ついに自分たちが主体の時がきた。 とにかく嬉しかったのを覚えている。 ミーティングが開かれキャプテン、福キャプテンを決めることになった。なぜかキャプテンの推薦をみんなから受けた。 たまたまレギュラーだったからなのか、当て職なのかはわからないが基本的にはそういう役は嫌われ役でやりたい人は多くはないと思う。でも自分は即答で返事をした。 決して強豪校という訳ではなかったがメンバーは揃っている。部員の人数も1.2年合わせて60人前後、当時は本当に甲子園を目指してた。 そして甲子
新体制にも慣れてきてたころちょっとした事件がおきた。 レギュラー9人のうち7人が1年生という事態になる。何とか自分もそのうちの1人になれてはいがさすがにそんな状況を納得する先輩達ではない。今までの制裁が酷かっただけに今更これ以上の仕打ちはないだろうと思っていたがそれは違う形で現れた。 監督が大事な春の予選直前に辞めてしまったのである。うちら1年は何も解らずいきなりの出来事に呆然としていた。何があったのか確たる事実はわからないがウワサによるとレギュラーになれなかった先輩の父兄
下積み時代はまだまだ続く。 神様の3年生が抜けて2年生の先輩も落ち着くかと思ったら逆だった。 上の目を気にせず1年生をおもちゃみたいに扱うようになった。言い出したらキリがないが軽いところを箇条書きで出してみる。 ・虫ピアス (グラウンドでオケラやクワガタが見つかった時にランダムで呼び出され、主に鼻、耳、唇、頬に噛み付かせる。) •梅干し食べ放題 (夏の練習に差し入れで来る梅干しを口の中一杯になるまで詰め込まれ吐いたらやり直し。) •オーラ色当て (一部の先輩から放たれている
一年生は本当に理不尽なことだらけで色んなトラウマがある。 まずは仮入部が終わって本入部してすぐの2年生からの締め会。具体的には一年生全員を部室に詰め込んで理不尽質問タイムから気に入らなかったら制裁(ビンタやバットグリップで強めにコツン)今のご時世なら完全にアウトなことを平気でやってきたし、自分達もそれを我慢した。一種の洗脳みたいなもんだった。 また意味不明な伝統があり一年生は学校指定のセカンドバックを先輩達に献上しなければいけない。うちの高校のセカンドバックが他校の女子か
無事高校にスポーツ推薦で入学し、ウキウキの高校生活が待っていると思った。 甘かった。 スポーツ推薦なので野球はやらなければいけないわけだが正直そんなに強豪校って訳ではない高校に入学し、すぐにベンチくらいは入れるだろうと考えていたがとんでもなかった。 待っていたの中学校の時とは比べ物にならないくらいの走り込みと縄跳び!まだアップシューズを揃えていなかったので入学初日に下ろしたadidasのスニーカーが3日くらいでバラバラになった!ここでのコーチのホイッスルは本当に怖くてたまら
中学3年になり一応受験生。野球のほうはぼちぼちな成績で幕を閉じた。 流れで友達が行っていた塾に夏期講習から通うようになった。夏休みはほぼ毎日授業がありとても面倒だったが塾に行く前に友達の家で集まってスマブラ大会!これがあったから塾に通っていたもんだった。 夏期講習が終わってもダラダラと塾を続けることになる。その塾はAからCクラスまであり1クラス30人くらいの塾で成績で席順が決められていた。Aクラスの一番左前が一番頭が良い人。自分はCクラスの一番後ろの右。常に定位置で先生達
地域の皆さんのご理解とご協力があっての農業。 我が物顔でドロを撒き散らしながらトラクターで公道を走るなんてもっての外! 汚したら掃き掃除は当たり前。 しかし、実際はその限度が難しい。 今汚した道を掃除し曲がり角を曲がったら何も言わずに掃き掃除されていた。 これではダメだ。
中学生活はなんだかんだでとても楽しかった。 通っていた中学校は県内でも屈指のマンモス校であり1学年で10クラスあった。 10クラスもあると話したこともない子も結構いて毎年のクラス替えがとても楽しみだった。 部活も先輩達が抜けてからは無事レギュラーになれ県大会くらいまでは視野に入る程度だった。 3年生のころが青春真っ盛りで何をするにも面白かった。 友達の家に泊まりに行ってはひたすらゲーム三昧。特にスマブラ、モンハンはハード機が焼け付くほど遊んだ! 大きい声では言えない
野球部に入部してまず感じたことはやはり練習の辛さ。 ひたすらランニング、縄跳び、声出し、キャッチボール、グラウンド整備の繰り返し。 今でこそ基礎体力づくりは当たり前だと思うがあの当時はただやらされていただけで本当に嫌だった。コーチのホイッスルの音がトラウマで吐き気がした。 次に感じたことが上下関係だった。 小学校の時は1つ上2つ上はほぼ友達みたいもんだったのに中学に入ったとたんに全然違う存在になってしまった。初めは何でこんなに冷たくしてくるんだろうと思ったがこれが上下関係
ある農家が言っていた。 「百のことが出来なければいけないから農家は百姓なんだ!」と それが本当に由来ではないと思うが正にその通りだと思った。
肥満ぎみだった自分は中学でダイエットを理由に野球部に入部した。 そこそこ運動神経には自信があり、小学校ではソフトボールが面白かったので野球でもいいか。のレベルで決めた! しかし甘かった。仮入部でひたすらに走らされその時点でダイエットは完了したくらい搾られた。そのくらい弛んでいたんだと思うが。 同じ小学校から野球部に入部する友達も多かったので何とかイケると思ったが、他の小学校から来る生徒が化け物揃いだった。 みんな少年団やリトル上がりで中には入学時点でプロ球団の名刺を持
小学校に入学しごく普通の生活を送る。 だがまたカッコいい大人たちに出会う! 自分の小学校では毎月集金日があり朝登校する各学年の教室の前にバッチリ決めたスーツ姿の 大人が待ち構えいる。 ほぼすべての生徒が大体3,000円から5,000円、多い人で10,000円の入った封筒を握りしめ一斉にその大人に渡していく! その大人たちもいつも元気でニコニコして絡んだりしても嫌な顔せず接してくれた! カッコよく見えた。 大人になってあれは地元の農協が定積の集金に来てくれていたことがわか
祖父に連れられ出荷に行ったのが恐らく農協との初めての接点だと思う。 初めは農協というよりはボロい小屋(集荷場) でいつもいるカッコいいお兄さん!っていう感覚だった。 とにかく活き活きと祖父や他の生産者の皆さんと仕事をしていたそのお兄さんが強烈に印象に残っている。 幼稚園のころ記憶なので顔は覚えていないが服装、働く姿勢、そのお兄さんと話をしている活き活きとした祖父、他の生産者の表情、熱量はハッキリと覚えている!
某感染症により家族がダウン。 自分だけはピンピンしてる。 身体が資本の職業だからこそ細心の注意は払ってきている。 誰も悪くない。ただただ仲間のみんなに迷惑掛けるのが心苦しい。
物心ついた時には農業は身近にあった。 祖父は専業農家、父はサラリーマン。茨城ではよくある兼業農家に長男として産まれ家、土地を守ることが別に教育された訳ではないが理解していた。 幼いころ祖父と共にナスの出荷に農協へ行くのが楽しみだった。
農業って本当に奥が深い業種だなぁ。 伸び代しかない!