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『翠子さんの日常は何かおかしい』第17話 馬鹿笑い女

 先週の休日に訪れた廃病院は観光地と化していた。過去に凄惨な事件が起きている為、被害者の霊は存在した。今でも相応の恨みを抱き、自分達を出汁にして金儲けに勤しむ連中に半透明ながらも襲い掛かっていた。
 その怒りはもっともで時田翠子は手を出せなかった。人に悪影響を与える状態にも見えない。結局、懸賞金狙いの登録者に出会うことなく一日を棒に振った。
 過去の反省を元に作戦を練り直す。有名どころは観光地化するので避ける。いわく付きであまり人に知られていない場所が望ましい。ネットの細かい情報によれば湿気が多く、落書きが一切ないところが穴場の条件として挙げられていた。

「トンネルしかないじゃない!」

 思い立った翠子は金曜日の夕方に行動を起こした。パンツスーツの姿で勤め先のビルを出た。最寄りの駅から電車を乗り換え、私鉄の駅で下車する。日が暮れてホームは薄暗い。
 旧式の自動改札を通って駅舎を出ると、人工の光で浮き上がった木々が出迎えてくれた。視線を下げると痩せ細った道が左手に伸びていた。枝葉で覆われた天然のトンネルの奥まで続いているようだった。
 周囲に目を走らせる。翠子は表情を緩めて背負っていたリュックサックを下ろした。中から衣服を取り出し、手早く着替えた。黒いランニングウェア姿となり、暗視ゴーグルを装着した。レンズの部分の厚みは極限まで削られ、黒縁のロイド眼鏡に見える。
「なによ、これ! 昼間のように明るい!」
 方々の暗闇に顔を向けては、おおー、と興奮した声を上げた。はしゃぐ自分に気付くと、少し冷静さを取り戻して咳払いをした。
「さすがは天才児」
 リュックサックを背負って左手の道に踏み出す。にこにこと笑って軽快に歩いてゆく。近くで物音が起こる度に顔を向けた。
「これ、楽しいかも」
 弾むように歩き、物音に合わせて獣のように走る。無邪気な子供になって自然と戯れた。目的意識が薄らいだところで前方にトンネルの一部が見えた。
「これね」
 トンネルの上部には『鬼山おにやま第二トンネル』というプレートが嵌っていた。臆することなく内部に足を踏み入れた。
 翠子は中央を歩きながら左右に目をやった。右手にソフトクリームの絵が描かれていた。焦げ茶色はチョコレート味を想像させる。
「……上の『ブーン』はなによ」
 道は少し濡れていた。壁には稲光のような亀裂があった。いつまでも治らない傷のように水が染み出している。目にした翠子はにんまりと笑う。
 中程で別の亀裂を見つけた。縦の割れ目を利用して全裸の女性が描かれていた。開いた股間に指を添えて『濡れちゃった』と書かれていた。
「知るか!」
 怒鳴ると早足で通り過ぎる。
 出口が近くなると『うんこ』の文字で左手の壁が埋められていた。
「はいはい、うんこうんこ」
 反対側にも似たような文字が発狂したかのように書き殴られていた。
「はいはい、まん、言えるか!」
 翠子は怒気を孕んだ顔でトンネルを抜けた。木々に覆われた道の先は緩やかな下りになっていた。
「ここはハズレだね」
 古びたガードレールを見ながら尚も歩くと、気になる物を発見した。しゃがんで落ち葉を払い除けると朽ちた木の板に『旧道』の文字を見つけた。視線を上げると蛇のような道がするすると伸びている。
 瞬間的に動いた。翠子はガードレールを越えて奥へと走り出す。獣道を黒い獣が疾走する。迫り出す枝を掻い潜り、枯れ葉の上を滑って最後に跳んだ。
「雰囲気あるじゃない」
 眼前にやや縦長のトンネルが現れた。半ば自然に呑まれ、洞窟のような状態となっていた。
 翠子は胸を張って踏み込んだ。道には無数のコンクリート片が落ちていた。壁全体が泣いているかのように濡れている。
「落書きもないわね」
 大股で奥へと突き進む。待ち切れないとばかりに走り出し、トンネルを抜けた先で足を止めた。大量の土砂が流れ込み、道は絶たれていた。
 周囲に目を向けるが、半透明の人物は見つからなかった。
「こんなに雰囲気があるのに?」
 翠子が佇んでいると後ろから声が聞こえてきた。
「こ、ここはヤバイって」
「だから、いいんじゃないか。俺達のアートも映えるってもんだろ」
 翠子は後ろを振り返った。完全に目が据わっていた。薄い唇の片方を吊り上げる。
「……あの下品な落書きのことか」
 翠子は上体を低くして駆け出した。反響した音が二人組を襲う。
「な、何かくる!?」
「前だ! ライトを向けろ!」
 翠子に一筋の光が向けられる。当たる前に横へと跳んだ。壁を蹴って斜め前方に跳び、更に蹴った。左右の壁を蹴りながら二人組に迫る。
「な、な、なんだ!?」
「わからねぇ! とにかく戻れ!」
 翠子は指示を出していた一人の近くに着地した。素早く耳に唇を寄せて、逃がさない、と囁いた。
「うわああああ!」
 叫んだ一人は裏拳を放つ。大きな跳躍でかわした翠子は二人組を追い抜き、大声で笑いながら左右の壁を蹴って逸早く外に飛び出した。
 来た道を疾風のように駆け抜ける。
「少しすっきりしたかも」
 今日一番の収穫と言わんばかりの笑顔となった。

 後日、新たな都市伝説が加わった。
 ――廃道はいどうの馬鹿笑い女と。


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