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多様な顔を持つ東南アジア諸国(2)

今回は、ベトナム・カンボジア・タイ・インドネシア・フィリピンについてスケッチします。前回に触れなかった地域です。「多様な顔持つ東南アジア諸国(2)」は、「歴史的な出来事」を中心に描くことにします。これらの国を見ていると、これからの日本が「進むべき道」が鮮明になってくるように思えます。

最初に「ベトナム」から入りましょう

首都ハノイの喧騒は凄いですね。最近のベトナムの振興を象徴しています。物価も上昇し、社会主義国であることを忘れさせます。
通訳をしてくれたタン君はどうしているだろうか?
そして、日本にも沢山のベトナム人が来ています。浜松市の高校では、80人くらいの生徒が在籍しているそうです。工場があるからですが、学校では「言葉が通じない」ので困っているそうです。

ベトナム戦争」は、若い世代には歴史上の事件で「過去」になりました。しかし、70歳以上の人には「ベトナムに平和を!」という運動が記憶に残っていることでしょう。
私にも、生々しい青春の記憶です。
だから「ベトナムで戦争があったのです」という表現はできないです。

あれから、長い間が経過していないハズなのに、すべてが変わったように見えます。「時の流れをが早すぎ」ます。
すべてを、歴史上の戦争・「事件」の1つにしてはいけないです。
現実に、中東で、ウクライナで戦争が行われているのですから・・・。

ベトナム戦争の経過・大きな流れ

ベトナムは、19世紀になって「フランスの植民地」になりました。
そこで、社会主義者を中心に、猛烈な抵抗運動がおこりました。
その民衆の組織のことを「べトミン」といいます。

この独立運動を支援していたアメリカは、
フランスが撃退された状況を見て、
今度は、アメリカが本性を発揮してベトナムを植民地にしようとしました。      

悲惨な戦争:国土を南・北に分割     

そこで、ホーチミンをリーダーに民衆が結束し、激しい戦闘を開始しました。その結果、「北緯17度」をLineとして「北ベトナム」が独立しました。
南ベトナム」は、アメリカの傀儡政権が支配するという変則的な歴史が始まったのです。                     

しかし独立を求める民衆は「北」から武器・兵士・物資を調達し、「南」へ送りました。これが「べトコン」という抵抗組織です。
アメリカはこの輸送ルートを断ち切ろうと「爆撃」を繰り返しました。
コンピューターの計算によれば、この組織は簡単に破壊できるハズだったのです。しかし、ジャングルの中の戦いは泥沼化し、双方にたくさんの犠牲を生みました。悲惨な戦争です。                 

反戦集会でうたうフォークグループ

アメリカ国内でも、激しい反戦運動が起こりました。
全国各地で反戦集会が持たれ、「花はどこに行った」「We shall overcome」「悲惨な戦争」などフォークソングが唄われました。
強い反戦メッセージでした。

ニック・ウト 1973

ニック・ウトなど「戦場カメラマン」が活躍して、現地の映像を通して反戦を訴えました。ベトナム戦争を扱った映画は「プラトーン」「ランボウ」など沢山あります。

アンコールワット遺跡で見たもの

ベトナム戦争は、隣国のカンボジアを巻き込みました。
「べトコン」が物資を南へ運ぶルートだったからです。
この国はフランスの占領地でシアヌークの王国でしたが、国内は矛盾だらけで混乱していました。

この中で、ポル・ポトが率いる「クメール・ルージュ」が次第に勢力を伸ばし、彼が政権を握ると、歴史上かってみない「虐殺」を繰り返しました。
これに大国の利害の対立も加わって、国内は大混乱になりました。

アンコールワット遺跡は、カンボジアのジャングルの中の「基地」になりました。遺跡の周辺にも遺跡が沢山ありますが、熱帯雨林が繁茂するところですから、木々が遺跡を食いつぶすように伸びています。
そして、チョットわき道に入ると「地雷」が埋まっていますから危険です。戦争の足跡が、いまだに完全に消えたとは言い切れないのです。

「すり減ったレンガ跡」を見て驚愕!

私の旅行中のことです。
遺跡観光で賑わう隅に「すり減ったレンガ跡」がありました。
「これ何なの?」 
「はい!ポル・ポトの兵士が、剣を研いだ跡です
「剣を研いでどうしたの?・・・」と聞こうとして・・・
私は青ざめました。
何も知らない少年兵たちが「研いだ剣」で、市民たちを殺害したのです。
戦争中、遺跡は兵士たちの「前線基地」だったのです。

近くで、観光に来た日本人のグループが、賑やかに騒いで、記念写真を撮っていました。

カンボジアに学校をつくる

カンボジアの田舎に「学校を建設している友人」がいます。
すでに、3校建設しました。学校の校舎だけでなく、教材から教具まで準備します。指導者の育成も大変な仕事ですが、友人はカンボジアの人たちと協力して学校を造っているのです。

こうした地道な交流が、国際間の信頼・絆になるのです。
医療関係で貢献している人、学問研究をしている知人もいます。
「ジャイカ」や「青年海外協力隊」の活動のことも知って欲しいです。

タイとの「交流」は多くなるでしょう

タイは親日的な国で、日本と同様に「独立国」であり続けました。
魅力的な仏教寺院も多く、日本からの、たくさんの企業が進出しています。
4月に帰国してきた隣組の小学生は「15学級あった」と話しています。
地理的にも、近隣諸国との交流が多いです。

タイのラーマ5世が創建したチュラロンコン大学に留学中の学生が、
タイの村落地域の貧困解消に取り組むNPO法人の「アジア自立支援機構」の活動に参加していると報告してきました。

山岳少数民族アカ族のメーチャンタイ村は、約20年前から麻薬の原料となる「ケシの栽培」をやめ、「コーヒーの栽培」に取り組んできたそうです。2018年以降「メーチャンタイコーヒー」のブランド化を進め、ようやく農家の平均年収4年間で25%増えたというのです。

タイ・ミャンマー・ラオスの「ゴールデントライアングル」とよばれる地域は、麻薬の原料になるケシの栽培が盛んでした。ケシの栽培は、生活の支えでした。ケシ栽培から、コーヒーへの転作を支援をしている人たちがいるのです。NPO法人「アジア自立支援機構」の方々です。
これは、前回の「多様な顔を持つ東南アジア諸国」にも触れました。

インドネシアの「歴史と現在」・・・

この国は、4000以上の島で成り立ち、その島々に住む人は異なる300以上の部族でできている多民族国家です。    

16世紀に香辛料を求めてポルトガル・イギリス・オランダ・フランスが東南アジアに進出しました。
17世紀にオランダの「東インド会社」の支配下になりました。

インドでイギリスに敗れたオランダ東インド会社は、現在のジャカルタ(パタビア)に拠点を置いたのです。

ちなみに日本の平戸もオランダの東インド会社の「支店」でした。
だから、江戸時代は「蘭学」が流行していたのです。
オランダは、江戸幕府の「西洋への窓口」になったのです。

オランダは、320種あった種族語をまとめて「共通語をつくることを禁止」したり、「集会・路上で3人以上の立ち話」まで禁止し、破った人は「反乱罪」で処罰されたりしました。
だから、この国は過剰にバラバラにされてしまいました。

東インド会社は「株式会社」といっても、武力と支配権を持って統治していたのです。「覇権」です。ここを誤解しないで下さい。インドも同じです。  

20世紀になり次第に民族が自覚し、独立運動が盛んになりました。
酷い弾圧の下で、国民党は民族の独立(ムルデカ)を掲げ、共産党は反乱を起こし(1927~28)、スカルノたちが民族運動の中心になりました。

日本の支配下になったインドネシアは・・・

第2次世界大戦がはじまり、オランダが撤退し、日本の支配下になりました。
日本は、オランダが長年行ってきた「愚民化政策」をやめ、短時間に、学校を造り、現地の10万人以上のエリートの育成を実施しました。

しかし敗戦。

1959年、大統領になったスカルノは憲法を改訂し「パンチャシラ」を推進しました。実質、独裁政権でしたから反発があり、失脚しました。
第3夫人がデビさんですね。現役のタレントです。

スカルノの次は、スハルト大統領

1968年、スハルトが大統領になり、30年に及ぶ長期政権を担いました。
実質、これも独裁政権でしたが、開発政策を推進し、インフラの充実・工業化で経済成長を達成することができました。日本とも親しかったです。
 
パンチャシラ(5つの徳の実践を意味する)は、スカルノが発表したもので、今でも、いろいろな政党が、「党是」としていることが多いです。
勿論、表現は異なります。
 
政府は国教として「イスラム教」・「ヒンドゥー教」・「キリスト教」・「仏教」・「儒教」を認めていますが、圧倒的な信者はイスラム教です。

ビジネスを広めようとした友人は、イスラム教がわからず、労働・雇用業務で行き詰っています。イスラム教徒にとっては、労働より『祈り』の方が優先されますからね。
日本人は、他国の宗教・風土を知らなくては「摩擦」が絶えないでしょう。

フィリピンは、これから発展していくだろう

フィリピンは、7000以上の島と、タガログ族・ビザヤ族など200以上の種族がすみ、異なる言語・慣習・伝統が共存しています。
ルソン島にあるマニラが首都ですが、この街を少し歩いただけでも。異民族が共存していることがわかります。

国名は、スペインの王フェリぺ2世に由来しますが、独自の国家名にする運動もあります。

フィリピンは、スペインの征服者によって300年も支配されました
幾度となく小規模な独立運動が起きましたが、その都度潰されました。
「ホセ・リサール」が独立運動で活躍したことが有名ですね。

やがて、野心を持った覇権国家アメリカは「スペインから植民地獲得」を目的として戦争(米西戦争)を起こしました。

その間に革命軍の「アギナルド」が独立を宣言しました。
が、戦争が終わると無視され「アメリカの占領下」となりました。

1946年になって、独立しましたが、いまも多くの課題を抱えています。
貧富の差が大きく、少数の富裕層がいる反面、大半は貧しい人です。

ミンダナオ島に学校を造りたい

私の友人の奥さんはフィリピン人の元ダンサーです。
彼は「ミンダナオ島に学校を造ること」を夢にしています。

彼の奥さんの実家に行くには、
自動車で島の果てに行き、その先を徒歩で何キロも歩き、小さな部落にたどり着くのだそうです。
村の人は裸足で、鶏が放し飼いになっていて、粗末な住宅でも幸せそうだったようです。が、残念なことに、文字を読むことも書くこともできない人が多いので、学校を造ろうというのです。

いろいろな「顔」と「これから」・・・

東南アジアの歴史は、ヨーロッパ諸国の帝国主義言い換えると「植民地からの独立」・「抵抗運動」が中心ですが、貧困を中心にして「課題が多い」から、腰を据えて協働していきましょう。ODAのような支援と共に、人材育成などの支援の輪を広めましょう。人口も資源も多いですからね。
ますは、しっかりと「現状を認識」して「地域の特徴・文化」を尊重しつつ解決策を求めていくことが必要だと思います。

 
 
 
 
 
 

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