女たちの王国

「女たちの王国」には夫婦が存在しない

この本を読み終えて思った。世界中が女たちの王国になれば戦争はなくなるのではないかと。

風が吹けば桶屋が儲かるような話に聞こえるだろうか。正直、そんなに単純な話で世の中のあらゆる戦争が消滅するなら、もうとっくに消滅しているはずだと自分にさえ突っ込みを入れたくもなる。だけれども、世界中あまねく完全なる「女たちの王国」が存在したことは人類史上ないのだから、仮に、あくまでも仮に、世界中のあらゆる社会が「女たちの王国」になれば、欲望を満たすためだけの無意味な奪い合いによる殺し合いが、ひょっとしたら本当になくなるかもしれないという考えがよぎる。

中国の奥地に実存するモソの人たちの集落。著者はそこを「女たちの王国」と名づけ、完全な家母長制社会の日常生活と文化を紹介している。もちろん、そこに暮らすモソの人々は家母長制などという言葉は知らない。「結婚」も知らない。その概念すらない。ゆえに「夫」がいなければ「妻」もいない。「夫婦」という社会的立場が存在しない。

男女の関係が最初から最後まで完全に互いの自由意志によって成立している。相手のもとに通うのは男性のほうだ。女性のもとで一晩過ごして、朝になると男性は自宅に帰る。女性はいいと思う相手を受け入れる。相手が一人とは限らない。決まった相手と長年ずっと関係を持つ場合もある。そうでないことも多い。子供の父親が全員違うのも普通のことだし、そもそも子供の父親が誰か分からないことも多い。しかも――ここが家父長制社会で暮らす私たちには驚きなのだが――誰が父親なのかはこの「女たちの王国」の社会ではどうでもいいことなのだ。ただもちろん、父親が誰かはそこで暮らす人たちにはなんとなく分かるものでもある。なんとなく分かったうえで、決して詮索せず、それを話題にする人もいない。

誰が誰の相手だとか、誰と誰がそういう関係をもったとか、そんな下世話な話は彼らの会話のなかには決して出てこない。昨夜はどこにいたのと男に詰め寄る女はいないし、昨夜は誰と一緒にいたんだと女を責める男もいない。親も兄弟姉妹も世間も誰一人、何も聞かずに朝食をすませ、また一日が始まる。

なんと「粋」なことか。

筆者は「女たちの王国」に魅せられ、そこに家を建てて暮らすようになる。そこで分かったことは、彼らには「他人のものは他人のもので、自分が勝手に持ち出してはいけないもの」という所有権の認識がない・・とは言わないまでも、かなり薄い。たとえ誰か(つまり筆者)がお金を払って購入した車でも勝手に「借りて」乗り回す。鍋でも薪でも、その時に足りないものがあれば、隣の家から勝手に「借りて」持っていってしまう。語弊を恐れずに言えば、集落にあるものは全員のものという感覚なのだ。

領土、資源、財産、権力、そして女性。それを手に入れたいという欲望を満たすためだけの争いがここにはない。目の前のものを手に入れたくて相手を殴り倒すような喧嘩がない。所有欲に突き動かされた争いがない。ここで実現している社会が集落に隣接する地域に広がり、さらにその向こうへと拡大し、陸がなくなれば海の向こうへと伝染し、ついには世界中が家母長制社会へと変われば、世界はいまとは全く違う表情をもつようになるのではないだろうか。

この本を読んで、そんなことを考えた。


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