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(自分の現在の立ち位置)

 若い時、悪戦苦闘した日々を送った。毎日遅くまで働き、生活は楽ではなかった。

 人生70年も生きてくると、様々な人と巡り逢い、様々な人と別れがあった。一期一会なる言葉もあるが、人とのつながりの、その刹那刹那を大事にすると言う事だろう。自分の人生を振り返って思うに、なぜ生まれつき良いところに生まれてくるのか、なぜ貧しいところに生まれてくるのか、小さい頃からずっと疑問だった。

1. 小学校入学

 小学校一年に上り、今で言うピカピカの一年生だが、友達もできた、あの頃終戦から10年経った頃でもあり、物資もなく貧しかった。

が、自分はと言うと、生活は、中の上だった。

 ある日友達の家に、呼ばれて遊びに行った。信州の山奥でもあり、板の間のそれこそ殺風景な家具一つなく、片隅に寝るための布団が積んであるガラーンとした一部屋、そんな家に案内されて、絶句した。

2.自分との違い

 春先なのに暖房もなく、寒さをどう過ごすのだろうかと、考えざるを得ない家だった。家が農家だからかな、豆が所々板の間に散乱している。その友だちの話など殆ど聞かず、自分との置かれている違いの答えを必死に探している自分がいた。いやでも自分の生活とかけ離れていると感じざるを得ない、そんな家に見えた。

3.自分との葛藤

 自分はと言うと、家には掘り炬燵があり、家具や調度品には、何不自由なく、ある程度裕福な生活を送っていた。まだ、テレビとか言う現在では当たり前にあるものはなかったが、ラジオはあった。親父が、電力会社に勤めていたおかげで、暮らしぶりは、普通以上の生活ができた。一年生に上がる時、霜降りの制服(兄貴たちのお下がりではあったが)を身につけて4キロさきの学校へ兄貴たちに急かされ長靴で通った。まだ春先なので雪が残っている。おふくろは、下着だけはお古ではなく、新品を買って着せてくれた。

 その友達はと言うと、ツギハギのズボンに下駄といういでたちで、どう見てもミスボラシイいでたちだった。

 小さい頃は、瞬間に自分とのちがいを察知する能力に長けているものだ。

 そこからだったと思う。どうして生まれつきそんな差があるのかと思う様になった。哲学でも勉強していれば、わかったかもしれないが、当時の自分は疑問だらけだった。学校でも教えちゃーくれないし。

 またある日違う子の家に呼ばれて行ってみると、茅葺で出来た家には粗末ではあるが、部屋もいくつかあるみたいで、貧しいなりに家具もあり、掘り炬燵もあり、身なりもきっちりしていた。

 生まれた環境が、人によって違うと言うこの違いはなんだろうと言う疑問はさらに増した。その事が、自分の心の奥底に無意識という形で、奥深くしまわれた。

4. 柏原というところ

 信州のそこは、昔柏原(現在駅名は黒姫)と言って小林一茶の故郷である。いやが上でも一茶の影響はここそこに満ち溢れた場所だ。

 スズメの子そこのけそこのけおうまがとおる。

 古池やかわずとびこむ水の音

そんな風景があちこちにあり、風情あふれる街並だ。^_^

 町立柏原小学校の桜が満開の時に、始業式を迎えた。今でもその鮮やかさは、鮮明に覚えている。

5.オヤジの手帳

 この間、オヤジの遺品を見ていたら、一つの手帳が目に止まった、何気なく手帳をパラパラとめくると、手帳にビッシリ、自分の生い立ちから、現在までの事が隙間なく文字で埋め尽くされていた。その中に、オヤジが書いてあったことに驚いた。今では当たり前にある電気、当時は、電灯もない家庭も沢山あった。

 ここからは、オヤジの手帳からの抜粋。

6.手帳からの抜粋

 柏原での事。昭和28年3月鳥居川第二発電所、他第一、第三、第四と、柏原変電所の兼務を命ぜられ電気課長と一緒に行き先任の所長と引き継ぎを済ませ、そこに赴任した。毎日山へ歩いて登り、帰りも歩いて下った。冬になると雪が多くアノラックのみでスキーを担いでいき、帰りはスキーで一気に滑り終えた。そんな中、2棟の母子寮ができ、ある日、帰り道にその前を通ると女の子が、街灯の下で本を読んでいたので、あーこれは、中に電灯がないのだなと思い、家に帰り妻に話し、支店の配電の私の知っている人に電話して実灯させる費用と毎月の電気料を私の次男坊に役場へ届けさせたのです。妻がその家の人に少し喋ったので絶対に内緒だよとその方へ言うように伝えておいた。その後長野放送局から、取材に来られ、取材して行ったとのこと。あかりを灯した家の人から、いついつ放送があるので聞いてくださいというので、聞いたところ、どう言う人が、これをやったのかと聞かれたが、一向にわかりませんと答えている放送だった。その3年後わたしが、静岡県の富士郡芝川町長貫に転勤になり、これが最後ですと、電灯料をとどけました。

 とあった、余計なことをしてと思う気持ちもあろうが、オヤジらしい見て見ぬ振りができない性格の一面を見た気がする。

 当時、母子寮というと、母親一人の稼ぎでは、電気代も到底払えない状況だったのだろう。電信柱の電灯の下で、本を読んでいた女の子は、喜んでくれていたのだろうか?恐らく、現在生きておられれば、75歳位になっている筈だ。

 それからは、その母子の家から、毎年リンゴが届けられた。静岡に移り住んでから、こちらからはみかんを送って交流したようだ。それもある時を境に、パタリと消えた。オヤジの文章は、とても文学的な表現ではなく、オヤジらしい、玉石混交で、口語と文語が入り混じった、たどたどしい文章で、少し加筆したり、表現を直したりしたが、おおよそのストーリーは、変えていない。

7.本題

 自分の現在の立ち位置は、境遇とも、境涯とも、取れる。自分が作り上げた土壌というべきか

8.なにがいいたいの?と読者の方は、思ったとおもうが、最近になって、感じること。

 無意識という心の奥底にしまわれたものは、必ず無意識の行動で現れるという事だ。小さい頃の疑問を晴らすため、無意識のうちに読書に耽って回答をさがしていた。

 では生まれつき平等でなく、何故貧富の差として生まれてくるのかの回答は何・・・!?

 自分としての結論は、我々の世界は、この世だけでないと自分は結論づけた。そうなれば、過去の行動実績が、現在をつくるのは目に浮かんでくる。いわゆる因果応報である。

 もっと深い話もあるが、キリがないのでここらで幕引きし、又あらたな命題に、チャレンジしていく。

 生きるという文字を説明するとどうしても哲学を語らないと説明出来ないのではと思うこのごろである。




 

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