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『翠子さんの日常は何かおかしい』第5話 殺人鬼

第5話 殺人鬼

 木々に覆われた駅舎は頑なに太陽を拒んだ。近くの岩肌の一部は黒く変色して水が染み出していた。しっとりとした空気と雰囲気は夜の気配を孕んでいる。
 同様に駅舎の内部は薄暗く、どこか寒々しい。ローカルアイドルのポスターは色褪せた上に皺が寄り、元の人物がわからないくらいに老け込んでいた。
 時間の流れを疑いたくなるような空間に時田翠子が立ち尽くす。薄汚れた壁に貼り付けられた時刻表を単身、冷めた目で眺めていた。
「……直帰ちょっきの理由がわかったわ」
 一時間に一本もない。二時間待ちが決定した。
 翠子は三人掛けのベンチを一瞥した。座るとスカートが白くなりそうなのですっぱりと諦めて外に出た。
 鬱蒼とした山が視界を埋め尽くす。スーツのポケットから二つ折りの財布を取り出し、中を開いた。三千円の出張費を見て微笑んだ。
「……店がないんだけど」
 左右に伸びる心細い道はどちらも深い山へと誘う。左の道はデータを届けた先に繋がっている。物々しい研究所であった。
 翠子は右の道を選択した。道なりにダラダラと歩く。緩やかな曲がりを越えると岩肌に立て掛けられた看板を見つけた。
『チカン注意』
 翠子は声を出して笑った。目を血走らせて腹を抱える。
「ふざけんな!」
 最後に怒鳴ってカツカツと音を立てて散歩を再開した。
 左右が木々に覆われた。粉砕されたような砂利が道に散乱して非常に足場が悪い。
 翠子はくるりと向きを変えた。
「待てよ」
 背後の声には答えず、来た道を戻る。
「そこの女、おまえのことだ」
 翠子は左右の風景に目を細める。先程とは打って変わって弾むように歩いた。
「おまえ、俺に気付いているよな」
 真横から声がした。翠子は逆の方向に顔をやり、へー、と小さな草花に向かって声を漏らす。
「童顔のくせに赤パンかよ」
 下からの声には即座に反応。翠子は躊躇ちゅうちょなく蹴り上げた。道の一部がえぐれて吹き飛んだ。
「恐ろしい女だねぇ。俺が生身ならな」
 男は平然と正面に立っていた。伸ばし放題の髪は肩に届く。零れ落ちそうな両眼は濡れ光り、長い手足を意味も無くぶらぶらさせた。
 翠子はやや視線を下げた。男のシャツには黒い飛沫が無数に付いていた。
「気になるよな。そりゃ、そうだ。俺はある意味、有名人だからな」
「そうでもないんじゃない。私は知らない訳だし」
「おいおい、強がりはよせよ。世間を震撼させた令和の殺人鬼、二十人殺しだぞ、俺は」
 男は舌なめずりした。翠子は遠慮なく近づくと相手の顔面に拳を突き入れた。引き抜いて首筋に鋭い手刀を叩き込む。
「なるほどね。物理だと全く効果はなさそうね」
「そういうことだ」
 半透明の身体を誇るように男は両腕を広げた。無防備な姿勢のままにやりと笑った。
 目の当たりにした翠子は薄笑いを返す。
「その二十人殺しも、今では落ちぶれて悪霊になっているのよね。もしかしてさっき見掛けた看板の『チカン注意』ってあんたのことでしょ」
「笑えない冗談だな。だがな、おまえのようなじゃじゃ馬は嫌いではない。殺す前に少し調教してやるか」
「空気のようなあんたに何ができるのよ」
「慌てるな。見ていればわかる」
 男は右手を伸ばす。左手は右の手首を握った形で全身を震わせた。連動するように道に落ちていた砂利が一斉に震え出す。どこからか飛来したナイフが右の手に握られた。
「驚いたか。これがポルターガイスト現象だ」
「忘年会で役に立ちそうね」
「その強がりがいいな。良い声で泣けよ」
 男は音も無く前に出た。ナイフの切先で翠子の目を突きにきた。顔を傾けて難なく避ける。薙ぐ動作には後方に跳んで対応した。
「おまえ、普通ではないな」
「あんたは呆れるほど、普通だね。攻撃が単調で眠くなるわ。そんなのでも二十人殺しなんでしょ? 令和って平和な時代だったようね」
「……いつまでも避けられると思うなよ。人間の体力には限界があるからな」
「そこまで付き合ってあげるつもりはないわ」
 翠子はキョロキョロと辺りを見回す。木々で見え難くなった先にも目を向けた。
 男の口角が極端に上がる。
「こんな山奥に人なんかいねぇよ。残念だったな」
「人がいないから、いいんじゃないの」
 にっこりと笑った。左手の掌を目の高さまで挙げて人差し指で招く。
「……滅多刺めったざしにしてやる」
 翠子はにこにこ顔で、早くしろ、と素っ気なく言った。
 男は上体を低くして滑るように間合いを詰める。翠子は右手を突き出した。中指を曲げて親指で押さえる。
「なんだそりゃあああ!」
 叫んだ男の顔が仰け反った。短い苦鳴くめいが上がり、ナイフを取り落した。
 男は両手で顔を押さえた。前に倒れそうな身体を踏み出した一歩で支える。
「……何を、しやがった……」
 押さえていた手を離した。男の鼻は真横を向いた形で減り込んでいた。
「物理が無理っぽいから別の手を使ったんだよ」
「まさか、おまえは霊能者か! この俺を成仏じょうぶつさせるつもりだな!」
「だから、あんたなんか知らないって。悪霊を長くやり過ぎてボケたんじゃないの。それに私は霊能者じゃないし」
 その時、場違いな曲が流れた。軽快なトランペットが奏でるのは結婚行進曲だった。
「そろそろ電車の時間だね。じゃあ、終わらせようか」
 取り出したスマートフォンをポケットに入れ直す。
「俺に何をしたか答えろおおおお!」
「見た方が早いよ」
 翠子は両腕をだらりと下げる。右腕の輪郭がぼやけて別の腕がずるりと引き抜かれた。
「な、なんだ……なんなんだ、その腕は!」
「そんな感想になるよねぇ。霊感が強いと見えるみたいだし、私も嫌でさ。愛らしい乙女が台無しだよね」
 新たな腕は隆起した筋肉で異様に太い。色は赤黒く、針金のような毛で覆われていた。
「取り敢えず、一発いっとく?」
「ば、化け物」
「違うわー!」
 新たな腕で殴り掛かる。男の半身は拳の一撃で消失した。
「あ、あんた、名前は……」
「翠子だけど」
「そ……うか……じゃあ、な……化け物……」
「違うし、名前を訊いた意味がない!」
 怒鳴る翠子を見た男は勝ち誇ったような笑みで霧散した。


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