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第73話 「働き方改悪」VS鍋元さん

「働き方改革じゃなくて、働き方改悪だろ! 政治家とか官僚とかって馬鹿じゃねえか!」

「ねえ、大丈夫?」
鍋元洋司は、朝起きていきなり、妻の鍋元衣子から心配そうに声を掛けられた。
「寝言で得体の知れない文句を言っていたわよ。政治家とかって何?
 変なことに巻き込まれてない?」

衣子は怪訝そうな顔をしている。

「大丈夫だよ。何でもない」
「ねえ、本当のことを言ってよ。この工事はすごいお金が動いているんでしょう。そういうのがあっても…」

せっかくの休日の朝なのに、面倒なことに、完全に誤解されている。
洋司は昨夜、働いている現場の所長を務めている西野忠夫と二人で深酒していた。話していたのは、今の建設業界全体が飲み込まれている働き方改革のことだった。
どこにもはき出しようのない愚痴が止めどなく出てきて、その余韻が眠っている自分に深く入り込んでいたのだろう。

衣子は、建設業界で生きてきた自分にずっと寄り添ってきてくれた。好況に沸いて勢いづいていた時も、リーダーとなった現場でトラブルが発生して窮地に追い込まれていた時も、建設需要が低迷してリストラに手を染める手先のようになった時も、成人した二人の息子に向けるのと同じように、守ってくれるような眼差しで、洋司を支えてきてくれた。
そんな衣子にはいつも自分をさらけ出してきたし、そもそも喜怒哀楽を見抜かれてしまい、隠すことなどできなかった。
心身ともに元気なままで60代後半を迎えることができたのは、そんな衣子の存在があってこそのことだ。

洋司が大学を卒業してゼネコンに入ってから40年以上が過ぎた。下っ端から始まり、先輩や協力会社の職人たちから鍛えられながら、徐々にベテランへと成長していった。小さな規模の現場で所長も経験し、部下はたくさんいる。自分の背中を見て育って、目玉現場で最前線を仕切っている奴もいる。
本当は、メディアや社内報などで華々しく取り上げられるような大規模事業を率いたかった。自分はそこまでの実力がなかったため、正直、嫉妬している。でも、嫉妬できるような技術者を育て上げる一助となったことは、ささやかな自信と誇りになっている。

それは一つの事実として、技術者として生きた足跡だと思っている。
その筆頭が西野だった。あの災害で大きな痛手を負った海辺にあるこの街の復興に向けて、計画から施工、完成後の施設運営まで一括で担うコーポレーティッド・ジョイントベンチャー(CJV)の所長にまで上り詰めた。数多くある今回の復興プロジェクトでも大きく注目されているエリアの一つだ。

ただ西野のような優秀な後輩ばかりではない。自分のような中途半端な人間の方がむしろ多いだろう。それでも自分と同じように、小さな工事であってもコツコツと仕上げていけるようになれば頑張って良かったと思えるはず。

でも、「アフター働き方改革」のこれからは難しくなる。いや、不可能になると言っても過言ではない。
そんな話題が、洋司と西野を深酒に導いた。この国の建設業を崩壊させる底なし沼のように、洋司には思えてならなかった。

衣子は、建設業界というと政治家などとの癒着のようなイメージが残っているらしい。そんなことをやる時代じゃない。心配しているようなこととは全く違う。誤解は解かないといけない。

「昨夜に久しぶりに西野君と差しで飲んで、働き方改革の話題になってさあ。
あいつは今、総括所長だからリーダーとしてぶれずに指示を出さないといけないんだけど、実際はすごいモヤモヤしてるんだよ。でも、そんなことを言える相手はCJVには俺くらいしかいないし、俺も思うところがあるから、盛り上がってしまってね」
「働き方改革って、『8484年問題』っていわれていること?」
「そうだよ」

妻との会話を通じて、昨日の西野とのやりとりを思い出してきた。

普段は冷静な西野が、顔を真っ赤にして声を大きくした。

「鍋さん、ずるいよ。
分かってるよ!
だから、きついんだって!!」

かっとした西野の姿を見るのは、30年ぶりくらいのように思えた。
先に仕掛けたのは洋司だった。

「今のままでさぁ、あの子たちは成長するのかなあ」

それは紛れもない本心だった。

建設業界に限ったことではないが、この国では、働き方改革という取り組みが進んでいる。働き方を変えるというと格好良いが、やろうとしているのは時短、要は短時間勤務への移行に過ぎない。それが洋司の率直な受け止めだ。
制度が始まる時期と、早くを意味する方言から「8484(はよはよ)問題」と通称されるようになった。
定着してしまったから洋司も仕方なく口にしているが、人を馬鹿にしたようなネーミングが本当は嫌いだ。

無尽蔵に残業するような働き方をやめて、幸せなワーク・ライフ・バランスを築こうというお題目だ。とても良い理想だ。
誰もNOとは言えない。

だが、YESと言うには条件がある。

同じだけの生産量を維持して、十分な収入が確保できれば、だ。ただ単に働く時間が短くなって、給料が安くなって、自分も地域も国もじり貧になってしまうなら本末転倒だ。そんな未来は誰も望んでいない。

洋司は今、CJVの現場管理のサポート職員として、宅地造成の一つを担当している。60代半ばで嘱託の身分だ。人手が足りないと西野が焦ってかき集めたベテランの一人だった。

西野は、洋司が主任に成り立ての時に新入社員として入ってきた。声が小さく、線が細いというのがぱっと見た印象だった。だが、現場の職長たちから怒鳴られても食らいついていく我の強さがあった。

入りたての若手だから小さなミスはするのだが、一つ一つのミスをしっかりと糧にしていこうとする意識を持っていた。自身の成長につながるのであれば、小さなミスは失敗ではない。そういう意味では、西野は失敗しないタイプだった。

2年ほど一緒に働いて、洋司は次の現場に移っていった。
次に仕事をしたのは10年後だった。洋司がナンバー2として率いる現場に主任として配属されてきた。それまでの間も会議や飲み会で一緒になることはあったが、どっぷりと仕事を共にするような絡みはなかった。

その頃、洋司は後輩と仕事をすることに緊張するようになっていた。自分にそれほど能力が無いことを十分に認識していたからだ。洋司が働くゼネコンは年功序列が前提ではあったが、仕事ができる人間とできない人間との差は明確に出てくる。
西野は、新人時代の線の細さが完全に消えていた。西野は前者であり、自分は後者。偉そうにできたのは経験が少ない若手時代のわずかな間だけだった。

建設現場は生ものだ。時々刻々と状況が変わる。
綿密に計画を立てて用意周到に準備するのだが、それでも当初想定し得なかった事態が頻繁に起きる。その状況に応じて、最善と考えられる判断を下していかなければいけない。
ただ、判断の一つ一つが作業の安全性を大きく揺るがすため、ある程度の場数をこなす中で、経験やノウハウを積み重ねていく必要がある。

修羅場を経験しなければ分からないことがある。そういう時に逃げずに判断を下せるかどうかが、上に行くべき人間とそうじゃない人間との分かれ道のように思う。
洋司は、そういう場面に遭遇するとひよって逃げてしまい、上司に判断を仰ぐ側の人間だった。だから、本当の意味で自ら危機的な事態を乗り切った経験がない。壁を越えようとしている人間が踏みしめていく道を後ろからついて行くだけだった。それは修羅場の経験とは呼ばない。
西野は違った。逃げないが、無茶はせずに周りから協力を得ていくような柔軟さがあった。

職人ら現場の人間は、人を見抜く力に長けている。いい加減なことをいうようなリーダーに付いていくと、身に危険が及ぶ可能性があるからだ。建設業界を知らない人は力仕事しかできないようなタイプと思われがちだが、まったく違う。

洋司は、すぐに見抜かれる。半年もすると、後から来た後輩の西野の方が多くの信頼を得ていて、皆が相談に行くようになっていた。

洋司は夜遅くまで残業し、次の作業の計画を立てて、たまに失敗しながら、でもそうした頑張りを周りが見てくれて、能力が足りない分は割り引いて温かく見守ってくれていた。そうした立場に甘んじている自分が情けなかった。

そんな時に、現場が大きなトラブルに見舞われた。地下に躯体を構築していく過程で、一部で想定以上に沈下が進み、その速度が加速していった。構造物全体の安定性を揺るがすような傾きが生じつつあった。

本社の設計部門や技術研究所を巻き込んで、発注者とともに対策を議論する日々が続いた。
選択肢は二つ。周辺地盤を地盤改良して様子を見ながら予定通りに施工するやり方と、いったん埋め戻した上で外周をより強固に構築するという抜本的にやり直すやり方だ。洋司は、工期の遅れをできるだけ短縮するために地盤改良による懐柔策を押したが、西野は「危ない」の一点張りで埋め戻し案を主張した。

二人とも何度も徹夜しながら検討を続けて、検討の確度を高めていった。最終的には両案とも問題ないという結論に至ったが、当時の現場所長は西野の案を選んだ。
そうなると西野に作業が重くのしかかる。方針が決まって、協力会社との打ち合わせに入ったころには、西野は頬がこけて疲れがたまり、焦燥しきっていた。
洋司は、西野の青ざめた顔を見て、「何も考えなくていいから、黙って帰れ!」と休ませようとした。

「今の状態で投げ出せる訳がないじゃないですか!
あのやり方を言い出した以上、責任取らないと!」

真っ赤な顔をして、洋司に詰め寄ってきた。
その三日後に、西野は倒れた。

洋司と西野は現場の状況をつぶさに見ながら対策を考えていたという意味では同じで、互いの案も十分に理解し合っていた。西野の仕事を引き継ぐ形で、洋司が現場を率いて作業を進めていった。
3カ月後に西野が戻ってきた。その翌週に洋司が倒れた。

昨夜も、あの現場の話になった。洋司も西野も30代で一番脂がのっていたころだ。
心身共に辛かったが、最前線を任され仕事をやり抜くことに大きなやりがいも感じていた。

「あんなのはもう無理だな」と二人で笑い合った。
でも、あの経験は間違いなく役に立った。次の現場で洋司は所長になり、その数年後に西野も別の現場で所長を務める立場になった。

西野は順調に出世して大所長になった。だから、この街の復興を一手に担う大現場を任されている。
洋司は今、その下で一職員として日々、現場を駆けずり回っている。なかなか分かってもらえないが、洋司にとって、この巡り合わせはとても幸せなことだった。

海に面したこの街は、あの災害で甚大な被害を受けた。最新のデジタル技術を駆使して効率化を図っているが、短期間で復興するのは至難の業だ。そこには経験と自信を持った技術者が必要で、西野は間違いなく適任だ。そうしたリーダーを育てるほんの少しの一端を、自分が担っていたのだ。そのリーダーの下で働いて微力ながら復興に貢献することは技術者冥利に尽きる。

「鍋さんとガチンコで戦ったあの時の経験がなかったら、今みたいな仕事はできてないと思います。
一緒に働いてもらえて、本当にうれしいんです」
そう言ってもらえて、洋司も口元が緩んで仕方なかった。

一通りの昔話を終えたころに、これからのことに話題が移った。
矛先は働き方改革だった。

「今の現場って、おかしくないか」
口火を切ったのは洋司だ。

建設業界では、それなりに旺盛な需要が続いている中で、現場の担い手の高齢化が進んでいた。少子高齢化で労働人口は先細りの状態にあり、若者の獲得するための産業間の競争は激化している。
就職は本来、雇う側が選ぶのではあるが、若者に選んでもらえるような環境を用意しなければいけない状況があった。

そうした関係性は若者が入社した後も変わらない。仕事を学ばなければいけない側の人間を、ベテラン勢が腫れ物に触るように大事にするような妙な状況が起きる。
どこの現場も似たり寄ったりで、CJVも同様だ。

そうした環境下で放り込まれた劇薬が「8484問題」だった。
労働法制の改正により時間外労働(残業)の上限を従来よりも厳しく制限することが柱で、製造業など一般の業界では既に導入されていたが、建設業など現場作業が多い職種では5年間の猶予期間が設けられていた。
猶予期間に入った当初は、5年を待たずに労働環境を変えて法令を守っていく算段の企業が多かった。だが、感染症の蔓延や予想以上に好調な建設需要、想定を遙かに上回る形で激化していった人材獲得競争などを背景に、労働環境の改善は思ったように進まないまま、「アフター働き方改革」に突入していた。

洋司らが手掛けるような災害からの復旧・復興工事は、緊急性を要する仕事という位置づけから、特別なルールが適用され、一般の工事よりも多い残業時間が認められていた。だが、それでも働き方改革以前の残業時間に比べると、かなりの圧縮になる。特別条項を守ることも、正直苦しかった。

「アフター働き方改革」の今は、上限を超える時間外労働(残業)は問答無用の悪だ。もちろん、法律で縛られているのだから当然ではある。時間外労働がカウントされる非管理職は、決められた時間を絶対に超えてはいけない。超えるような事態が明るみになれば、洋司らが所属するような大手ゼネコンは世間からバッシングにさらされる。

だが、管理職は違う。部下たちに労働法制の保護を提供すべき立場であり、守られる側ではない。「守れ」と攻められる側でしかない。

ただ、働き方改革に関係なく、仕事は降りかかってくる。ましてや、今手掛けているのは、被災地に一刻も早く元通りの暮らしを提供するための大事な復興事業だ。

最優先されるべきは被災者。
働く側の管理職ではない。

上限規制に引っかかりそうな非管理職は、恣意的に残業を抑制して早く帰宅させなければいけない。でも、仕事が終わらない。
どうするか。上限規制の対象ではない管理職が仕事を引き受けるほかない。

「働く側の管理職なんて、守る対象としては最も優先度が低いって訳だよ」
洋司が、そうぼやくのも当然だ。

「アフター働き方改革」に移行してから、CJVの事務所で明かりが消えない時間は確実に延びていた。不夜城と揶揄されていた現場事務所は、365日24時間稼働し続ける「コンビニ」と呼ばれる職場となっていた。そして、徐々に倒れたり精神的に参ったりしてしまう中堅が現れていた。

「建設業を、明るく未来のある持続可能な産業にするって、なんなんだよ。
確かに、働き方改革は管理職の帰宅時間を遅らせるという意味で働き方を改革してるよな。
でもそんなの改革じゃない。

『働き方改悪』だよ。
搾取されている俺らにとっては『働き方害悪』と言ってもいいくらいだ。

西野、そうじゃないか?
お前は、復興を急げってせかされながら、残業させるなとか言われてるんだろ。
役員連中なんてきれい事ばかり言いやがって。
おかしいじゃねえか」

洋司の言葉が荒れていくにつれ、西野は口数を減らしていった。
答えがないことを追求していくのだから、当然とも言えた。

「分かるよ。
お前は、『ふざけるな!』なんて言えない立場だ。
耐えて、耐えて、耐えて、耐えて、ひたすら耐えて、愚直に一歩一歩現場を進めていくことにしか道はない。

そういうのって、申し訳ないんだよ。
お前みたいに大所長になれなかった俺が偉そうに言えることじゃないけど」

西野は遠くを見つめたまま、ぬるくなった日本酒を時折、口に運んでいた。

洋司はまくし立てるように言葉を続けていく。

「だって、あの現場の頃は違ったじゃないか。夜中まで対策を検討してたけど、上の人間も新人だって一緒になって悩んで、雑用的な作業を引き受けてくれていた。

俺たちに任せてくれると、同時にサポートしてくれた。現場に一緒に乗り越えていこうっていう一体感があった。

もちろん身体も精神的にもきつかったけど、力を合わせればアドレナリンも出てくる。実力もついてくる。
現場って、そういうものじゃないのかよ」

西野は、ゆっくりとため息をついて、口を開いた。

「そうなんです。
一番困っているのは、伸ばさなきゃいけない若手と、伸ばす側の立場である上司とのレベルの差が加速度的に広がることだと思っているんです。
それはデジタル技術が進化しても変わらない。いや、もっとひどくなる気がするんです」

西野の話は、経験が人を育てると言う前提に立つと当たり前のことだ。

もちろんDX(デジタル・トランスフォーメーション)を進めていけば、今までよりも短い時間に必要なスキルを身に付けることは可能になる。
だが、そうやってスキルを身に付けられるのは若者だけではない。

20年くらい前だったら、デジタルへの適応力がない年配の世代と、デジタルを得意とする若者で、デジタルツールから受けられる恩恵に差が生じ、若者がデジタルツールを使ってベテランとの差を縮めていくことも可能だったかもしれない。

だが、今の30代後半から50代は、インターネットの隆盛と共に育った世代だ。建設現場でもパソコンが当たり前にあって、簡単なCADから使いこなしていく若手時代を過ごしてきた。既に、デジタルツールを使いこなしてきた層だ。
実際に生成AIが流行している今は、業務に使えないかをすぐに考えて組織をリードしていっている。

もちろん、スマホネイティブの若者よりは不得意な部分があるかもしれない。だが、それは世代の差よりも個人の資質による部分が大きい。

「もしも、デジタルツールがからっきし駄目なベテランと、デジタルに長けた若者がいたのであれば能力の差が縮まるかもしれません。
でも、大部分はそうじゃないです。
だって、鍋さんだって3D図面で作業してビジネスチャットツールを使って職長と連絡しているでしょ」

「もちろんだよ。あんな便利な物を使わないなんてあり得ない。
現場の土量計測だって、ドローン飛ばして画像解析でやれば一瞬で済む。レベルとトランシットを担いで測量しようっていう発想は、完全に抜けたよ」

「ですよね。苦しんだあの現場の頃からは考えられないじゃないですか」

「本当だよな。
あの頃はまだ人力が当たり前だったから、夜中にライトで照らしてもらって現場を測量していたよな。あんなことをよくやっていたよ。

今からすれば信じられない」

「正直、こんなに便利な時代が来るなんて思わなかったです」

「西野の言う通りだよ」

「でも」

「でも?」

西野は俯いて視線をそらした。

「もう一つ思わなかったのは、便利になったからと言って楽にはならないってことです。
やっぱり現場の仕事はものすごく忙しい。全然、楽になっていない」

「そうなんだよ。何でなんだろうな」

「手書きだった日報とかは現場でタブレット端末から入力すれば自動的に報告書になるし、現場の記録写真の整理もクラウドにアップロードして内勤者や外注の人たちに手伝ってもらえるようになった。

写真屋さんに現像してもらってアルバムに貼り付けていくことを考えれば、格段に楽になっています。
でも、それ以上に確認事項や調整事項とかが増えてしまっていて、楽になった感覚がないんです」

「良くなっていれば、電気が消えることのないコンビニみたいな職場なんて言われないよ」

「工期は、まあ、20年前に比べれば生産性が上がった分だけ短くはなっていますが、それほど劇的に短くされた訳ではありません」

「とすると、人の数かな?」

「それはあります」

「人の数は減った気がするよ。
こういう言い方すると今のご時世は怒られちゃうけど、昔って、何やってるのか分からない人っていたよな」

「いましたよね。お茶くみと掃除にコピーを取ってもらうだけのおばちゃんとか」

「そうそう。
あの頃は自分も若かったから、無駄な人件費使ってもったいないって、正直思っていたんだけど」

「私も思っていました。あんな仕事で人を雇うんなら、給料上げてくれってね」

「でもさあ、今から振り返ると、それだけじゃなかったんだよな」

「ホント、そう思います。
秘書とか仰々しい立場じゃなくて、ちょっと仕事をサポートしてくれる人がいてくれることで、仕事もスムーズに進むし、気持ちも楽になるんですよね。

『お茶くみしかしてない』って、それは、そう強いていた雇用側が悪い。
実際には、誰かが拾わなければいけないようなちょっとした雑務をこなしてくれていたんです。
だから、オトコどもは『俺が現場を引っ張っている』なんて勘違いしながら偉そうに仕事ができていた。そういうことなんだと思います」

「今さら勝手な言いぐさだけどな。

俺自身、所長になってそういう人をどんどん切り捨てていった。
現場の経費が厳しくなって、スポーツ新聞をやめて、社員を減らして、派遣とかアルバイトとかを代わりに入れて、なんとか現場の収支をやりくりして」

「今の私だってそうですよ。
人は増やしたいけど、その前に社員も派遣の子たちもできるだけマルチタスク化して、一人に沢山の仕事を押しつけている。そうやらないと、お金が合わないんです」

「考えれば当たり前なんだけど、ちょっとした余裕代(よゆうしろ)って全然無駄じゃなくて、それがあれば少々のトラブルがあっても持ち直せるんだよな。

でも、そういう大事な部分をそぎ落としていって、一方で、無駄なやり方は全然変えられてこなかった。

ゆとりだけ捨てて無駄は残って、だから理不尽な働き方みたいなのが、どんどん大きくなってる気がしてならないんだ」

「『アフター働き方改革』になってから、本当にきついんです。もっと人がほしい。

外国の景気悪化のあおりで、国内の建設市場が急激に冷え込んで、建設業で踏ん張っていてくれた人たちを外の業界に放出したくせに、今さら人がほしいって、ホント馬鹿みたいな話だ」

西野はそういうと、ぬるくなった冷酒を手酌でついで、一口で飲み干した。

「鍋さん、俺はね、形こそ違えども、景気悪化で大事な物を失っていったようなことが、今も続いているような気がするんです。

さっきも言いましたが、CJVのメンツを見ても踏ん張ってくれている30代の管理職とかと、アフター働き方改革世代とでは、明らかに差が広がっています。技術力もそうだし、意識というか踏ん張り力みたいな気持ちの部分もです。

もちろん全員じゃないです。優秀な奴もいます。でも、そうじゃない方が多い。

そんなの当然ですよ。
『あとは上司が帳尻合わせておくから早く帰っていい』、なんてことになったら、仕事しなくていいのが当たり前になります。それが普通になれば、定時に帰って遊びに行って、それなりに仕事をして、楽しい生活ができます。

でも、それって全然、持続可能な在り方じゃない。

彼らも彼女らも、いつかは管理する側になります。その時に実力も、本当に困った時に踏ん張れるような心づもりもない。
いきなりはしごを外されるみたいなことに…」

西野が黙り込んだ。
洋司は店員を呼んで、追加の日本酒を頼んだ。2合にした。

窓の外に、大きな満月が見える。遅い時間になっていた。
でも、もう少し飲んで話してからじゃないと帰りたくない。そんな気分だった。

「多分な、ある時までは踏ん張れる奴がいて、何とか現場が回っていくんだよ。
でも、そういう奴が会社の上に上がるか体調を崩して離脱すると、瓦解する」

「俺はいいですよ。そうなる前にこの業界を抜けますから。
でも、現場の最前線で今一番頑張ってる子たちが、俺たちみたいな立場になった時はどうなるんだろう」

「そうなったら、建設業界云々じゃなくて、この国全体がやばいってことだよな」

「それって幸せなんでしょうか」

「分からない」

「こういう話って8484前にも愚痴としては出てたじゃないですか。
やばいって。
でも、決まったことだから仕方がないって。うちの業界って、いつも決められたことは、是々非々となることなく、甘んじて受け入れるばかりのような気がするんです。

おかしかったら、誰か止めろよ。そう思いませんか?」

「政治家とか官僚が決めたからしょうがないって、諦めちゃうんだよな。それで現場を支える末端が苦しむ。

何でも前もって用意周到に準備しておく『フロントローディング』なんて言われるけど、それだったら、もっともっと大きなルールを決める段階から物を申していかないと」

「そんな評論家みたいなこと言わないでくださいよ。現場で何とかしなきゃいけないのは、俺ですよ」

「じゃあ、8484のルールでやるしかないだろ。
お前だったらできるよ…」

西野が目を見開いて睨み付けてきた。

「鍋さん、ずるいよ。
分かってるよ!
だから、きついんだって!!」

西野が吐き捨てるように大きな声を出した。
ぶすっとしたまま黙り込んだ。

「俺、たばこ吸ってくるわ」

洋司は店の外に出て、たばこに火を付けた。

季節が秋に入っていた。深夜になると肌寒い。
尿意もおそってきて、1本で店に戻った。

トイレから戻ると、洋司は黙って座った。
徳利に手を伸ばすと、西野が取り上げて、黙ってついできた。

洋司は「ありがとう」と言葉を添えた。

「でもね。鍋さん。

ちゃぶ台返しみたいな物言いなんですけど、でもやっぱり、今までみたいな働き方が良いはずがない。それもそうなんですよ」

「何だよ今さら。どっちなんだよ」

「覚えていますよね…」

洋司は、西野の表情でぴんときた。
もちろん覚えている。忘れることなどできない。

いや、忘れてはいけない。

洋司と西野の現場にいた若手のことだった。

「本当だったら、もう50は過ぎてるはずだったんだな」

洋司と西野がいた現場で、自分たちを手助けしてくれていた若手の一人だった。小柄な女性で、真面目で一生懸命なタイプだった。優秀で責任感が強かった。仕事を頼まれると笑顔で引き受けて、期待よりも早く仕上げてきた。
頼もしいと同時に、良くも悪くも使い勝手がいいタイプだった。

あのトラブルを乗り切って、再設定したやり方で現場が軌道に乗った後に、次の現場に移っていった。職長からも好かれていて、協力会社の面々も参加した壮行会は大いに盛り上がった。ゆくゆくは所長に育っていく有望な人材と誰もが思っていた。

次の現場は順調だった。
問題は、その後の現場だった。主任になり仕事を任される立場で、現場で不慮のトラブルが起きた。報告書を見る限り現場側の管理に問題はなく、運が悪いとしか言い様がなかった。だが、それで工期が半年遅れ、現場の予算も厳しくなった。
あの頃は、建設業界全体がおかしくなっていて、ゼネコンが再編するような動きも進んだ。「大手でさえ危ない」とまことしやかにささやかれた。
洋司や西野が新米所長として現場コストの削減にいそしんでいたころだ。

「そこまで無理しなくていいのに。
そんな言葉を誰も掛けられなかった…」

無理に無理を重ねて、仕事に追い詰められていった。
苦しかったら仕事なんて辞めればいい。そんなきれい事は、後からだから言えるのだ。
言えなかった人間の後悔など戯言に過ぎない。

「俺たちが無理する姿を見せたからだ」
「俺たちが悪いんだ」

洋司と西野は、通夜からの帰り道、どちらからともなく、そんな言葉を発したように思う。

「鍋さん。
私はね、働き方改革って、最初は無能な奴を生き延びさせることにしかならないって、思ってたんですよ。
でもね、多分違う。
もちろん、そういう面もあるかもしれない。だけど、もっと大事なのは、ホントに頑張っている一生懸命な真面目な奴を守ることなんじゃないかって。

もしも、あの子が今もいたら、多分いい仕事してくれる。

今さらながら、思うんです。
本当はあの時に、俺たちが自分たち自身で変えなきゃいけなかったんじゃないか。

それなのに目の前の仕事に追い立てられて、それなりに現場が出来上がっていくことに、ほどよい満足感を得て、自己陶酔するように『今のやり方でこそやりがいがあるんだ』なんてことを思っていました。
前例をただただ踏襲することに誇りを持つような、そんな間違いを続けていたように思うんです。

8484問題が押し寄せてきて、飲み込まれそうな自分がいるんですけど。鍋さんだから言うんですが、なにくそって思う自分もいるんです。

過ぎた時間は戻ってこない。そうであれば、未来を変えていくしかない。

現場に未来があるのかどうか。
それは自分で選ぶことなんじゃないかってね」

「『負けてたまるか』だよな。
あの現場の時にも、誰もいないところでそんなことを言ってたな」

「えっ?
聞いていたんですか?」

「はあ。夜の現場であんな大声で叫んでたら聞こえるよ。
所長は苦笑いしてたぞ」

「『負けてたまるか』か。
そうですよ。そうなんですよ。
8484なんかに負けてたまるか」

「もう1合だけ飲んで帰るか」
洋司は、徳利を持ち上げて、店員に1と指でサインした。

「私には野望があるんです」

二人の話は、その先も続いた。
結局、追加は1合で終わらなかった。

「西野、それは野望じゃない。目標だ。
現場に未来はあるよ」

ようやく二人は席を立って、帰って行った。

洋司は、衣子に昨夜のやり取りを一通り話してから、こう聞かれた。

「で、西野さんが言う野望って何なの?」

「野望って言ったんだよ。
でも、肝心の中身がどうしても思い出せなくて」

「でしょうね。そこが、立派な大所長になる西野さんと、政治家とか人のせいにして愚痴るだけのあなたとの違いよ」
そういって、朝ご飯を食べた皿を台所に持って行った。

痛いところを突かれた。ぐうの音も出ない。
その上、二日酔いで頭がくらくらする。
駄目だなあ、俺。
やっぱり西野に任せるよ。

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