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人は何歳まで生きたら人生を全うしたと言えるのか?

twitterを見ていると、たまに「ご報告です。2日前、病状が急変し娘が亡くなりました。奇跡が起きることを信じていましたが15年の人生を閉じました。応援してくださっていた方々にご報告申し上げます」みたいな文章が流れてきたりします。

人は何歳まで生きれば「人生を全うした」と言えるんでしょうかね。

平均寿命が80歳を超える年齢になった日本においても、当たり前に子供や若者が病気や事故や自死で亡くなっています。

そういうニュースを聞く度になんとも胸が痛くなる。

やっぱね、80歳を超えた年齢の人ならば亡くなっても「まあ、大往生だよ」って言えますね。

言わなかったとしても、そう思える。

少なくても私はそう思えます。

感覚的には、60歳だと若い。

当然、50歳、40歳、30歳っていう若さで亡くなった友人知人を思うと、本当に若すぎたと感じます。

ただね、これは本当に哲学的な死生観になるわけですが、人生というのは長さだけで語れるものではないですね。

好きな人を失くす悲しみ・苦しみとは別の問題として、人生の意義・意味を決める評価軸というのは千差万別・十人十色のそれぞれの物語と共にあるものであって、「とにかく長く生きるのが正義」ってのは、確かに強い一義はあるものの、決してそれだけではないって思いも確かにある。

寂しがり屋の私は、好きな人がいなくなることに耐え難い苦しみと悲しみを覚えます。

だからとにかく無条件に長生きして欲しいと思う。

けど、親が事故や病気で意識不明になり、生命維持装置をつけないと持ちません、ってことを医者に言われたら秒で「はずしてください」って言います。

子供や若者ならば別ですよ?

1ミリでも目を覚ます可能性があるのならば、そこに希望を見出すのは親心として人の弱さとして当然であると思います。

けど、少なくても先に死ぬのが当然の親であれば、寝たきりのまま、あまりにも少ない可能性を持ったまま子どものエゴで”生かす”ということは出来ないし、してはいけないと思ってます。

ま、それもね、私の哲学と死生観によりますがね。

私も何年か前の家族の法事の会食の時にそんな話になったので、「俺がそういうことになったら秒ではずしてくれ。絶対に延命すんな」って言っときました。

うちは兄妹に子供がいないし、親しい親族にも子供がいないので、俺等兄妹が死ねばそれで全部終わりです。

よって、誰か最後に残った人が後始末をして終わりなわけですが、墓とか葬式とかも全くいらない。

大体俺がそんなものは好きじゃないし、来てもらうのも悪いし面倒くさいし、墓参りとか邪魔くさいので、まあ好きにしてくれていいんですけど、「言ってくれないとどうしようもない」ってことならば、骨を粉末にして江戸川に流してほしいですね。

それで十分すぎるほど十分。


という諸々も、俺の人生観と死生観によります。

俺が人の死と生に関して好きな考え方は、

「常なるものはない・無常」
「起きることが起きる・起きないことは起きない」
「人の死は全てが寿命である」

ってものです。

私は若い頃から、哲学的なこととか宗教的なこととか小難しいことに興味があったので、色んな本を読んで色んな話を聞いてきて、「全ては決まっている。けど自由やねん」っていう矛盾感100%の論理に(感情的に納得して)行き着いたところがあるんですね。

なので、むかし読んでいた井上雄彦の「バガボンド」にその言葉が出てきて驚きました。


ま、これも、千差万別・十人十色の考え方の違いと好き好きです。

ただね、私は、人を楽にし、苦しみや悲しみを和らげ、日々を少しでも楽しく穏やかに笑って生きていける状態にしてくれる考え方とか言葉とかエンタメが好きなんですね。

だから、「自殺した人は天国に行けない」とか「神を信じていない人はあの世に行けない」的な考え方はクソくらえです。

お前、あの世に行ったこともねえくせに適当なことを言って他人を苦しめるんじゃねえよクソッタレが。

というわけで話が飛びましたが、自分の人生に価値があるか意味があるかを決めるのは自分です。

他人や他人の人生に価値や意味があるのかを決めるのも自分。

100歳で亡くなった人に「こんなに早く死ぬなんて・・・」って嘆くのも自由だし、10歳で亡くなった子に「悲しいけど出会えてよかった。あの子のおかげで私の人生は素晴らしいものになった。本当にありがとう」って空に向かって泣きながら言うかどうかも自由。

結論は、自分が信じたいことを信じりゃいいんだよ!

こちらからは以上だ!

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