見出し画像

『翠子さんの日常は何かおかしい』第35話 玉藻前の世界(その4)

 背後から迫る危機を引き離し、三人は入り組んだ小路こうじを駆け抜ける。
「酒のあとの走り込みは回るぞ」
 女性は幸せそうな顔で走る。目は両側に建ち並ぶ家々に向けられた。
 並走していた翠子は尻目に見て声を荒げる。
「誰のせいよ! それと見えてる!」
「そりゃ、見えるだろう」
「引き上げろ! 胸が丸出しなのよ!」
 少し後ろを走っていた仙石竜司が、え、と嬉しそうな声を漏らす。
「今、追い付いてきたらあんたの股間を握り潰す!」
「そ、そんなこと、考えてもいないですよ! 俺は今も昔も硬派一筋なんで」
 憂いを秘めた顔で力なく笑う。その間に翠子は女性を睨み付けた。
「ワンピースとは不便だな。この程度でずり落ちるとは」
「それ、違うから! 大きな虎柄パンツを引っ張り上げているだけだから!」
「面倒なことだ」
 女性は渋々といった態で引き上げる。前後に視線を飛ばし、ポンポンと翠子の肩を叩いた。
「逃げ切ったぞ」
「そう、みたいね」
 ほっとした様子で翠子は速度を落とした。通常の歩みに戻り、がくりと項垂うなだれた。傍らにいた女性は頭を傾けて覗き込む。
「どうした? 嬉しくないのか?」
「なんで喜べるのよ。よく考えたら無銭飲食じゃないの。人生で初めてだよ……玉藻とは関係ないのに……」
「玉藻様は寛容な方さ」
「そうそう、そんなことで目くじらを立てるお人じゃないよ」
 周囲から寄せられる気さくな声が玉藻の人柄を語る。翠子は顔を上げて声の出所に目を向けた。
 格子状の奥の座敷に着物姿の女性達が座っていた。見た目の齢は若い。着崩した者が多く、開いた襟元から鴇色ときいろの一部が見え隠れした。
 竜司はちらちらと見て、気付かれないようにズボンのポケットに手を忍ばせる。股間の一部が不自然に膨れた状態となった。見咎めるような翠子の視線に気付き、そっと顔を横に向けた。
「あんたが硬いのは股間にぶら下げている物だけのようね」
「こ、これは、その、単なる生理現象で。男のさがとでも言いますか」
「あんまり苛めると可愛そうだよ。よく見ると愛らしい顔をしているじゃないか」
 擁護の声に竜司は建物に駆け寄る。格子の向こうにいた女性がにじり寄って襟元を大きく開いた。白桃のような丸い膨らみを惜しげもなく見せて微笑む。
「もっと元気になって、アタイを買っておくれよ」
 紅に染まった唇を近づける。格子の外にいる竜司に向かって上体を倒し、喘ぐような表情を見せた。
「あ、あの、綺麗なお姉さんにそう言われると、大変に嬉しいのですが。そのぉ、あいにく先立つ物が無くて」
素寒貧すかんぴんに用はないんだよ! とっとと消えな!」
 女性の顎がパックリと割れて二本の牙が生える。目の横には小さな複眼が浮き出てギョロギョロと睨みを利かせた。
「うおおー!?」
 竜司が仰け反る姿を見て遊女屋の女性達は一斉に笑った。仲間の反応を受けて異形の変化は瞬時に収まる。
「悪かったね。つい、興奮してジョロウグモに戻って……」
 女性は襟元を正し、上目遣いで言った。竜司は強張った笑みで、個性的ですね、と返す。引き気味の態度に膝を崩して笑う者が続出した。
「情けないわね」
 翠子の口の端は少し上がっていた。
「ここはオレ達には関係ない場所だぞ」
「さっきの茶屋も同じだけどね。人質の赤ちゃんも心配だし、早く玉藻のところに行かないと」
「聞き捨てならないね。玉藻様と嬢ちゃんの関係は知らないが、卑怯な手を使うお方じゃないよ」
 格子の最奥に目を向けると年増が悠々と煙管を吹かしていた。牢名主のような威厳が備わっている。
 その一言に感化された者達が声を上げた。
「そうだ、その通りだ!」
「玉藻様は光! 澱んだ川底まで照らす光なんだよ!」
 カンと甲高い音が鳴り響く。騒然となる前に叩き落とし、年増は新たな刻み煙草を火皿に詰めた。赤々と燃える先端を見ながら吸口を咥えて程なく離す。細長い煙をゆるゆると口から吐いた。
「あたしは間夫まぶから梅毒を貰っちまって、女衒ぜげんの手で川に投げ込まれた。死霊となって荒れ狂っていたところを拾われたのさ。あの方は情が深く、自由奔放を地でいって、優れた眼力で強者を見つけ出す。嬢ちゃんが招かれた理由はわからないが、それが玉藻様だよ」
「情報をありがとう。わたしが招かれた理由はなんだろうね」
 翠子は右の掌を顔に持っていく。軽く開閉を繰り返し、最後に強く握った。
 そこかしこで短い悲鳴が上がった。遊女屋の女性達は一斉に後ずさった。吹き付ける鬼気に怯えているかのように身を寄せ合って震え出す。
 年増の煙管の先端も小刻みに揺れている。
「……嬢ちゃんは強者なのかい?」
「どうだろうね。もう行くよ」
「玉藻様は街の中心にいる。赤い瓦屋根を目指しな」
「そんなことをわたしに教えてもいいの?」
 真顔の翠子に年増は口角を上げて言った。
「玉藻様の楽しみを奪いたくないからね」
「そう、ありがとう」
 翠子は軽く手を振って歩き出す。女性は大股で横に並び、竜司は女性達に深々と頭を下げて小走りで付いていった。
「……玉藻様、これで良かったのですよね」
 年増は竹筒に煙管の灰を落とす。未だに震える手を労わるように摩り、三人が消えた方向にいつまでも目を向けていた。


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?