中島敦『山月記』 「上には上がある」&「恥は一時、志は一生」という心構え

『山月記』は中島敦32歳の時に発表されたデビュー作。
中国の伝奇小説『人虎伝』がもとになっている。

高校の教科書にも載っているので、一度は読んだことがある方も多いのではないだろうか。

主人公の李徴は、若くして進士(官吏登用試験に合格した人)になった俊才。才能があるがゆえにプライドが高く、誰かの下につくことを拒む。そのため官吏として人の命に従うよりも、詩人として名声を上げることを目指す。しかし詩人として成功することはなく、ついに李徴は発狂してしまう。李徴は、気がついた時には虎の姿となっており、「人喰い虎」として恐れられる存在になっていた。その頃、李徴の数少ない友人・袁傪(えんさん)が虎の姿になった李徴と再会する。叢(くさむら)の中で自分の姿を隠しつつ、李徴は袁傪に自分が虎になったいきさつを語り始める―――――。

作品のテーマは「自尊心」と「羞恥心」。
李徴はかつて「鬼才」と呼ばれた人物。
自分でも「特別な存在であることを信じたい」がために、
他人と関わることでそれを否定されることには「恥ずかしさ」を感じてしまう。
これが、人間だった頃、李徴が意識的に人との交流を避けてきた理由だった。

鬼才と呼ばれる自分が才能に乏しいと明らかになることへの恐れ、
自分が才に乏しい人間と同じように苦労と努力をすることへの怠惰。

これらは、李徴の中の「虎」=「尊大な羞恥心」あるいは「臆病な自尊心」を飼い太らせることになった。いつの間にか、「外形が内心の通りの姿になってしまった」というわけである。


『山月記』を読んで考えたこと


➀自尊心を捨てられなかった李徴。
実は社会人(官吏になる)以前の「経験」に原因が⁈

「上には上がある」という心構えは周囲の人間を見て身に着ける


筆者はこの作品を読んだ時、「李徴は運が悪いな」と思った。
というのも、李徴が自分の才能を自負していた根拠は、実は周囲の人々からの言葉にあったからだ。李徴は、自身の才能を自負していたことを次のように白状している。

もちろん、かつての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心がなかったとは言わない。

中島敦『山月記』角川文庫

郷党とは、自分が生まれ育った土地や、田舎という意味。
故郷では、たまたま周囲に李徴ほど優れた頭脳を持った人間はいなかったのだろう。

筆者は想像する。
もし、李徴の周りに幼少期の頃から自分より優れた頭脳を持つ人間(親・兄弟・友人など)がいたのなら、李徴は
―自尊心の根拠となる周囲からの評価に囚われることもなかったのではないか?
―自分の才が乏しい状況を素直に認めることができたのではないか?
と。


こう考えた背景には、筆者の個人的経験がある。

筆者は、幼少期からピアノを習い始めた。最初は地元のピアノ教室で、毎日練習していたこともあり他の生徒よりも難易度の高い曲を弾くことができた。先生からもよく褒められて、自分はこのまま頑張ればピアニストになれるとさえ思っていた。ところが、小学校高学年になり、ピアニスト育成を目的とする某音大付属の音楽教室に移籍した時、初めて才能にあふれる生徒たちを目の当たりにした。圧倒的な能力だった。筆者は驚きと共に、今まで「自分こそピアニストになれる」と思っていたことを恥じた。それから3年間、彼らに食らいつこうと必死に練習したが、将来を考えた結果限界を感じ、ピアニストになることを断念した。

筆者にとって、この経験は中学生以降の生き方に大きな影響を与えた
「上には上がある」ことを身をもって学んだことで、勉学では自分の成績が良くとも所詮は学校・塾・日本の中だけでの話だという心構えがあり、常に自身より実力の高い集団に身を置き、彼らに追いつくよう努力し続けたのだった。社会人である今もなお、そのスタンスを貫いている。

筆者の経験を踏まえて考えると、李徴は社会人(官吏)として働く以前に、自分の将来像・理想を変えなければならないほどの、プライドを深く傷つけられる経験に巡り会えなかったのではないだろうか。

周囲では自分の能力を高く評価する人間しかおらず、世間的にも知能の高さを示す試験に若くして合格した人間。現代で言えば「勝ち組」とでもよばれるのであろうか?優越・特別感を持つ立場として、社会人になるまで育ってきた人間が、今さらプライドを捨てるということ自体、とても難しいはずだ。
李徴の不運に同情する筆者なのである。


➁恥ずかしさとは何か&故事成語「韓信匍匐(韓信の股くぐり)」について


本作品のもう一つのテーマ「羞恥心」についても考えてみよう。
そもそも、羞恥心=恥ずかしいという気持ちとはどのような時に生じるのだろうか?

聖心女子大学教授・菅原健介氏は、羞恥心について次のように述べている。

私たちにとって、「恥ずかしさ」は自分のイメージを守るための心強い味方です。周囲の評価や信用を失いかけた時、羞恥心は「恥ずかしい!」という警報を送ってくれます。

聖心女子大学HP 聖心Voices「人はなぜ恥ずかしがるのか」

李徴にとって、自分のイメージは「珠なる」存在。
このイメージを守るためだけに、これ以上評価を下げたくない李徴は、なるべく人との関わりを避けていたのである。

この「恥」から逃れ続けたことで、一時的には周囲の評価や信用を失うことは避けられたものの、「虎」というもはや一生の間評価も信用も得ることのできない者になってしまったわけである。

虎になる前の李徴に対してひと言伝えておきたい故事成語が思い浮かんだ。それがこちら↓↓↓

韓信匍匐

「韓信の股くぐり」とも言う。
将来の大きな目標を達成するために、目先の小さな屈辱に耐えることのたとえ。

韓信とは、中国秦末~前漢初期の武将。「項羽と劉邦」で有名な劉邦を支えた漢の三傑の一人(張良・蕭何らと共に)と言われる。

股くぐりとは、韓信が町の若者から「腰の剣で俺を刺してみろ。できないなら俺の股の下をくぐれ」と挑発を受け、韓信はここで相手を殺して仇を受けて死ぬよりも、公衆の面前で若者の股をくぐること選び、後に王に仕える武将となったことから由来する。またこうした韓信の判断は「恥は一時、志は一生」と表現されている。


以上が、中島敦「山月記」を読んでの筆者の感想となる。
一見、漢文体でお堅いイメージを抱くが、実際に読むと簡潔で分かりやすい。
皆さんもぜひ、読んでみてください。

【参考文献】
菅原健介「人はなぜはずかしがるのか」


チャイニーズドットコム中国語教室「歴史と人物から学ぶ中国語―韓信」







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