。

だって、今回の話、中心は桜と雨だぜ?
先月の月刊で花の写真とかいっぱいあげた気がするし?

そこまで執拗に写真をあげなくてもいいと思うんだ。

強いていうなら、せっかく大学2年生になったっていうのに、なんかそこまでステップアップしてる感じがしないってところが話として出来そうかしら。

自分はサークルとかにも入ってないし、積極的に交流の場に行くような人間でもないので、後輩との接点がない。

だから、今までは後輩と関わることで学年が上がったんだなぁと思っていたところを、盛大に肩透かしを食らっているような感じになっているのだ。

下(という言い方は見下しているようにも感じるが)が出来るからこそ、いわゆる責任感みたいなものはついてくる気がする。

つまり、そういうのが半強制的にあったのは高校までで、大学生になったんだし、自らの手で掴んでくれということなのだろうか。

なんか、自分の足で立つことが強要されているような気分だ。

まぁそれが当たり前なのかもしれないけど、何でもかんでも自分で決められている人って僕たちの世代でも指折り数えじゃないだろうか。

『自分から誰かを誘うんじゃなくって、誰かから誘われるのを待つスタンス』
これが主体な人たちがいっぱいな気がする。

僕は、自分で選ぶことが出来ないことに少し危うさだったり怖さを感じてるから、たくさん「自分の手で~」とかいうけど、
別に流される人がいたって良いと思う。

流されることで、良いことが舞い込んでくることだってたくさんあると思うし。

良い意味で流されてきたって大丈夫だとも思うんだよな。
何て言えばいいのか、上手く言えないけど。

今、曲を聴きながら書いてるんだけど、
ちょうど、UNCHAINのNot Too Lateの「It’s not too late」のところが流れてるぞ。

「遅すぎることはない」
つまり、何かを始めるにはちょうどいいぜ!
みたいなことを言ってるのだろうか。

それで言ったら、昨日NetFlixで初めてシティーハンターを、それも鈴木亮平が演じた実写版を観た。

シティーハンターは前々から気になっていたのだが、どうにも見る機会がなく、そのままになっていたのだが、今回丁度良く実写化がやるというティザーを観た。

それから予告動画を見て、何度再生したことか。
音ハメが本当に気持ちいいんだよ。

冴羽獠のハードボイルド感 × 鈴木亮平のカッコよさ × Get Wildのクール感
全てが相まって、あの空気感を作り出しているのが分かる。

銃の解体シーンとか2,3回巻き戻して見てしまった。

なんかあのカッコよさにやられてしまった感じがある。
撃ち抜かれたか?僕も。

あ、観るときの注意なんですけど、
血とか普通にバンバン出てくるので、そこらへんが苦手な人は注意ですね。

バイトの友達も最近ネットフリックスに入ったらしく、最近は何を見ているのかをよく話すので、
シティーハンターの話をするのが楽しみだな。

そういえば、もうすぐでGWだな。
せっかくだし、どこかにはいきたい。

今しかできないこと とか、そこまで高尚なモノじゃないけど。

前は不発に終わった、上野の国立科学博物館とか?
それこそMOA美術館に行くのもいいな。

誰かに声かけて、こっちに遊びに来て!なんて言ったら来てくれるのかな。

…まぁ、難しい話か。

期待しすぎるのもよくないし、そろそろやめにしよっと。

よし、予定でも練りますか!



自分を認めるって難しい

何度も何度も見捨ててきた、「手を差し伸べるべきだった瞬間」を最近よくフラッシュバックするみたいに思いだす。

どうしても、そんな自分に自信が持てなくて、結局後ろを向くことになる。

今回は、そんな後悔にも近いお話。


自分のことを受け入れてくれるような存在を欲しがるわりに
心の奥から付き合いたいと思ったことは特にない。

それにはやはり、
自分に対する自信のなさが起因しているのだろう。

これを話すのも何度目か。
引き出しが少ないなぁと思うのだが、今は目をつむろうと思う。

そもそもの話、自分は『彼氏』という存在を高尚なモノに見過ぎている節がある。

欠点なんてどこにもなくて、逆に良いところはいっぱいある。

みんなに好かれてて、仲間はずれになることなんて一度としてない。

困ってる人がいれば、絶対に手を差し伸べる。

そしてちゃんと頭もいい。

そんなほぼ完璧人間をどうしても想像してしまう。

実際はそんなこともない、というか、この想像している2割ぐらいしかないというは分かっている。

いや、そんな人もいるんだろうけど。

でも、自分がもし『彼氏』になったら を考えると
どうしてもこのほぼ完璧人間を想像してしまって、前に進むのが怖くなってしまう。

自分がそういう存在だとは思えないし、その責務が全うできるとも思えない。

それに、自分に自信が持てない要因はまだある。
それが冒頭でも話した、「見捨ててきたもの」だ。

例えば、中学生の冬の頃。

その日は路面が少し凍っていて、歩いていても滑るんじゃないかと思うほどにはつるつるしていた。

高架下近くの交差点。
信号を待っていた時。

目の前でバイクが曲がろうとしたとき、滑りすぎたのか横に転倒してしまった。

その様子を見て、駆け寄る数人の大人たち。
幸い徐行してたので大事には至っていない様子。

そんなとき、自分はそれを「見て見ぬふり」して学校へと向かった。

自分も手を差し伸べるべきだったのかもしれない
と何度も考える。

運転手が転んでから、周りの大人が近くに駆け寄るまでに1分以上は時間があったように感じる。

自分はその間、ずっと見てただけだった。

そして、知らんぷりをして学校へと向かった。

あそこで手を差し伸べていれば
もしかしたら、変わったこともあったかもしれないのに。

結局、自分がやるよりも他の大人がやった方がよかったんじゃないか と心の中で自分を正当化した。

けれど、友人と話していて、付き合いたいと思わないのかなどの話をされたとき、絶対にそのことを思いだすようになった。

自分は人が大変な時に見て見ぬふりをした人間で、
そんな人間が付き合えるとは思わないし、ちゃんと『彼氏』を全うできるとは思えない。

そうやって後悔を思いだすのに、この前も似たようなことをやらかしてしまった。

電車に乗っているとき、座っていた席のちょうど反対側に一人の女の子が座っていた。

年齢は僕のちょっとしたぐらいだろうか。

自分の降りる駅の一つ前。
その子はうとうとしていたらしく、その駅に着いて少しした後
ハッとして急いで降車していった。

その時、その子の座っていたところに一つ、
おそらくモノが入っているであろうレジ袋がおいてあった。

自分はその子を追いかけるべきか。
でも、本当にその子の物だという保証はない。

でも、せっかく買ったものをここに置き去りなんてあんまりじゃないか。
でも、変に勘違いされて訴えられでもしたら最悪だ。

色んな考えが交差した。

色んな考えが交差して、
結局僕は席を立たなかった。

その袋があったことも知らないふりをして、自分の降りる駅で降りた。

それをしたあとで、交差点での出来事を思い出して、今この話を書いている。

自分がやらない方がよかった と自分を正当化して
他人がやった方がトラブルが起こることはなさそうだし、安心だろう と自分の行動がまるで善行であるように扱った。

でも、本当はどれもやった方がよかったことだと思う。

心の中ではそう思っているからこそいつまでも引きずっているのだろう。

たぶん、僕の考える『彼氏』という存在ならば、やったと思う。

自分を認めてあげるには何が出来るだろうか。

大きな結果を残せばいいのだろうか。
誰かを助ければいいのだろうか。

悩みは尽きない。

正直言うと、ボランティアもする気にはなれない。
している人はすごいと思うし、賞賛もするけど、自分は参加しないだろう。

さすがに知らない人まで手を伸ばすほどの余裕もない。

自分を認めるって難しいな。

あ、そういえば、僕は知ってるぞ。
手っ取り早く困っている人に手を差し伸べることが出来る方法を。

月刊でも散々話してたこと。

バイトだ。

バイトであれば、お客さんからの質問もあるし、困ってる人の対応も出来るだろう。

まずはそこから。
なにはなくとも。

頑張っていこう。



まとめ:催花雨の降るころ

今月、4月の頭はまだ桜が咲いていなかった。

冒頭でも話した通り、僕は桜が好きなので、咲くのを今か今かと待ち望んでいた。

けれど、まったく咲く気配はなく、今年は全然見れないまま終わるのかなと思っていた。

すると、春の頭に連日、雨の予報が。

別に雨は好きじゃないし、桜は咲かないしでどこか心地の悪い感じがする。

そう思いながら、インスタのストーリーを見ていると、
好きなアーティストの須田景凪さんが興味深いストーリーをあげていた。

(これはXの方から引っ張ってきました)

はて、「催花雨さいかう」とはなんぞや?

気になり調べてみると、
「春、早く咲けと花をせきたてるように降る雨」
らしい。

まさに、今僕が感じていたものを表したような言葉じゃないか!!

それから時間が経ち、連日の雨も止んだ頃。

実際、僕の住んでいる地域も桜は花を咲かせ、
それ以外の花も芽吹き始めていた。

今となればそんなときも懐かしく感じる。

ちょうど昨日、バイトの為に桜並木を歩いていたら、もう葉が緑に変わっていて、あんなに待ち望んでいたものが気付いたら終わっているなんてと驚愕した。

新しい年度が始まって、やっと周りのせわしない雰囲気も収まってきた気がする。

結局、待ち望んでいた連絡は来なかった。

でも、暖かい春はまためぐってきた。

花も綺麗な色をたずさえて、近所の公園を彩っている。
写真こそないものの、ピンクの色をした花が公園を囲っている様子は本当に感動したのだ。

僕も前を向かなきゃいけない。

5月に僕の通っていた高校が定期演奏会を開催するらしい。
ちょうどバイトはシフトが入ってなかった。

正直行くのをすごい悩んでいる。

色々と考えることもあるし。
単純に怖い。
避けられるんじゃないか?とかさ。

でも久しぶりにあっちに戻ってみるのもアリかなとも思ってしまう。
言っても高校時代はお世話になったわけだし。

そんな考えを抱えながらGWを迎える。

なんか今、一番青春してる気がする。
精神的にはね。

こんなことで一喜一憂してるのもくだらないし、
苦笑も出るけど。

言うなれば、
また花を咲かせるために

花鳥風月に沿って作られたこの月刊と共に、
どう変化していくのか。

どうするのか、自分で決めて
掴んでいくんだろう。

まだ2024年は始まったばかりだし。
色々と手探りで進んでいかなきゃな。

目標のためにも。

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