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CANCER QUEEN ステージⅠ 第6話「運命」


【これまでのあらすじ】

    キングは健康診断で肺に影が見つかり、再検査の結果、主治医のドクター・エッグから肺がんと告知された。クイーンはがん細胞でありながら、キングの肺の中で、彼の体を気遣うのだった。
    キングは死の恐怖と闘いながらも、これからの人生に3つの目標を立てることで、生きる覚悟を決めたのだった。

前回はこちら、第5話「キングの望み


   
    以前から、キングは人前で平然とタバコを吸っている人を見かけると不機嫌になっていたけど、肺がんと告知されてからは、それがいっそうあからさまになった。タバコを吸わない自分が肺がんになったのは、受動喫煙が原因に違いないと思っているの。

    そう決めつける根拠は何もないのだけれど、そうとでも思わないと、肺がんになったことの理不尽さや悔しさをどこにも持っていきようがなかったのね。

    一昔前まで、公共の場でタバコを吸うことには何の規制もなかった。職場やレストランや映画館や公園など、どこへ行ってもタバコの煙があちこちから漂ってきたというから、タバコを吸わない人には地獄のような世界だったわけ。

    彼は以前の会社で、オフィスに立ち込める煙に耐えかねて、真冬だというのに、窓を全開して換気をしたことがあるらしいわ。一斉に、「寒い!」と苦情が出たけど、彼は一歩も譲らなかったそうよ。煙で10メートル先も見えないくらい酷かったというから、無理もないわね。受動喫煙防止が当たり前の今では、とても考えられないことだわ。

    そんな彼でも、最近は喫煙者にも少し同情的になってきた。今でも受動喫煙には厳しいけれど、喫煙が原因で、肺がんに限らずさまざまな病気になることがわかっていても、タバコをやめられない喫煙者には、もっと命を大切にしてくださいと心で念じているの。
    あなたの命はあなただけのものではなく、あなたの周りの人にとっても大切なんだから、と言うのよ。

    そんな気持ちになったのは、自分が肺がんになって、生きていることのありがたさを身にしみて感じたかららしい。
   
    彼はこんな風に考えているの。
    1人に1つずつ、平等に授かったかけがいのない命だから、粗末には扱えないはずなのに、人は普段はなかなかそれに気づかない。命はあって当たり前で、生きていることを意識することもあまりない。病気になって初めて、命というものを実感する。目の前の死を意識して初めて、生を実体として意識する。命のありがたさを最も強く感じているのは、命を失いかけている人だ。
   でも、それでいいのかもしれない。四六時中、命、命と意識するのはしんどいことだ。絶えず死の恐怖を感じていては、人は生きてはいけない。それこそ精神を病んでしまう。普段は、生も死も意識しないでいられることのほうが幸せだ。生も死も、どちらかを強く意識せざるを得ない状態のほうが異常なのだ。
    それは病気に限らない。戦争、内乱、ジェノサイド、飢餓、地震、異常気象、環境破壊、公害、原発事故、労働災害、交通事故、過重労働、人種差別、女性差別、障害者差別、DV、セクハラ、パワハラ、いじめ、………。
    数え上げたらきりがない。現代という時代は、本当に生きにくい時代なのだとつくづく思う。人類がこれまで築き上げてきた繁栄と進歩は、いったい何だったのか。世界中を混乱と悲劇に陥れただけではないのか、と。

    そうね、人間にとってはストレスだらけの現代社会というわけね。でも、わたしたちがん細胞にとっては、むしろ最高の環境になったのかも。

 ついに運命の日が来たわ。今日は精密検査の結果が出る日。果たして運命は、どんな風にキングの扉を叩くのかしら。

    ステージはいくつなのか、転移はあるのか、わたしもすごく気になるわ。
    どっちにしても、肺がんであることは確定しているんだから、いまさらじたばたしても始まらないと、彼はとっくに覚悟を決めてはいるんだけど。

     午後3時、彼と奥さまが一緒にドクター・エッグの話を聞いた。ドクター・エッグは、パソコンの画面を指差しながら、彼よりは奥さまに向かって、これまでの経過を丁寧に説明し始めた。
    あれこれと難しい説明のあとに、

「がんは肺腺がんという種類でした。幸い、転移はどこにも見られませんでした」

    と聞いて、それまで不安そうだった奥さまの顔がぱっと明るくなった。

 あれ、へんね。わたしの名前は、なんたらかんたら大細胞がんという、長ったらしい名前じゃなかったかしら?
    わたしの記憶違いかな。まあ、名前なんてどうでもいいけど……。

   すると、

「ステージはいくつですか?」
    
    と、彼より早く、奥さまが聞いた。

「ステージはまだ決まっていません。縦隔という周りの組織に、がんが浸潤、つまり、広がっているかどうかで、ステージが変わります。広がっていなければ初期の段階です。幸いまだ手術ができる段階なので、治療方針としては、まず手術を最優先に考えたいと思います。手術のあと、検査をしてステージが確定します」

「あの、あと何年生きられるかということは、わかるのでしょうか?」

 奥さまがずばり質問した。けっこう大胆なのね。
    ドクター・エッグは少したじろいだ様子で、

「まだ初期の段階でしたら、5年生存率は80パーセントくらいです」

 と、答えたの。

    よかった! 心配したほどじゃなくて。でも、もしかしたら、ドクター・エッグは奥さまを気遣って、高いほうの数値を言ったのかも……。

 「でも、仮にステージ3だとすると、5年生存率はもっと低いですよね」

 と、今度は彼が、まだ安心できないという表情で聞いたの。さすがにいろいろ調べているわね。

「今はそこまで考えずに、手術を乗り切ることだけ考えてください」

 と、ドクター・エッグはきっぱりと答えたわ。先生の言うとおりね。肺がんは、手術ができるだけでもラッキーなんだから。

「手術でがんを取り切れれば、完治も可能です。検査の結果、ステージによって、抗がん剤を使う化学療法を行うかどうかを決めます」

「浸潤の可能性は高いのですか?」

 と、彼が続けて質問する。

「そうですね。可能性は高いと思います」

 ドクター・エッグは率直に答えた。 

    どうやら、ステージ3は覚悟しないといけないようね。彼の表情が少し強張ったわ。

「手術では1週間程度の入院になります。日程は外科医の診察を受けてもらってから決めます。診察は、来週ですと、いつがよろしいですか?」

 と聞かれて、

「早い方がいいですよね?」 

 と、彼は気管支鏡検査の時と同じ質問を繰り返した。

「日を置く理由はありませんね」

 と、ドクター・エッグも同じように答えたわ。結局、外科医の診察日は1週間後の12月7日と決まった。

「これまでの説明で、何か不明なことはありますか?」

 と、ドクター・エッグが聞くと、彼はまた難しい質問をした。

「放射線治療は、必要ないですか?」

「手術で取ってしまえば、その必要はありません」

「遺伝子治療のことですが、それはどうでしょうか?」

 この質問に、ドクター・エッグは、

「それについては、いっぺんにお話しすると混乱されると思い、触れませんでした」

 と答えたの。お医者さんは、患者さんの病状や心理状態を見ながら説明しないといけないから、大変ね。

「遺伝子治療のことは気管支鏡検査の際に説明を受けていますから、大丈夫です。お願いします」

 と、彼は、なおも食い下がるの。

「それについては、ある意味、不幸中の幸いでした。遺伝子検査の結果、EGFR遺伝子に変異が見つかりましたが、これには既に有効な分子標的薬があります」

「それは保険適用ですか?」

「はい」

「手術のあと、従来の抗がん剤ではなく、最初からそれを使うことはできないのですか?」

「エビデンスと言って、科学的根拠に基づいて治療を進めますが、この薬は、手術直後の使用では効果が認められていません。ですから、再発した場合に使うことになります」

「分子標的薬が使えるのはありがたいことです。まさに、ラッキーでした。でも、それで完治するわけではなく、延命させるだけですよね?」

「おっしゃるとおりです」

 何だか難しくて、わたしにはよくわからなかったけど、分子標的薬って、わたしが標的になるのかしら。なんか怖いな。そんな薬に狙い撃ちされたら、わたし、いっぺんに死んでしまいそう。キング、助けて! 
    でも、キングが言うように、完治するんじゃなくて、延命するだけってことは、わたしはかろうじて生き残る可能性もあるってことよね。
    肺がんは再発リスクが高いから、再発しても、保険でその分子標的薬が使えるなら、彼にはいいことには違いないんだわ。

    それで彼は、少し気分が軽くなったみたい。それまで黙って2人のやり取りを聞いていた奥さまも、

「私が胃がんになったら、先生を指名できますか?」

 なんて、微笑みながら冗談を言うのよ。奥さまっておもしろいね。でも、こんなときに冗談を言えるなんてすごい。

「いやあ、私は肺が専門ですから」

 と、ドクター・エッグは頭をかきながら、真面目な顔で答えたわ。

  診察が終わって、これで帰れるのかと思ったら、まだもう1つ検査があったの。肺の機能が手術に耐えられるかどうか調べるんだって。病院ってどうしてこう、検査ばっかりやるのかしら。

    2階から検査室のある4階まで、彼は階段で行くつもりだったけど、奥さまはエレベーターを待っているの。彼はこの頃、奥さまの運動不足が気になるらしい。

    肺機能検査と聞いて、彼は小学生の頃の肺活量検査を思い出したみたい。それなら5分もかからないだろうから、一緒に行く必要はないと、奥さまには廊下で待っててもらうことにしたの。ところが、それがとんでもなかったの。 

 検査室に入ると、いちばん奥の、カーテンで仕切られたコーナーに案内された。いかにもベテランという雰囲気の看護師さんが、彼にモニターの前の丸椅子を勧めながら、

「これを口にくわえてくださいね」 

    と言って、先の太いじょうろのようなプラスチック製の器具を渡したの。彼が口にくわえると、看護師さんは、息が漏れないように、鼻を洗濯バサミのようなクリップで摘まんだわ。

    何だかいたずらっ子が悪さをした時に、おかあさんに叱られて鼻を摘ままれたみたいで、笑っちゃったわ。 

「最初は練習です。私の合図に合わせて、普通に、吸って、吐いてを繰り返してください」

 彼がこっくりとうなずいて、言われたとおりに息を吸うと、モニターには地震計のような波線が表示された。彼は小さい頃からいろんなスポーツをやってきたから、肺活量には自信があったみたい。
    モニターの波形を見ながら、吸ったり吐いたりを繰り返すうちに、だんだんときれいな波線が出るようになった。

「お上手ですね。その調子」

    なんておだてられて、いかにもうれしそう。

「では、本番。始めは普通に、そのあと、合図をしたら息を吐き続けます。全部吐き終わったら、大きく息を吸います。そこで一気に吐き出します。よろしいですか。では始めますよ」

 と、ベテラン看護師さんは、噛んで含めるように説明した。キングはいつでも来いという顔で、合図を待っている。

「はい、吸って、吐いて」

 始めは調子よくスタートしたわ。ところが、

「はい、大きく吸って、まだまだ吸いますよ」

    と、いつまでも吸い続けさせられて、彼の顔がみるみるうちに真っ赤になった。もう限界と思ったら、今度は、

「はい、吐いて。吐いて、吐いて、吐いて、まだ吐けますよ。まだまだ、頑張って。お腹に力をいれて、吐いて、吐いて」

 と、いつまでも吐き続けさせるの。この看護師さんは彼を殺すつもりかしら。彼の顔から汗がどっと噴き出してきたわ。

「はい、楽にして」

 ようやく息を吸うことができた時には、彼の目は白黒していたわ。中学時代のサッカー部の鬼のようなコーチでも、ここまで厳しくはなかった。これじゃあ、まるで拷問だ、と彼は思ったみたい。

    ようやく検査が終ったと思って、彼が腰を上げると、

「はい、もう一度。なかなかいいですが、もっといい波形になるまで、何度でもやりますよ」

 と、看護師さんが言うの。この看護師さん、顔は優しいけど、本当に鬼のようだわ。結局、このあと3回もやり直しさせられたの。
    今度こそ終わり、と思ったけど、まだ許してくれなかった。

「はい、次は別な検査です」

    それを聞いて彼は、全身から血が引いたように、真っ青になったわ。

「今の検査は肺活量検査で、肺に入る空気の容量を計ったのですが、今度は、一気に吐き出した時の空気の量を計ります」

    いったいどこがどう違うのか、わたしには全然わからなかった。この人ひょっとして、肺がん患者をいじめて喜んでいるんじゃないの。わたし絶対、院長先生に言いつけてやるわ。 

 「はい、吸って、吐いて」

 モニターにはこれまでの波線ではなく、丸い線が描かれていく。静かに息をしている時は小さな円になるけど、大きく息を吸うと線が急上昇し、反対に一気に吐き出すと急下降して、小さな丸が大きな三角形に変わるの。見ていると面白いけど、やっているほうは大変よ。わたしも彼の肺の中で、一緒に赤くなったり青くなったりしていたわ。

    例によって始めは、こっちのほうが上手ですね、なんておだてられて、彼はよく頑張っていたけど、この検査も4回もやり直しをさせられて、最後には精も魂も尽き果ててしまったみたい。

    それでも、

「私の成績はどうでしたか。何とか手術は受けられそうですか?」

    と、弱々しく聞いたの。

「手術を受けるんですか。大丈夫です。立派な成績ですよ」

 と、看護師さんは、まるで小学生を褒めるように言ったわ。

「こんなにハードな検査だったら、途中でやめてしまう人もいるんじゃないですか?」

「そうですね。いつも患者さんからは、鬼のような看護師だと言われます」

 やっぱりね。でも、そう言って彼女が微笑むと、それまでの鬼の顔が、まるで別人のように、すてきな恵比寿顔に変わったわ。

 廊下に出ると、待ちくたびれた奥さまが、彼の真っ赤な顔を不思議そうに眺めていたわ。

    キング、ほんとうにお疲れ様でした。わたしももう、へとへとよ。


(つづく)

次回はこちら、
第7話「外科部長」


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