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『翠子さんの日常は何かおかしい』第34話 玉藻前の世界(その3)

 提灯ちょうちん灯籠とうろうに街が照らし出された。眺めていた三人の前を人々が横切る。腰に太刀たちをぶら下げた厳めしい侍が目に付く。粗末な着物の町人が平然と混ざる。巻いたゴザを抱えて歩く妙齢の女性は夜鷹なのか。色っぽい流し目で辺りを物色していた。
 奥には瓦屋根の茶屋が見える。軒先に置かれた床机しょうぎではぶらりと立ち寄った感の若者が串団子に齧り付く。羊羹ようかんを切り分けて食べる女性の姿もあった。
「こ、これは、あ、姉御、見てくださいよ!」
 竜司は自身の身体をやたらと叩く。白い特攻服に汚れが付いているようには見えなかった。更には地面を執拗に踏み付けて狂乱に近い歓喜を全身で表現した。
「あんた、はしゃぎ過ぎだって」
 翠子は迷惑そうな顔で手を伸ばす。肩を掴んだ瞬間、僅かに口が開いた。毒気を抜かれた顔で指先を肩に食い込ませる。竜司は腰が砕け、逃れようとして懸命に身を捩る。
「あ、姉御、痛い、です。や、やめて、くださいよ」
「人間の時の癖を忘れたらいいんだよね」
「そ、そうでした……」
 竜司は奇妙な格好で目を閉じる。リーゼントの先端を小刻みに震わせた。
「む、無理みたい、です……」
「そりゃそうだ。今の小僧は人間に近い状態だぞ」
 女性は口にして通り過ぎる人々に目を凝らす。翠子の物言いたげな視線に気付いて首筋を掻いた。
「この世界は呪力が強く作用するようだ。黄泉に近いが、そうではない」
「中途半端ってことよね」
 翠子は一言で済ませた。出そうになる欠伸を掌で抑え込む。
「その半端な加減が亡霊を人間に近づけているとも言える。ところで小僧よ。女狐とは人間の世界で会ったのだな」
「は、はい、そうです。招待状を直に貰いました」
 翠子は肩の手を離し、すっと上に挙げた。挙手する形で口を開く。
「わたしも向こうの世界で玉藻に会っている。またね、って言われたよ」
「ということはだな」
 女性は口元を掌で拭った。瞬時に人波を抜けて茶屋に飛び込む。早口の注文を済ませると店先に引き返し、床机の左端の方に腰を下ろす。催促するかのように自身の膝を軽快に叩いた。
「ちょ、ちょっと、なんのつもりよ!」
 翠子は肩をぶつけるようにして左隣に陣取った。女性は全く動じず、一方を見詰めていた。
「お、来たか」
「お待ちどおさま」
 地味な小袖を着た女中が盆に乗せて運んできたのは一合徳利と猪口であった。
 目にした翠子は虎柄の一部を摘まみ、何度も引っ張る。
「……待ちなさいよ。こんなところで飲み食いしたら危ないでしょ」
黄泉戸喫よもつへぐいにはならないぞ。それにいくさの前の腹ごしらえは基本ではないのか」
 女性は徳利を掴んで直に飲んだ。ゴクゴクと喉を鳴らし、去り際の女中におかわりを注文した。
 隣では勢いを失った翠子が小難しい顔を作っていた。
「よもつへ……なんの呪文よ、それは」
「書物で読まなかったのか。あの世で飲み食いすると、この世に戻れなくなるということだ」
「あんた、なにしてんのよ! 今、飲んだじゃない!」
「お、来たぞ」
 翠子の剣幕を目の当たりにした女中はそっと徳利を差し出し、小走りで茶屋に引っ込んだ。女性は最初と同じように一息で飲み干した。
「女狐が人間の世に出入りしているのであれば、ここは黄泉ではない。安心して飲み食いしていいぞ。この酒、変わった風味だがいけるな」
「……そう、なの?」
 翠子の唇が緩む。女性は満面の笑みで、ああ、と口にした。
「あ、あの、俺もいいですかね。二十歳は超えているんで。その、久しぶりに飲みたい気分になりまして……」
 二人の会話を耳にした竜司が怖ず怖ずと歩み寄る。女性は特攻服の裾を掴み、空いている右隣に座らせた。
「このような機会は滅多にない。小僧も大いに飲めばいいぞ」
「あ、ありがとうございます! ごちそうになります!」
「まあ、いいけどね」
 翠子は軽く笑って両脚を組んだ。

 三人は揃って酒を飲んだ。口々に感想を言い合い、茶屋自慢の珍味を口にした。女中の説明をろくに聞かず、各々が生き胆を食い千切る。
 興味本位で頼んだ金色の髑髏杯どくろはいには全員が声を出して笑った。
「どんな一発芸だよ~」
 笑い過ぎた竜司は涙を流し、合間に咳き込んだ。気を取り直して杯を両手で掴むと一気に傾けた。
 髑髏杯は空になった。翠子は逆さまにして頭の上にちょこんと載せる。
「女王様だよー」
 見かねた店主が女中に指示を出す。
「あ、あの、お支払いを~、お願いできますでしょうか」
「わかってるって。はい、これで」
 翠子は羽織っていたパーカーのポケットからカードを取り出した。
 女中は笑顔で首を傾げる。
「これは何でしょうか」
「あー、そういうことね。現金でしょ、わかってるって」
 別のポケットから財布を取り出し、紙幣を適当に摘まんだ。
 先程と変わらない。女中は問い掛けるような笑みを向けてきた。翠子は困惑した笑みを返し、財布の小銭入れを開けて見せた。
 事態は好転しなかった。翠子がそれとなく二人に目を向けると、どちらも頭を横に振っている。
「あー、そうよ。すっかり忘れていたけど。招待状、これがあったわ~」
 取って置きと言わんばかりに短冊を女中に見せ付けた。
「それは何でしょうか」
「……何だろうね」
 にこやかに返した直後、翠子は飛び出した。後ろを振り返らず、人々の合間を縫うように走る。じっと機会を窺っていたのか。女性と竜司も付いてきた。
「食い逃げだああああ!」
 三人の背中に追い縋るような野太い声が聞える。
「どうなってんのよ!」
 翠子の怒鳴り声は街の喧騒に呑まれていった。


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