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加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫)を読んで

 高校生に向けての講義という形式で、日清戦争からアジア・太平洋戦争に至るまでの歴史的な流れを概括する一冊。

 およそ歴史の語りや記述において、不偏不党、中立的な立場をとることなど不可能だ。対象となる出来事や人物についての無数の情報からいったい何を選択するのか、その一点においてすら、語る者の主観や信条が反映されることになるのだから。
 もちろん、本書の筆者もそのような歴史叙述の基礎中の基礎を、大前提として語っている。
 しかしながら、おそらくは高校生を相手にした講義であるという点もあってだろうか、歴史的な出来事や人物の持つ意味を、決して一義的に固定することなく、むしろ多角的に捉え直していこうとする態度は、本書の全体を貫く一つの大切なコンセプトになっていると感じられた。
 例えば、あの足尾鉱毒事件で農民の側に立って戦い、ついには天皇への直訴まで試みたというリベラルなイメージのある田中正造について、筆者はこのような逸話を紹介している。すなわち、田中は日清戦争について、それを「良い戦争」と評価していた、と。
 勝利が決定的な段階で、彼は、「文明の名誉は全世界に揚(あが)れり」と年賀状にしたためる。あるいは、「自分たちが一生懸命、政府のお尻を叩いて節減させた」結果として、政府は戦争における莫大な「軍費」を払うことができたのだと、自分たち議会の"功績"を、日清戦争を礼賛する流れのなかでしれっと言葉にする。
 そこから読み取れるのは、決して"リベラル"の一言で語ることなどはできない、田中正造の意外な側面である。
 例えば、松岡洋右の一般的なイメージはどうか?
 やはり、満州国をめぐる問題で国際連盟を脱退する際に、総会に全権として出席し、そこで雄々しいタンカをきったという、いわゆる"強硬派"の印象が強いのではないだろうか。
 ところが筆者は、そんな松岡の言葉を引用し、例えば彼が、日本が袁世凱に突き付けた二十一カ条要求をかなり批判的に見ていたことを明らかにする。日本が中国から泥棒をすることを、「他の国だって泥棒をしている!」という強弁をもって自己弁護しているに過ぎない、松岡はそう考えたいた、と。
 満州事変、日中戦争、アジア太平洋戦争に至る経緯についても、筆者は、日本のみならず、中国国民政府やアメリカ、イギリス、ドイツ、ソ連等々の視点や権謀術数などに多角的に言及し、安易な善悪二元論でそれらを語ろうとはしない。そこには、数多くの国々、人物たちの、決して単純化することのできない様々な思惑が絡み合っていたのだ。
 このように、本書は、歴史を叙述するうえでの多様な観点、あるいはその重要性を、筆者の語りそれ自体において実証するような内容となっている。
 となると、逆に思う。
 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』という本書のタイトルにおける、逆接「それでも」が持つ、とても重要で大きな意味を。
 そう。
 歴史は単純化することはできない。たった一つの事象を語るにしても、そこには無数の語り口や視点や信条があり得る。短絡的な善悪二元論で、誰かを、あるいは何かを、断罪することなど不可能なのだ。しかし、「それでも」、日本人が自ら戦争を選んだこと、その一点だけは、強く訴えておきたい。
 僕はこのタイトルに、そうした思いを解釈した。

 最後に、本書で僕が最も感銘を受けた一節を引用しておきたい。ここもまた、「それでも」という逆接を念頭において読むべき箇所だと、僕は思う。

歴史とは、内気で控えめでちょうどよいのではないでしょうか。本屋さんに行きますと、「大嘘」「二度と謝らないための」云々といった刺激的な言葉を書名に冠した近現代史の読み物が積まれているのを目にします。地理的にも歴史的にも日本と関係の深い中国や韓国と日本の関係を論じたものにこのような刺激的な惹句のものが少なくありません。
 しかし、このような本を読み、一時的に留飲を下げても、結局のところ、「あの戦争はなんだったのか」式の本に手を伸ばし続けることになりそうです。なぜそうなるかといえば、一つには、そのような本では戦争の実態を抉る「問い」が適切に設定されていないからであり、二つには、そのような本では史料とその史料が含む潜在的な情報すべてに対する公平な解釈がなされていないからです。(中略)このような時間とお金の無駄遣いは若い人々にはふさわしくありません。

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