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僕が大切にしていること

こんにちは
毎日noteを書いていた時は毎日何を書こうか考えていたんですが、最近は1日おきになったので、考えない時間が出始めました笑

とか言いながら、2日開けてしまいました笑

さて
そんなことは置いておいてのんびりかいていきますが
今回はちょっと僕のお話をしようと思います
ずっと僕の話を書いていますが笑

僕が大切にしていることとそれに由来して今回活動名を決定しました

ちょっと感動する、ちょっと神秘的なお話もあるので読んでってください
あと長いんでちょくちょくと呼んでってくださいね笑


僕が看護師になった理由

僕は最初から看護師になろうとは思ってませんでした
小学生の時は宇宙飛行士になりたくて仕方ありませんでした

というのも自分の祖父が夜になると星をいつも数えていて、それに付き合っていたから
僕はとてもおじいちゃん子で、祖父のことを「おとうさん」と呼ぶほど尊敬していました

自分の父親は当時はパパと呼んでいたので使い分けは問題ありません笑

おとうさんには庭仕事や昔の遊び、海軍から海上自衛隊の幹部の人だったので戦争の時の話など詳しく聞いたりしてとても楽しかった記憶があります

こどもが嫌いだった祖父でしたが、僕のことはとても可愛がってくれていて幼稚園のお迎えなど率先して来てくれ、おとうさんが来る日は探して欲しいので隠れていた記憶があります

将来は祖父のようなかっこいい人になりたいという漠然とした夢は持っていました


突然の死

そんな祖父は自分が小学6年生の時に脳卒中で亡くなりました
突然の出来事でした

修学旅行の約1週間ほど前の出来事、僕の家は祖父の家と僕の部屋を通してつながっている二世帯住宅だったのですが
僕の寝ているベッドの横を人がたくさん通る音がして目が覚めました

その時の光景は今でも鮮明に覚えているのですが
目の前が真っ赤に見えたんです
暗闇の中なはずなのに僕の目には真っ赤の光景と、黒い人影が横を走っていく姿だけが見えて、僕はそのまま眠ってしまいました

真っ赤のイメージ的には、赤い下敷きってありますよね?
あれを顔に当てて景色を見た感じにとても似ています

翌朝親から祖父が救急車で運ばれたと言われました
その時にあの赤い光景は救急車のサイレンの色かと思ったのですが、それはあり得ませんでした

僕の部屋の道路側、救急車が停まった側には窓は一つもなかったからです
そして、親からも僕の部屋は真っ暗だったと言われました

とても嫌な予感しかしませんでした

そのまま病院へ家族と行き、最初に祖父が運ばれたのは一般病棟についている集中治療室でした
4床のベッドが横並びしてナースステーションに横付けされている部屋でした

背筋が凍る感じがしたのを覚えています
部屋に入ると祖父は笑顔で、すぐに治るからといつも感じでした、それをそのまま受け取りましたが、内心は不安しかありませんでした

帰り道なぜか僕はずっと泣いていて、嫌な予感がずっと心にある状態でした


もう話すことはできなかった

翌日面会に行くと祖父は意識がなくなっていました

前日の容体からかなり急変して意識がなくなり話ができなくなってしまっていたのです
声をかけることしかできず、学校での出来事を話すことくらいしかできませんでした

修学旅行の出発がもうすぐ控えていて、親から行くのかどうか聞かれとても迷っていました
でもそんなことはなくなりました

出発の前に祖父がさらに急変があったと家に連絡があり親と祖母と自分で病院へ向かいます

素人の僕は状態が変わった様子は見られず、意識がないままだったので良くわからず祖母と一緒に見ていました
親は姉が学校から早く帰ってくるように電話をしたり、従兄弟の方へ電話をかけて急いでこっちにくるように連絡していました

そんな祖母と僕が見ている時

「呼吸が止まってる」

祖母が不意に言ったんです
全然気づかなかった

急いでナースコールを押して、親は外で電話をかけていたので走って呼び戻しに行きました

親を呼んで部屋に戻ってくると、看護師と医師が心臓マッサージ(胸骨圧迫)をしていました
初めてみる本物の人に対する心臓マッサージ、そして祖父のお腹はすごい大きさに膨れ上がっていました

そんな姿を見て、僕は信じてもいない神様に祈っていました

「どうか助けてください」

そんな祈りも虚しく、父親から
「もう大丈夫です、ありがとうございました」と医師へ伝えられました

僕は
「だめだよ、やめちゃ、死んじゃうじゃん」
と心では思っていましたが、実際には
「ありがとうございました」と震えながら医師へ伝えていました

親や祖母が泣いている姿を初めて見ました
そして自分は神様に祈るしかできない無力さを実感しました


死というものを考えるきっかけに

初めて人の命が「生」の状態から「死」の状態移り変わる瞬間を目の当たりにしました
ほぼ毎日面会に行っていたのに、祖父のお腹が張り切れるくらい膨れ上がっているのに気づきませんでした
(後から聞いたのは、出血をしていたようでお腹の中に血液が溜まってしまっていたそうです、今でもそれを聞いてもいまいちわかりませんがそうらしいです笑)
そして、祖母の呼吸が止まっているという気づきは元々看護師をしていたのもあったのかもしれないと思いました

祖父が亡くなった後、葬儀に出るため修学旅行へ行くことはしませんでした

小学校のみんなが修学旅行に行ってる最中に僕は祖父の葬儀に参列して、人が焼かれて骨になるところまで見ることができました

学校のみんなが帰ってきて、僕も学校に行きました

そこで行われたのは、修学旅行の思い出を作文にする授業でした
僕にはそんな思い出はない

担任の先生に伝えると、祖父との思い出を書くように言われました
今思えば結構酷だな〜と思うんですが、当時の僕は特に考えもせずいうことを聞きました

でも書けば書くほど涙は流れ、いなくなってしまった実感を感じました
そして、改めて人の死というもの、いつ死が訪れるかはわからないこと、残された側の気持ちなどを強く実感することとなりました

これがあったからこそ、今の僕の価値観、看護感はあるのかもしれません


実感だけでは辛いだけだった

でも、実感すればするほど心に大きく開いた穴を感じてしまうのでしんどいだけでした笑

中学校に上がると、女性の担任の先生がとても面倒を見てくれて、最後の3年生だったかな?
面談をみんなするんですが、僕との面談の時にとても親身になって話を聞いてくれました

ベテランの先生ではなく若い女性の先生だったので、距離感が近かったのかもしれませんが初めて、人に祖父との思い出、穴が空いているというのを打ち明けました

その時にようやく心が軽くなったのを覚えています
ただ人の死を実感するだけでは辛く、1人で受け止めるにはきついんですよね

そして、それは死だけでなく、他のことでもそうだなーって思ったんです

なので人に話す、聞いてもらうというのがとても人を救う手段として良いと思うことができたんです

そうなった時に、医師ももちろんいいなーと思ったんですがやはり看護師というのが話すことや距離感が近くなれると思って看護師を目指し始めました


活動名はMuku

さてとても長い思い出話にお付き合いいただきありがとうございました笑
そんな実感を与えてくれた先生は、成人式の時にわざわざ
「あの時作文に辛い思い出書かせてごめんな」と謝ってくれました
でも、謝る必要なんてないと思ってます、なぜならあれがあったから今の自分はあるんで感謝です

そんな先生が実は異動などはあったようですが、今同じ学校に戻っているとたまたま聞くことがあったんです

しかも特別支援学級を受け持っているようで、そこクラスの名前が「ムクロジ級」
僕の看護師のきっかけになった先生が、母校で福祉に携わる教室も持っているなんて何かの縁だなって思ったんです

僕もそれに乗っかってムクロジからとってMukuという名前を使おうと思いました

しかもムクロジって無患子って感じで書くんですが、病にならないという意味もあるので
僕の健康の活動にはバッチリな名前なんですよね笑

なので僕はこれからMukuのおのでらげんきとして活動をしていこうと思います

人はいつ死ぬかわからない
だからこそ今を生きることを大切と実感してほしい
いつでもどこでも頼られる存在に、日常と医療をもっと身近に

Muku


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