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『翠子さんの日常は何かおかしい』第10話 金の亡者

 仄暗い部屋に静かな寝息が聞こえる。規則的な音は急に止まった。数秒で唸るような声が漏れ出した。
 時田翠子はベッドで俯せになっていた。枕に顔を押し付けた姿で寝返りを打った。ベッドからみ出した腕が座卓に当たる。反動で上に載っていた缶ビールが倒れて乾いた音を立てた。
 翠子は不機嫌そうな顔で瞼を開けた。欠伸を噛み殺して視線を下げる。カーテンは陽光に照らされ、淡い光を放っていた。
「……祝日よね」
 汗ばんだ喉を摩る。しっとりと湿った前髪を掻き上げた。
 翠子は仰向けの姿で脱力して、ずるりと赤銅色の両腕を肉体から引き抜いた。禍々しい形状ではなく、若い女性の腕のようにほっそりとしていた。
 左腕を脚に沿ってするすると伸ばす。カーテンに指を引っ掛ける瞬間、腕全体が金色こんじきに変わった。素早く開け放ち、部屋に朝を迎え入れた。
 右腕は真逆の方向に伸ばした。冷蔵庫の扉を開ける直前に金色となり、中から一本の瓶ビールを取り出した。
 翠子は気だるげに上半身を起こす。元々の腕をだらりと下げたまま、新たな両腕を駆使した。瓶の蓋は右手の親指で弾き飛ばし、飲み口を自身の口に突っ込んで傾ける。ゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ。
 左腕は座卓に置いてあった袋を掴み取る。中に入っていた裂きイカをさかなにした。
 寝ぼけ眼でビールを飲み、裂きイカを食べる。金色の両腕は甲斐甲斐しく世話を焼き、翠子は大きな雛鳥と化した。
「……便利だけど、なんか違う」
 目が据わっていた。薄い唇が僅かに尖る。咎められたかのように両腕は肉体の中にすごすごと戻っていった。
「こんなことしてたら、ダメになるわ……」
 翠子は立ち上がった。着ていたパジャマを脱ぎ捨ててランニングウェアに着替えた。ショートパンツの下に穿いたスパッツの状態を試すかのように屈伸運動を行なう。
「私は普通なんだから」
 爽やかな笑みで部屋を後にした。

 勿忘草色わすれなぐさいろの空に白い綿菓子のような雲が浮かんでいる。そよそよと吹く風は朝の気配を残していた。
 翠子は住宅街を弾むように走る。険が取れて穏やかな表情へと変わっていく。
 急に走る速度が落ちた。前方に大型の建設車両が停まっていた。残された空間を怖々と軽自動車が通ろうとする。
 前を完全に塞がれた。小柄な人間が擦り抜ける余地もない。翠子は目に付いた細い路地に苦笑いで入っていった。
 道は狭い上に奥に行くに従って暗くなる。邸宅に相応しい壁に挟まれていた。
 翠子は伏し目がちになってとぼとぼと歩く。肩身が狭いという風に縮こまる。
「もっと堂々としようよ」
 軽い台詞で自身を励まし、顔を上に向けた。すっきりと晴れた空を見て瞬く間に表情が曇る。
 巨大な老婆の生首が宙に浮いていた。ふわふわと漂っているかと思いきや、いきなり落ちてきて先の路地を塞いだ。
 翠子は引き返そうとした。一歩を踏み出したが目を離せない。凄まじい葛藤を抱えて老婆の生首に話し掛けた。
「……あんた、懸賞金はいくら?」
「ふへへ、耳が遠いもんでな。もう少し近づいてくれんと、なーんも聞き取れんわ」
 老婆の生首は醜悪な顔で嗤った。
 翠子は眼を爛々とさせて近づいてゆく。やや顔を突き出し、両腕をだらりと下げた。
「懸賞金はいくらよ。300万以上だったりして。幽霊ではないみたいだから始末後に証拠になる目や歯を貰うわね」
「ふへ、ふへへ、恐ろしい童女どうじょがいたもんだ。懸賞金は、500はあったかねぇ」
「二十人殺しよりも高いのね!」
 足を速めた。老婆の生首は狙っていたかのように黄色い息を吐き出す。翠子は瞬時に身体を横に向けた。肉体から赤銅色の腕を引き抜いて金色に変え、掌を壁にして防いだ。
「ま、まさか、そ、そんなはずは!?」
 驚愕に等しい。老婆の生首は髪を振り乱して浮き上がる。巨大化した手が上から覆い被さり、指が食い込む力で握って路面に叩き付けた。
「500万だああああ!」
「う、嘘をいたんだよォ。あたしゃ、懸賞金なんて知らない。知らないんだよォ。勘弁しておくれよォ」
「そんな嘘に騙されるか!」
 握った状態で高々と掲げる。老婆の生首は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。懇願の涙であった。
「悪戯をしたかっただけなんだよォ。ほんの出来心なんだ。許しておくれよォ」
「本当に。本当に懸賞金のことを知らないの?」
「酒呑童子様の前で嘘なんか吐きゃしないよォ」
「え、それって」
 驚いた拍子に掴んでいた手が緩んだ。老婆の生首は身震いで抜け出し、急上昇を始めた。
「童女なんぞに化けおって! このちんちくりんの小便垂れが!」
「あんなごついのと一緒にするな! それと誰がちんちくりんだ! すぐ降りて来いババア!」
「誰がババアだ!」
 隣の民家の方からしゃがれ声が飛んできた。翠子は悔しさを噛み締めて猛然と駆け出した。
 路地を抜けた先では白装束の女性がふらふらと歩いていた。交差点の中央には軍刀を振り回している男性がいた。双方が半透明の為、周囲の人々は気付いていない。
 翠子だけが羨ましそうな目を向けた。
「私、金の亡者になりそう……」
 涙目となって全速力のランニングに突入した。


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