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『翠子さんの日常は何かおかしい』第2話 夏の風物詩

第2話 夏の風物詩

 塵に等しい星がポツポツと浮かぶ。
 ホルンのような警笛が響く。永瀬川ながせがわ駅に電車が到着した。
 間もなくして改札から生気のない人々が流れ出る。コンコースに突き当たり、左右に分かれて家路に就いた。
 最後に時田翠子が改札を抜けた。パンツスーツの皺を伸ばすように適当に引っ張った。
 コンコースを右に行き掛けて足を止める。ポケットから二つ折りの財布を取り出した。開いて札入れに目を落とす。
 薄い唇を更に引き伸ばして笑った。
 翠子は左の道を選んだ。居酒屋が立ち並ぶ通りに向かう途中、リヤカータイプの屋台を見つけた。薄暗い道端でひっそりと営業していた。ぶら下げた赤提灯に目がいく。誘蛾灯ゆうがとうに引き寄せられる羽虫となって暖簾を潜った。
 丸椅子に座ると眼前にひぐまがいた。のっそりとこちらを向いた店主は烹着姿で歯を剥き出しにする。笑っているようだった。
「お姉さん、何からいきましょうか」
「取り敢えず」
「ビールですか」
 翠子は渋い顔となった。
「軽いトラウマがあるから、まずはお酒で」
「手作りと普通の二種類があります。どちらにしましょう」
 店主は安酒の定番の一升瓶を見えるように構える。
「初めてだから、手作りにする」
「わかりました。肴はここから選んでください」
 被せていた木の蓋を開けた。うっすらと煙が立ち昇る。中は格子状に分かれていて、各種のおでんの具が琥珀色の汁に浸かっていた。
「夏におでんねぇ」
「夏にはおでんです」
「……巾着、卵、牛筋、大根を貰うわ」
「わかりました」
 店主は上体を斜めにして大胸筋を盛り上げて見せる。ボディービルでよく目にするサイド・チェストのポーズであった。
 翠子は訝しげな目で言った。
「その暑苦しいポーズは何なの?」
「ほんのサービスです」
 白い歯で笑うと手早く皿におでんの具を載せた。手渡しすると続けてますに入ったグラスを差し出す。
「屋台でもっきりは初めてかも」
「グラスから溢れた酒が升の香りを吸って良い塩梅になります」
「そうね。お得感もあるし」
 翠子は口を尖らせた。グラスの縁に触れて音を立てずに飲んだ。すぐに口を離し、また味わう。
「香りほど甘くなくて、とても飲み易いわ」
「気に入っていただけたようで安心しました。おでんも冷めないうちにどうぞ」
 勧められるままに割り箸で卵を割る。中にまで味が染みていた。半分を一口にして食べる。皿を持ち上げて直に出汁を飲んだ。
「鰹の風味が効いて味はまろやか。お酒との相性もいいわ」
「夏にはおでんです」
「夏にはおでんね」
 二人は笑みを交わした。

 食べる手が止まらない。口直しに酒を呷る。その反動で上体がふらつく。
「クマ、おかわり」
 翠子は空になったグラスを突き返す。
「あの~、それくらいにした方がいいのでは」
「勧めたクマが、それをいうのか。この程度で酔う私ではないのだ。裸になって叫んでやるぞ」
 完全に目が据わっていた。翠子は着ていたスーツをのろのろと脱ぎ始める。
 店主は慌てた。
「わかりました! すぐに作ります!」
「酒を作る?」
 翠子は目を瞬く。軽く頭を振った。後ろ向きになった店主の背中を見詰める。力んでいるのか。微かに震えていた。
 翠子はふらりと立ち上がる。ふらふらしながら屋台を回り込む。
「何してんの?」
「あ、あの、これは手作りなもんで……」
 店主は両手を組み合わせていた。プルプルと震える手から白い液体が湧いて真下のグラスに注がれる。
「そっかー、だから手作りなのかー」
 陽気な声で丸椅子に戻った。その後、翠子は出されたグラスをゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ。
「やっぱ、手作りは美味しいね!」
「お姉さん、男前ですね」
「だよねー。胸はAだからな! 自慢になるかー」
 翠子は大口を開けて笑った。

 翌朝、雀の鳴き声に文句をいう余裕もなかった。
 翠子はスーツ姿でベッドに俯せになっていた。もぞもぞと動いて苦しそうな顔を横に向ける。
「……酒臭い」
 ぼそりと呟いて息絶えたかのように静かになった。
 ハンドベル風の軽快な音が鳴る。気だるげに手を伸ばしてスマートフォンを掴み、引き寄せて画面を見た。苦々しい顔で上体を起こしてメールの返信用の文章を入れる。
「親戚をひとり生贄で」
 送信を終えると同時に息を吐いた。虚ろな目で周りを見て小首を傾げる。
「昨晩は、何してたんだろう……」
 小難しい顔で腕を組んだ。頭をふらふらさせる。
「屋台、おでん……クマ?」
 記憶の断片が言葉になった。胡坐を掻いてじっくりと考える。片方の膝が苛立たしげに上下に動く。
 動きが止まった。一瞬で目を見開き、自身の膝を平手で叩いた。
「手作りの酒!」
 叫んだ直後、慌てて掌で口を塞いだ。両頬が丸く膨らんだ。初夏の水田で求愛行動をするカエルのようだった。
 翠子はベッドを離れ、よろよろとトイレに入った。

 瀕死のカエルの鳴き声が部屋に初夏を伝えた。


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