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『翠子さんの日常は何かおかしい』第15話 吉凶の狭間

 住宅街にぽっかりと穴が空いたような場所がある。小さな公園で子供が楽しめる遊具はほとんどない。隅に押しやられた砂場は犬猫専用のトイレと化していた。
 生垣の役割を担う新緑の桜を時田翠子はベンチに座って眺めていた。Tシャツとランニングを重ね着したパンツルックは休日の格好に相応しい。淡紅色の口紅も塗らず、素顔であった。
「……いい男って、どこにいるんだろう」
 呟いて缶コーヒーをあおる。薄曇りの空を何とはなしに眺めた。
 横手から小さな女の子が現れた。元気よく腕を振って歩く。おさげがTシャツの胸元で撥ねた。スカートの裾は風を孕んで軽やかに舞う。
 女の子は翠子の横に座ってポンと肩を叩いた。
「男は度胸、女は愛嬌!」
「独り言を聞かないでよ。まあ、こんな感じ?」
 翠子は口角を上げる。
 女の子は素早く両腕を交差させた。
「ダメ、目が笑ってない! なんか怖いし!」
「えー、そうかなぁ。たまに鏡で練習してるんだけど」
「もっと魂を込めないとね! がさつな翠子のためにチビッ子先生が個人レッスンをしてあげる!」
 女の子はベンチから飛び降りた。くるりと向きを変えて元気に手を挙げる。
「はい、ちゅうもーく! これから愛嬌のお手本をやるよ! 翠子はそれを見て勉強するよーに!」
「いやー、いくら天才児でも無理があると思うんだけど」
「……あの、あのね。お姉ちゃん、今いい?」
 女の子は自然な内股の姿になって小刻みに震える。潤んだ瞳と赤らむ頬でチラチラ見てくる。
 呆けたような顔で、え、と翠子は上ずった声を漏らす。生唾を呑むと、ぎこちない笑顔で小首を傾げた。
「な、なにかな?」
「お願いがあるの。聞いてくれる?」
 おずおずと近づいて上目遣いとなった。ぷっくりとした唇が何か言いたげに開く。
「お、お姉ちゃんに、できることなら」
「お医者さんごっこがしたいなぁ。結花が患者さんで、お姉ちゃんが先生でいいよね」
 怯えた表情が一変した。はにかむような笑みで顔を近づけてくる。
「こ、ここで、だよね? それはちょっと。まあ、わ、私に特殊な性癖はなくても、ここだと、ね」
「ダメなの? お姉ちゃん先生に診てもらいたかったのにぃ」
 結花は唇を尖らせて、そっぽを向く。柔らかそうな頬がプルプルと震えていた。
 愛らしい仕草の数々に翠子の息が少し乱れる。目尻が下がり、両腕を広げて抱え込むような姿になった。
「変態にチョーップ!」
 突然、元気な姿に戻ると翠子の頭頂部に手刀を叩き込んだ。その手を摩って目を怒らせた。
「固くて痛い!」
「攻撃した人が、それを言っちゃいますか」
「これで磯崎結花いそざきゆいか先生のお手本を終わりまーす! はい、拍手!」
 キリッとした表情で翠子を指差す。間延びした拍手が送られた。
 結花はベンチに背中から飛び乗ると翠子の膝をパンパンと叩いた。
「おもしろい話をして!」
「えー、またそれ~」
 苦笑しながらも翠子は応じた。
「この間の山登りで土ころびに会ったよ」
「土ころび! それ、知ってる! 懸賞金付きだよ!」
「え、懸賞金って!? どうして、それを」
 翠子の驚きを余所に結花はスカートのポケットから大きめのスマートフォンを掴み出す。低い通電音のあと、上部と左右から別の画面が迫り出した。
 各指が独立した生物のように目まぐるしく動く。四つの画面に英数文字が流れ、矢継ぎ早に変わっていった。
「あのー、私のスマホと全く違うんだけど」
「結花の手作りだからね!」
「スマホって簡単に――」
 翠子は口を閉ざした。天才児の片鱗を黙って見ることにした。
「ほら、ここを見て!」
 上部の画面に毛玉の一つ目が表示されていた。細々とした文章の中に100万円の文字を見つけた。
「懸賞金が100万! あれが、あんなのが100万円……」
「急いで離脱! 痕跡を消去して、はい、終わり!」
 スマートフォンを元の形態に戻すとポケットに突っ込んだ。隣で項垂れる翠子の肩をポンポンと叩く。
「また落ち込んでる! もっと明るく生きようよ!」
「子供に言われると、余計に落ち込むんだけど。それより、今の情報ってなに?」
「国の機関の裏情報だよ! こそっと覗いてみた!」
「……本当に天才児なんだね。あのさぁ、懸賞金なんだけど、退治したら貰えるんだよね」
「登録しないとダメだよ! やっつけた証拠もいるよ!」
 両足を交互に振りながら言った。
「……登録が必要なんだ。どこかの役所に証拠を持っていってもダメなんだね。その、やっぱりっていうか、審査みたいなのはあるのかな」
「あるみたいだよ! それとパパやママとか、あと親戚なんかの許可がいるよ!」
 耳にした瞬間、翠子は萎れるように上体を倒した。両膝に両肘を突き、手を組み合せた上に額を載せた。
「……私には無理。パパ、じゃなくてお父様の許可なんて……」
「翠子は守銭奴だね!」
「できるなら、金の亡者にして」
「どちらも酷いネーミングだね! あ、時間になった! 土ころびの話は、またでいいよ!」
 結花は飛び降りるとすぐに走り出す。靴底を滑らせるように止まると、笑顔で振り返った。
「おーい、翠子!」
「まだ、なにか」
 翠子は生気のない顔を上げた。白い歯を剥き出しにして笑う結花にぼんやりとした目を向ける。
「登録した人のお手伝いをしたら、ちょっとしたお小遣いがもらえるかもね!」
「……そうよ。私が登録しなくても、ギブ&テイクでいけば」
 翠子は勢いよく立ち上がった。ベンチの隅に置いていた缶コーヒーを引っ掴み、飲み干すと紙コップのように握り潰す。
 爛々と輝く目は次第に暗くなる。再び、ベンチに座り直した。
「登録者をどうやって……死地に飛び込めと?」
 唸るような声のあと、深い思考の沼に沈み込んでいった。


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