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『翠子さんの日常は何かおかしい』第42話 再び

 ベッドで目覚めた時田翠子はのんびりと上体を起こす。両腕を思い切り左右に広げて伸びをした。一気に力を緩めると安らいだ表情へと変わる。
「おはよう~」
 横手に目を向けると、そこには誰もいなかった。座卓には昨晩に空けたビールの缶が身を寄せ合っていた。
 コツンと自身の頭を小突き、ベッドから降りた。冷蔵庫に直行して高カロリーをうたうドリンクを一気に飲み干す。クシャと握り潰してゴミ箱に投げ入れた。
 グレーのスーツに着替えて早々に部屋を出る。外では白い特攻服を着た仙石竜司が控えていた。
「姉御、おはようございます」
「朝からなんの用よ」
 気のない声で扉の施錠を済ませる。
「少し様子が気になりまして」
「赤ちゃんが出ていって、元の状態に戻っただけじゃない」
 翠子はパンプスの靴音を響かせて歩き出す。透かさず竜司が横に並ぶ。半透明の身体を活かして壁を擦り抜けていった。
「妹さんの話はしていないのですが」
「そうだった? まあ、赤ちゃんは新しい目標に向かって頑張ればいいんじゃないのかな」
「姉御、本当に妹さんが世界を創造できると思いますか」
 質問を受けた翠子の歩みが遅くなる。道に出ると頬の辺りに指を添えた。
「どうかな。お父様や玉藻みたいなのもいるからね」
 翠子は立ち止まらず、スマートフォンを手にした。表示された時間を一瞥して再びポケットに入れる。
「姉御ならできる気がします。その時は俺を住人に加えてくださいよ」
「そんな気はないって。もう、色々なことが面倒なのよね」
 自身の肩を揉みながら頭を左右に揺らす。
「バウンティハンターの件もですか」
「そうなるかな。能力のおかげでお父様の許可は得られたけど、会社と掛け持ちだと気忙しいのよね。今すぐ大金が必要な訳でもないし、真面目に働いていたら普通に美味しいお酒は飲めるし」
「そうですか。俺は損得に関係なく、何かあればいつでも姉御に付き合いますよ」
「あんたには好乃ちゃんの警護があるでしょ」
 翠子は不機嫌な顔を作り、手で追い払う真似をした。竜司は笑って、そうでした、と口にして朝陽の中に溶け込んでいった。
「……これが日常だし」
 引き続き翠子は住宅街の道をゆく。背後から走る音が聞こえてきた。急速に近づいて真後ろで止まった。即座に振り返るとモスグリーンのパーカーを着た若い青年が笑顔を見せた。
「お姉さん久しぶりだね。早速だけどパンツを見せて」
「あんたはしつこい! いつまでやってんのよ!」
「相変わらず、頭が固いね。パンツ道のモーニングパンツは常識だよ」
「それらしく言い直しても無理。非常識は常識にならないって理解しなさいよ。そんなことばかりしているから懸賞金を掛けられるのよ。少しは反省しなさい」
 怒気を孕んだ声で一気に捲し立てる。青年は反論することなく笑顔で聞いていた。
「仕方がないね」
 口にした途端、青年の胴体が滑らかに回った。路面に背中が触れるくらいの低さとなって翠子のスカートの中を覗き込む。
「今日は情熱の赤だね」
「踏み潰されたいのか!」
 右脚が霞む速さで顔面を踏みにいった。青年は耳を掠めてかわす。
「パンツにある刺繍は蝶なんだね」
「この緑野郎が!」
 パンプスの踵が鈍器と化す。連続の踏み付けで道はえぐれ、粉塵が舞い上がる。青年は致命の一撃を避けてパンツを食い入るように見詰めた。
「情熱のパンツに相応しい躍動感だ。これはモーニングパンツではない。ディナーパンツの称号を贈ろう」
「いい加減にしろ!」
 一喝した翠子は腹部を狙って蹴り上げる。青年は横っ飛びで回避して胴体を元に戻す。
「逃がすかあああ!」
 翠子は青年の動きに合わせて空中にいた。顔面に一撃を叩き込もうした姿勢で動きを止めた。
 青年の手足が不自然に折れ曲がる。覗く穴から青白い炎を噴き出し、一瞬で薄青い空の彼方に呑み込まれた。
 着地した翠子は呆然として空を眺める。
「……あ、あのね……パンツくらいで……な、なによ、それ……バカでしょ」
 青年の大仰な仕掛けに静かな笑いが押し寄せる。声が出そうになって口元を手で押え、よろけるように駅へと向かう。
 その途上で百鬼夜行ひゃっきやぎょうに出くわした。何人もの大袖に古びた矢が刺さっている。脇当を突き破った槍を引き摺るようにして歩く者もいた。落ち武者と思しき格好の者が多く見られた。
「本当に懲りないよね、あんた達も」
 笑みが残る顔で翠子は右腕をだらりと下げた。赤銅色の巨大な腕を新たに生やし、羽虫を払い除けるように亡霊を大空に弾き飛ばす。
「これが私の日常なのよね」
 明るい声で行列の途切れたところを駆け抜けていった。
                               (了)

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