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日本の仏教を塗り替えた最澄と空海の真実に迫る!

本書は、歴史的背景を持つ二つの寺と、その背後に存在する最澄と空海の違いを巧みに織り交ぜて解説しています。彼らの唯一無二の性格と、時代背景を通しての彼らの相違点を深く探ることで、読者は新しい視点からの発見に満ち溢れた読書体験を得ることができるでしょう。


私はファンドマネージャーとして地方にDMOの運営をすることをしていますが、事業のお手伝いをさせて頂く前に最低限の知識や歴史的な背景への理解は相手をリスペクトしていく意味でもマナーとして背景を勉強します。

日本人は仏教といってもちゃんと理解している人は少数派では無いでしょうか?もちろん私もそんな一人ですが本書を読み進めることで概要のようなものが掴めることができました。

比叡山は京都に住んでいた時期が長いだけに割とテンポよく理解できた気がするのですが、高野山は密教というイメージでしたし、私自身が都会から地方の中山間地で農業生産法人を経営していた経験で、さらに保守的?陸の孤島というイメージも強いので独自の文化がありそうな、そんな少し畏怖の念を持っていました。

高野山寺では、奥深い高野山の宗教的環境から解説されており、最澄とともに渡唐した空海の半生から環境的な背景、他にも「古事記類」「紀伊国続風土記」「紀伊国名所図会」などの一節を引用しながらの記述これ自体が素晴らしく、古典であり味わい深い一冊となりました。

平安京の東寺や、神秘的な高野山には、空海の手が触れ、彼の信仰の道を示す神々が息づいています。これらの地における神々は、地主神や護法神としての役割を果たしており、空海の真言密教の道を強力にサポートしてきました。最澄と空海の二人の巨人が、日本の神々との関係をどのように築いてきたのかを考えると、彼らが日本の宗教風景に及ぼした影響の大きさは、まさに計り知れないものと言えるでしょう。

平安時代、日本の仏教界において二人の卓越した僧侶が舞台を飾りました。その名は、天台宗を興した最澄と、真言宗の祖として名高い空海。これら二人の名は、仏教史において不朽のものとして刻まれていますが、なぜ彼らは頻繁に比較の対象となるのでしょうか?

彼らの生き様、哲学、そして教えは、一見すると異なるように感じるかもしれません。しかし、彼らが共に日本にもたらした教義、密教、は日本の仏教史における重要なキーワードとなっています。密教とは、インド起源の仏教教義の一部で、秘密裏に口伝えられる特別な教えを意味します。この密教を日本に伝えたのは、空海と最澄、そして彼らの継承者たちです。

密教は真言宗において「東密」として、天台宗においては「台密」として伝えられました。この二つの密教には、教義の解釈において明確な違いが存在します。真言宗の「東密」では、大日如来と釈迦如来は別々の存在として扱われるのに対し、天台宗の「台密」では、二つの如来は実は同一の存在とされています。

このように、最澄と空海は、それぞれの教義において異なる解釈や教えを持っていましたが、共に日本の仏教の発展に深く関与しており、その影響は現代まで色濃く残っています。

平安時代の仏教界は、真言宗と天台宗という二つの大きな宗派によって、その風貌を形成していました。真言宗は、密教の教えを主として取り入れた宗派であり、天台宗は、多様な仏教の教えを融合させてその教義を築き上げました。

その中心に位置する人物が最澄であり、彼の生涯は、日本の仏教史上、非常に重要な役割を果たしています。滋賀県大津市の地に生まれた最澄は、若干12歳の時に早くも僧侶の道を選び、その後の彼の人生は仏教への奥深い信仰と、それを日本中に広めることに捧げられました。

しかし、奈良時代の仏教界は、政治と密接に結びついており、その腐敗した状況に失望した最澄は、真の仏教の教えを求めて比叡山に隠棲し、深い修行を積むようになりました。桓武天皇も、この時代の仏教界の腐敗に危機感を持ち、新たな仏教の教えを取り入れることを望んでいました。そこで、最澄の存在を高く評価し、彼を留学生として唐に遣わせました。

最澄の留学は、後に日本の仏教の発展に大きな影響を与えることとなり、真の仏教の教えを日本にもたらす重要な一歩となったのです。

平安時代、比叡山の静寂の中で最澄は、延暦寺を築き上げ、本当の「救いの仏教」を日本に根付かせました。この山頂に彼が安置した薬師如来像の小堂が、後に延暦寺の中心となり、最澄の持つ広大な知識と修行の結晶として日本の仏教界に輝くようになりました。

唐から持ち帰った多岐にわたる知識は、天台宗の開宗とともに、多くの人々へと伝わっていきました。最澄の教えは、一切の差別を超え、すべての人を救う「菩薩僧」という理念に基づいていました。彼が逝去した後も、その教えは弟子たちにより受け継がれ、日本の仏教界に大きな影響を与えました。

天台宗は、さまざまな仏教の教えを包括する宗派として、多くの宗祖がこの地で学び、それぞれの教えの形を築いていきました。そうした背景から、延暦寺は日本仏教の母山と称されるようになりました。現在も、多くの人々が最澄の教えを求め、比叡山を訪れています。

その結果、天台宗は、「全てを包括する仏教」を象徴する宗派として、今日も多くの人々に愛されているのです。


不滅の灯火~比叡山延暦寺の永遠の輝き

平安時代から続く比叡山延暦寺は、実は三つの異なる地域に分かれた広大な寺院群を抱える特異な存在です。その中心とも言える場所、東堂地域に鎮座する「根本中堂」は、最澄自らが彫ったと伝えられる薬師如来像を秘めています。この如来像は一般に公開されることはなく、神聖な存在として尊ばれています。

中堂の前に、ずっと昔からの明かりが揺らめく三つの灯篭が置かれています。この灯火は、1200年以上の時間を経ても消えることなく、夜の闇を照らし続けています。この不滅の法灯は、時代の変遷、戦火、そして災厄を乗り越え、今もなお比叡山の夜を明るくしています。

特に、戦国時代に織田信長の手によって焼き討ちされた際、この法灯も一度は消えてしまったと伝えられています。しかし、奇跡的に山形の立石寺に保管されていたその分灯が、延暦寺の再興の為に持ち帰られました。この法灯の再燃と共に、最澄の「一隅を照らす」という教えが僧侶たちの心に火をつけ、多くの人々が再び延暦寺の復興に尽力しました。

そして、豊臣秀吉や徳川家康といった歴代の権力者たちも、この神聖な場所を庇護し、延暦寺はかつての栄光を取り戻していったのです。


天才肌の僧侶~空海と真言密教の誕生

空海は、日本の仏教史上、その才能と魅力で独自の位置を占めています。香川県の名門に生まれ、若き日には官僚としてのエリートコースを歩むことを期待されていました。しかしその運命は、彼が仏教の魅力に取り憑かれ、その深淵を追い求めることで大きく変わりました。

彼が仏教に興味を持ち始めたのは、19歳の時。大日経の中の教えに魅かれながらも、その深遠な内容を完全に理解することができなかった彼は、さらなる知識を求めて、最澄と同じく遣唐使の一員として唐へと渡りました。

最澄が多岐にわたる仏教の勉強に時間を費やしたのに対して、空海は2年の間に密教を中心に学び取りました。彼の持ち帰った知識と経験は、日本に真言密教という新たな流れを生み出すこととなりました。

「真言」とは、人間の言葉だけでは表現しきれない仏の真実の言葉を指します。空海はこの「真言」を通じて、日常の出来事や感情の背後に隠された真実を解き明かす方法を伝えました。それが「密教」です。

空海の天才的な才能と彼の持ち帰った教えは、日本の仏教史に新たな章を刻むこととなったのです。


空海と高野山~真言密教の心源とその霊的風景

ある日、空海の足取りは、深く密教の真髄を探求するため、遠い唐の地へと続いた。そこでの出会い、青龍寺の恵果との運命的な繋がりは、空海が日本で真言宗を開宗する原点となりました。恵果から受け継いだ密教の教え、特に「身密」「口密」「意密」という三密の修行に基づく即身成仏の教えは、空海によって真言密教の中核として築かれていった。

高野山金剛峯寺は、その真言宗の根本道場として、和歌山の静かな山中に佇んでいます。多くの寺院がその土地に点在し、その美しい風景はユネスコの世界遺産にも認定されるほどの価値が認められています。この山は、曼荼羅の形を象った特異な地形に恵まれ、空海はその地を選び、曼荼羅の世界を現実の中に具現化しようとしました。

しかし、現代の困難な状況、特に新型コロナウイルス感染症の拡大により、私たちの活動も一時的に停止を余儀なくされました。それでも、空海の教えや高野山の霊的な風景が、私たちの心の中で今も生き続けています。

今回の紹介はここまでとさせていただきます。皆様の心に、空海の教えや高野山の歴史が深く響くことを願っています。

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