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銀座花伝MAGAZINE Vol.29

#奇跡の真珠 #御木本幸吉のエレガンス #坂口貴信師「楊貴妃」舞台

銀座の松屋通りのハナミズキが、白とピンクの色を讃えて咲き誇っています。軽やかに空を舞うようなハナミズキの花言葉は「返礼」だとか。「私の想いを受け止めてください」という意味合いは、日本とアメリカの交友の歴史に由来しています。1912年、当時の東京市長であった尾崎行雄氏が、日米友好を願ってソメイヨシノ3,000本ををワシントン市に寄贈しました。日本人が心から愛する花であるソメイヨシノを贈られた返礼として、アメリカの人々が心から愛する花であるハナミズキを日本に贈ったと伝えられます。

英語での花言葉である「durability(永続的)」は、日本の花言葉と同じように、ハナミズキがゆっくりと確実に育っていく姿から由来しています。ゆっくりと育ち、逆境にも負けずに花を咲かせるイメージから、「love undiminished by adversity(逆境にも耐える愛)」という花言葉がつけられているそうです。

街の景色が四季の移ろいとともにもたらす物語に心傾けたい季節です。

世界初の真珠養殖実現に成功した銀座ミキモトの創業者・御木本幸吉翁の生き様を辿ると、そこには世界を魅了した真珠の烈々たる歴史、エレガンス(品格)の本質が見えてきます。宝石の中でも世界最高位である真珠。その宝をめぐる自然や世界ブランドとの闘いで起こる逆境を支えたのは、救世主シャネルの登場、そして独学で学び続けた「二宮尊徳翁」の教えでした。「特集」では真珠の歴史とともに真珠王・御木本幸吉の生命力あふれる実践の歴史・人物像を辿ります。
「能のこころ」では、能の中でも最も高位な表現力を求められる能「楊貴妃」の三月公演の模様をお伝えします。観世流シテ方 坂口貴信師による「楊貴妃」は、現代能楽界にあって最も気力が充実した師ならではの、静寂さの中に気品と繊細さを表現した見事な舞台でした。
演能及び楊貴妃の美しさを彷彿とさせる装束の画像とともに、優雅な舞台のレビューをお伝えします。

銀座は、日本人が古来から持ち続ける「美意識」が土地の記憶として息づく街。このページでは、銀座の街角に人々の力によって生き続けている「美のかけら」を発見していきます。


1特集 奇跡の真珠 御木本幸吉のエレガンス              

◇エレガンスを求めて

今、筆者の手元にある真珠の首飾り。もうかれこれ40年近くも前に祖母からプレゼントされたものだ。祖母は、あまり装身具を好まない質だったが、私のために一生ものをと言って選んでくれた。私自身も装身具にあまり関心がなく、その後冠婚葬祭の際に一二度着けただけで、その価値には心を寄せずに今日まで過ごしてしまった。
最近クローゼットを整理していて引き出しの奥に眠っていたこの真珠に再会した。

初めて見たとき、その美しさに心奪われたことを思い出した。「わ〜綺麗!」と高級な洒落たビロードのケースに入った真珠の首飾りを見て声を上げた。その柔らかさを纏った白い耀きは、まるで光を内側に巻き込んだような佇まいで、近寄り難いような優雅な美しさを感じたのだった。

そう言えばその時、祖母はこんな話をしてくれた。

「真珠には石言葉があって、“品格”というのだよ。西洋では、昔から“女の子が生まれると、お守りとして誕生日ごとに真珠を一粒ずつ買い求め、二十歳になったら粒を繋げてネックレスにアレンジする”という慣わしがあった。親が子供の成長を願う証として真珠は大切にされたのだよ」

相変わらずの美しさを放ってはいたものの、珠を繋いでいる糸が切れていた。いつの間に・・・・手入れをしないままの真珠に詫びながら、さてどうしたものか、と思案した。やっぱり大切な品だから修理しようと、エンジ色のビロードが貼られたケースの蓋裏をマジマジと眺めてみると、「MIKIMOTO GINZA TOKYO」の文字が刻印されている。そうか、ミキモトパールだったのか。祖母が一生ものと言った意味が初めて分かった。銀座の本店に直接持って行って見てもらおうと時を待たず出かけることにした。

銀座のエレガンス

銀座4丁目の中央通り、和光、あんぱんの木村家、山野楽器と歩道を辿っていくと、近代的なビルとビルの間に重々しさを帯びた石塔が立っている。「真珠王記念碑」とある。以前ミキモト本店は黒光りした御影石風情の重厚なファザードを持つビルだったが、2017年にガラスピース4万個が埋め込まれたファザードを持つ白亜のビルに生まれ変わった。ファサードは伊勢志摩の穏やかな海面をモチーフとし、時として陽光に煌いて見える。このビルの高さは銀座の地区計画「銀座ルール」で定められた高さ約56メートルを保って街の景観を守っている。

ミキモト本店の重厚なガラス扉を押して中に入ると、フロントで真珠コンシェルジュが出迎えてくれる。用件を述べて振り返ると、白く磨き上げられた螺旋階段が上へ伸びている。登り口の奥にふと目を落とすと、どこか懐かしい顔がお目見えする。世界で初めて真珠の養殖に成功した真珠王・御木本幸吉氏の銅版レリーフだ。ふくよかでありながら、しかし鋭い眼光で遠くを見つめているその横顔には、強い意志が満ちている。

ロビーに飾られている 御木本幸吉翁レリーフ


気品がそそがれる空間で

3階の修理コーナーに案内されたので、おもむろに例の真珠の首飾りのケースを差し出した。修理担当のコンシェルジュは白手袋をした手で受け取り、いぶした金色のドレープが美しい重厚なカーテンに包まれたブースの中でピンセット、特製ルーペを流れるように使いこなしながら手際良く点検作業を進めた。
ほどなく、
「確かに私どもの真珠でございます。歴史を感じる年月お使いいただいて誠にありがとうございます」

「少し汚れもありますので、一粒づつ磨いた後、新しい絹糸に通し、元の状態にさせていただきます」「真珠の数を確認いたしますのでご一緒に」と言い、宝石盤の上に真珠連を広げながら、5個ずつ数を確認する。全部で69個、欠落はなかったようだ。それを画像に撮り、控えを筆者に渡してくれた。保証書などないのに、どのようにMIKIMOTO製だと見極めるのですか?と尋ねると、

「真珠には記名はできませんが、ネックレスのシルバー金具にほとんど見えないくらい小さく我が社のMを刻印してあるのです。よくお客様の中には、留め金をさらに豪華なものに付け替える方がいらっしゃいますが、そうされると私どもでは真贋が確認できずに修理を有料にさせていただくしかなくなってしまいます。どうぞその辺りはお気をつけくださいとお伝えしておりますが。」

「1週間ほどお時間を頂戴します。無料でメンテナンスをさせていただきますのでご都合のよろしい時にまた受け取りにお越しください」


真珠を手入れするということ

真珠のネックレスの磨き方についても実演しながら、首飾りの連にそってただ拭くだけでは汚れは落ちないこと、一粒づつ糸と直角に布を当てると化粧品や汗などを拭うことができること、よく使う人ならば3年に一度は絹糸を交換する方が良いことなどを丁寧に教えてくださった。いかにも真珠を愛し、心を込めて手入れをし続けてきた真珠コンシェルジュという専門家ならではの言葉が一つ一つ胸に響いた。老舗とは、こうしたおもてなしの気品を余す所なく客のために注げる店のことを指すのだと、別格な価値を改めて感じたのである。

そして、よろしくお願いしますと頭を下げると、「お時間がございましたら真珠のお話はいかがですか?」と誘いを受ける。

修理コンシェルジュの専門知識の豊富さ、手際の良さやおもてなしもさることながら、真珠の歴史、御木本幸吉の開発秘話など、とりわけ「エレガンス」という美意識にまつわる逸話には含蓄があった。

それは銀座で121年営んできた老舗ならではの、身を乗り出さずには居られないお話だったのである。

その物語をご紹介しよう。

創業当時の銀座ミキモト


◇エレガンスを手渡すために

話はこんな前置きから始まる。

「銀座には多くの国を代表する宝石ブランドの本店が集積しています。それぞれ独自の個性を商品に織り込みながら世界でオンリーワンの商品作りに鎬を削っているわけですが、お互いは最大のライバルであるにも関わらず、コンセプトはたった一つで、共通しているのです。

「エレガンス」を売る

このために私どもを含め宝石商たちは鎬を削っていると言ってもいいのです。そして、その最高位が真珠だと言われています真珠は世界最古の宝石です。そこには、17世紀から始まった富裕層がこぞって求めた天然真珠、それにまつわる宝石商たちの戦い、希少な真珠発掘と養殖真珠による新しいエレガンスの開発という壮絶な歴史がありました。

エレガンスとは、優雅、気品、典雅、上品さ。多くの女性たちが求めた、貝から生まれた珠。そこに単なる宝石を超えた神秘性が宿っているという。


◇世界最古の宝ー真珠の歴史

真珠の歴史は簡単に述べると次のようであるという。修理コンシェルジュの話を元にその辺りの歴史的背景については歴史学者の山田篤美著「真珠の世界史」も加味しながら紐解いてみよう。

真珠について最古の記録と言われている中国の史書『尚書』には、「紀元前2206年、淮河から採れた貢物として禹王が真珠を受け取った」とある。真珠は権力や富の象徴であり、王族たちが好んで身につけた最初の宝飾品だったことがわかる。                           日本においても、縄文時代が終わって3世紀になると、日本は真珠の産地として中国に知られるようになった。日本の真珠について最初に述べているのが「魏志倭人伝」である。その後も日本書紀や古事記、万葉集に真珠の記述が見られるほど古くから愛されていたようである。           一方古代オリエントにおける真珠の産地は二つあった。アラビア湾とインドのマンナール湾である。真珠貝が生み出す真珠を珍重し憧れるようになったのがヨーロッパ人だった。真珠は「魚の眼」と呼ばれ、古代メソポタミア世界では5500年前にイラクで世界最古の文明を築いたシュメル人は世界最古の宝石として交易品に使っていたという記録が残っている。

紀元一世紀の博物学者プリニウスが、著書である「博物誌」の中で「貴重品の中でも第一の地位、最高の位が真珠によって保持されている」と述べて、宝石に順位をつけ、真珠は最高の宝石であるとした。この見識高いプリニウスの言葉が後世の世界に大きな影響を及ぼすことになる。


豆知識:プリニウスとは

古代ローマの将軍・博物学者。古代科学知識の集大成ともいうべき大百科全書「博物誌」(全37巻)を編んだ。ネロ帝(在位54‐68)の治世初期には騎兵大隊に属し、次の皇帝ウェスパシアヌス在位中も信任があつかった彼は,スペインやアフリカ北部に財務官として赴任し,博物誌的な見聞を広めた。晩年はナポリ湾ミセヌム基地の海軍提督になったが,おりから79年のベスビオ火山の大噴火に際し,人命救助と知的な探索意欲から現場に急行したが,ポンペイの近くで噴煙に巻かれ最期を遂げた。


プレニウスの「博物誌」


このプリニウスの見識によって、真珠は最高位の宝石とされてきた。それゆえ富裕層にとっての富の象徴は「天然真珠」となった。古代ギリシャやローマで最高の宝石となった真珠を求めて、宝石商たちが発掘場所を探索して活発な取引をするようになる。丸くて美しいアコヤガイの真珠は、アラビア半島と南インド海域でしか採れなかったために、益々希少性が増し、価格は跳ね上がるばかり。16世紀の大航海時代になると、新大陸のベネズエラの沿岸部がアコヤガイの真珠の産地であることが分かり、それを知ったスペインが真珠の産地を支配、ポルトガルはアラビアの真珠を手に入れたことにより、ヨーロッパには大真珠ブームが起きることになる。

17世紀になると、ダイヤモンドの人気が増していくが、19世紀後半に南アフリカでダイヤモンドが発見されると、その希少性が減少し再び真珠がダイヤモンドよりも貴重になる。その後もヨーロッパの支配階級が天然真珠を熱望し、名だたる世界を代表する宝石商カルティエやティファニーが高値で真珠を販売し続けることになる。

ところが、2千年にわたり培われた真珠の「価値と伝統」を瓦解させる、大事件が世界中を駆け巡った。それこそが、「養殖真珠の開発に日本人が成功した」というニュースだった。

世界で初めての真珠養殖


欧米による養殖真珠排斥運動

19世紀後半から20世紀初め、真珠の価格は上がり続けていったのだが、当時の異常な真珠バブルの背景には、三つ理由があったという。一つは真珠のライバルだったダイヤモンドが供給過剰となったこと、二つ目は新興成金と言われる人々が真珠に熱狂したこと、そして、当時の「真珠王」レオナール・ローゼンタールが真珠の産地を独占したことで、真珠の供給量と価格を意図的に操作し始めたことだった。それに付随するように、旧大陸の宝石店カルティエや新大陸の宝石店ティファニーも真珠の高額化を推し進めていったのである。

その最中に襲ってきた「養殖真珠」ニュースは、ロンドンやパリを動揺させ、ロンドン商工会議所は緊急会議を開き、次のような声明を出した。

「養殖真珠の「養殖」を明記せず、真珠として売るのは虚偽記載である。日本の「養殖真珠」を真珠として故意に販売した人物は虚偽記載で起訴される」

その後、その抵抗運動はフランスに飛び火し、世界の真珠シンジケートは養殖真珠の排斥運動に躍起になっていき、1920年代まで天然真珠の人気は沸騰し続ける。

ところがである。大きく世界が変わったのは、1929年、ウォール・ストリートの株価暴落による大恐慌が始まった時点からである。1930年にフランスの銀行が機を見て養殖真珠を普及させるべきと判断し、逆に天然真珠のディーラーにはこの日以降、信用供与(手形割引など)をしないと宣言するに至る。その日の夕方、天然真珠の価格は85%まで下落し、その後天然真珠の取引は事実上、何年もできなくなる。これによって、欧米の天然真珠市場は壊滅し、フランスによる世界の真珠市場の独占も終わったのである。



◇「真珠」の救世主 シャネル

ここまで、歴史を辿ってきて、「おや?」と思われた方も多いだろう。「フランスの銀行が機を見て」の機とは一体何のことだ?

1930年に天然真珠は暴落し取引できない状態になった。しかしそれより数年前から、フランスで生まれた潮流、つまり天然真珠であろうと、養殖真珠であろうとそれらを問わない新たな美意識が生まれていた。「真珠」そのものの救世主が現れたのである。その人こそ、ガブリエル・「ココ」シャネルだった。

ファッションに精通していない人でも一度は聞いたことのあるファッション界のアイコン、シャネル。12歳から18歳まで孤児院で暮らし、その後お針子やコーラスガールの仕事につきパトロンの力を得ながら、1913年30歳でパリにブティックを開業した。新素材のジャージー素材の服や、香水「シャネルの五番」を売り出し、1926 年には、世界を変える衝撃的な黒のストレート・ドレスを発表した。

ブラックドレスと真珠「ヴォーグ」


◇シンプルを際立たせる「真珠」の威力

後にLittle Black Dress(リトル・ブラック・ドレス)と呼ばれるドレスは、女性の胸や腰を強調しないストンとした直線型で、裾は膝までしかなく、それまではしたないと言われてきた足を見せるスタイルだった。ドレスの色は当時の喪服の色、黒。あまりに非常識で貧相なため当時の男性諸氏が嘆いたドレスでもあった。

ところが、このドレスは女性たちの圧倒的な支持を得たのである。言ってみれば、美意識の革命が起きたとも言える。

シャネルは体を締め付けるコルセットの追放こそが女性の解放につながると考え、新しいドレスにコルセットを使わなかったので、そのドレスは実に快適で動きやすかった。その上、これまで喪服の色に過ぎないと考えられていた黒が実は格好いい色、モダンの象徴という新たな見方を提案した。

しかし、世界を変えたこのドレスの成功を支えたのは、他ならぬ「真珠」だった。アメリカ版『ヴォーグ』誌に掲載されたリトル・ブラック・ドレスのイラストではモデルは真珠のネックレス、イヤリングをつけている。白い真珠は、黒のドレスに気品と美しさと洗練さを与えていた。このドレスは、真珠をつけてこそ完成したのである。もしかすると、シャネルは真珠を使いたいがために、黒のドレスを発明したのではないか、と噂されるほどそれは世の中の美意識を変えた衝撃的な変革の美を持っていた。

新しいエレガンスの登場

こうして、リトル・ブラック・ドレスと真珠の組み合わせはテーゼとなり、人々は、シャネルの打ち出したテーゼに共鳴し、進んでそれを自分たちの生活に取り入れていったのである。それは一般女性にも普及したのはもとより、特に戦後のハリウッド映画では、銀幕の女優たち例えば、映画「裏窓」のグレース・ケリーの黒のニュールックドレスに一連の真珠をつけた姿、1954年、ハネムーンで来日したマリリン・モンローに夫であるニューヨーク・ヤンキースのジョー・ディマジオが銀座の御木本で39個の真珠のネックレスを購入、彼女はそれをつけてブラックドレス姿で現れたというニュースもあった。

さらに1961年に公開された映画「ティファニーで朝食を」のオードリー・ヘプバーンのブラック・ドレスと背中に重ね真珠を合わせたファッションに世界中が釘付けになった。主題歌「ムーン・リバー」が流れる早朝のニューヨーク五番街。一台のタクシーから華奢な女性が、後ろ向きに降り立ち姿を現すが、黒のドレスの背中には四連の真珠のネックレスが流れるようにつけられている。彼女はティファニーのショー・ウインドウの前に立ち、紙包みから取り出したパンを立ち食いをする。そんな無造作な仕草もリトル・ブラック・ドレスと背中の真珠があるだけで、ため息が出るような優雅さを表現できるということを世界中に知らしめたのである。

因みに、その時ヘップバーンが身につていた真珠はティファニー製で養殖真珠だったと言われる。実は長い間アンチ養殖真珠の雄だったティファニーは、1955年から養殖真珠、また同じくアンチ養殖真珠の旗手だったカルティエも1955年以降日本の養殖真珠を扱うようになっていたのである。

シャネルが登場した1920年代はアール・デコの時代で、左右対称の機能的な美を追求し、規格化された商品、つまりは大量生産時代の前触れでもあった。日本の養殖真珠はまさにこの時代に登場したのである。同じ大きさ、同じ色合い、完璧なまでに丸い日本の養殖真珠はその時代の申し子になったと言える。

欧米人にとって長年の富象徴だった天然真珠が、日本の養殖真珠登場によってその価値の暴落、時には無価値になるなどに至った。それゆえの排斥運動も起こったのだが、結局はシャネルの興した新しい美の価値観の助けもあって御木本幸吉の養殖真珠は広く世界に認められていくのである。

鳥羽真珠養殖場の海女作業風景


◇真珠王・御木本幸吉の素顔

破格な夢、生命力

伝記小説「幸吉八方ころがし」(著永井龍男1904年-1990年)の中に御木本幸吉の人間像をうかがい知ることのできる面白いエピソードが紹介されている。

老人医学の権威、勝沼精蔵博士(1886年ー1963年)は古くは西園寺公望、渋沢栄一の主治医であった人物で、手がけた病人患者の数と幅広さは大変なものだった。その博士が次のような話をしたという。

「40年、50年と人間を診ている間に私の方が患者から教えられることが随分あった」とし、とりわけ御木本幸吉という人間についての思い出が深いというのである。

「御木本さんが76歳の時だった。私が若い時から、老人病について特に勉強しているのを伝え聞いて、渋沢栄一さんは92歳まで生きて、あれだけの仕事をされた。自分も92歳をまで生きれば、国のために尽くせる実業家に成れると思う、私を生かしてくれまいかと、初対面での相談だった」

「生きるのは、あなたが生きるので私の役目はそのお手伝いをするだけのことだが、あなたに生き抜くという意思があるなら、相談相手になりましょうということで引き受けた。                      それから十数年。約束の92が来たので、これであなたとの契約が済んだと私がいうと、いや戦争に負けたのだから、あの契約は解消だ、私はさらに働き、国の賠償金を一手に真珠で払うつもりだ。100歳まで生かせてもらいたい。世界中の女性の首を真珠のネックレスで飾るのが私の念願だと何度も繰り返した」

御木本幸吉は96歳で天寿をまっとうしたが、亡くなる直前までしっかりした頭で事業の第一線に立ち、一昼夜も患わずに急死したという。

「この人こそ、本当の意味の長生きをした人だ。この人は決して過去のことは口にしなかった。いつも将来の計画を立て、将来に対する夢を捨てず、始終それを私どもに大声で語る。その迫力にいつも打たれて、自分も明日のために勉強せねばならぬという気持ちになった」

公言通り敗戦後の日本の敗戦の賠償金を真珠で支払うという功績を見事に実現させたことはよく知られるところである。御木本幸吉の美点長所を見抜いていた博士が、感動的に幸吉の人となりを表した物語は今でも語種となっている。




手放さなかった、常識はずれの夢

御木本幸吉は、1858年(安政5年)、志摩国鳥羽浦大里町(現・三重県鳥羽市)の「阿波幸」といううどん屋の長男として生まれる。安政5年といえば、日米修好通商条約が締結され、日本の開国が本格化した年である。             幼名は吉松。祖父の吉蔵は「うしろに目がついている」と言われたほど先見性に富んだ商人で、一代で財をなした。ところが父の音吉は、商売よりも機械の改良開発に夢中になり、親の遺産のほとんどを食いつぶしてしまう。幸吉が物心ついたときには、すでに家運は回復不能の状態にまで傾いていたらしい。
幸吉は祖父の商売の才と父の発明の才を受け継いだ。正規の教育を受けられなかった幸吉は独学で何でも学び身につけて行った。

こんなエピソードがある。機転と器用さをかね備えた幸吉は、あるとき鳥羽にやってきた狂言師から“足芸”という伝統芸を教えてもらう。仰向けになって足で傘や球を転がす芸であるが、それは幸吉の一芸となった。「芸は身を助く」というが、この“足芸”は、商談などさまざまな場面で幸吉の道を開いた。                                鳥羽港にイギリス軍艦シルバー号がやってきたときのことである。これをチャンスとみた幸吉は、早速青物を売りに小舟で出る。ほかの商人たちが皆追い返される中、幸吉は小舟の上で得意の“足芸”を披露する。軍艦の乗務員たちはこの即興芸に興じ、幸吉を艦上にあげてくれた上に品物もすべて買ってくれたという。                                     また後年、行幸の際に鳥羽を訪れた明治天皇の御前でもこの“足芸”を披露したという。堂々と珍芸をやってみせる幸吉の姿に、天皇はたいそう喜んだと伝えられる。この体験が幸吉の「人の気持ちを掴みながら商いをする」実感となって積み上がって行った。


独学から得る 支援者

1878年(明治11年)、20歳で家督を相続し、名前を幸吉に改めると、「海の国では海の産物を商うべきだ」と宣言し、海鮮物取引への転身を図る。この宣言によってその後の方向性が定まり、やがて幸吉は地元特産の天然真珠にも手を広げて行く。その一方で、士族の娘のうめと身分の差をこえた結婚をする。彼の最愛の良き理解者となる。

そんな中、高価な天然真珠を生み出す真珠貝が乱獲され、今でいう「絶滅危惧種」になっている現実を目の当たりにするのである。この時のショックがやがて彼の運命を変えて行く。幸吉は、かつて長崎の海軍伝習所で勝海舟らと学んだ海洋測量の第一人者で、“海の伊能忠敬”といわれた、もと伊勢津藩士の柳楢悦(1832-1891)に、思い切ってそのことを相談してみた。そのとき目を大きく開かれた幸吉は、この美しい真珠を人間の手でつくり出そうと、英虞湾での真珠貝の養殖を決意、柳は幸吉にとって最大の支援者となる。         
幸吉は、「真珠が必ずできる養殖方法」を見つけ出そうと考えた。それは真珠貝のなかに「核」になるものを挿入するというものだ。しかし生体は、それを“異物”と感知すれば体外に排出しようとする。当時は人為的に貝に真珠をつくらせることは生物学上不可能とされていた。“異物”で終わるかそれとも「核」となるか。1890年(明治23年)、幸吉32歳、妻のうめ26歳。幸吉夫婦の二人三脚による、ひたすら貝の声に耳を傾けながらの試行錯誤と悪戦苦闘の日々が始まった。


真珠養殖の試練と奇跡

試行錯誤、養殖真珠作りは苦難の連続だった。そんな中、悪夢のような事件が起こる。1892年(明治25年)、突如大発生した赤潮が、幸吉の養殖場に押し寄せてきたのだ。海は血のように赤く染まり、丹精こめて育てた真珠貝のほとんどが酸欠で死滅してしまった。4年にわたって資金と労力をつぎ込んできたすべてが一日で水の泡となった。その上、狭い田舎ならではの心ない人たちによる「真珠狂い!」という嘲笑が、失意の幸吉夫婦にあびせられた。

だが、驚いたことに赤潮から死を免れた貝を妻のうめが開いてみると、中から「半円真珠」が5個出てきたのだ。それはまさに奇跡だった。1893年(明治26年)、世界で初めて半円真珠の養殖に成功する。すでに資金が底をついていた幸吉は事業化を急いだ。そして1899年(明治32年)には装飾真珠の専門店を銀座の路地裏・弥左衛門町にオープンさせ、さらには海外への展開も始めた。なかでも幸吉は博覧会や展覧会への出品にこだわった。行商時代の経験から「人目を引く方法」が商売の要であることがよく分かっていたからである。


失意と失敗の後に、夢の実現

なんとか軌道に乗りかけてきたかに見えた矢先のことである。最愛の妻のうめが5人の子を残し、32歳の若さで病死してしまう。幸吉は最大の理解者を失ってしまった。世界中のだれでもない、「妻の首をこそ、いつか真円真珠で飾りたかった」その思いが幸吉の心の支えだったにも関わらずにである。

それから10年、ひとり幸吉は真円真珠の養殖に黙々と邁進するが、またしても再び大発生した大規模な赤潮が彼の養殖場を襲い、貝のほとんどが死滅。ところが再び奇跡が訪れた。死んだ貝を開いてみたところ、中からなんと大粒の真円真珠が5個現れたではないか......。幸吉の人生は常に失敗の連続、しかしその向こうに見える微かな希望の光に向かって諦めなかったことの成果がやっと現れたのである。

これをきっかけに真円真珠開発が本格的にすすめられ、確実に真珠質を「核」に巻きつかせる方法を確立する。1905年(明治38年)のことである。そして3年後の1908年(明治41年)には「真円真珠養殖法」で特許を取得する。名実ともに真珠に関する発明のすべてを成功させた。世界中の研究者たちが夢見た人工真珠の誕生である。幸吉は不可能だと言われ続けた「常識」を見事に覆した。夫婦で真珠貝の養殖にとりかかってからすでに18年の歳月が経っていた。

1906年(明治39年)に幸吉は、銀座中央通り(現・銀座4丁目ミキモト本店)に本店を構えるまでになる。

現在の銀座ミキモト本店


◇夢を支えた、二宮尊徳翁の教え

開発に成功した後も決して順風満帆の道のりではなく、1970年ごろからの真珠不況の到来など、その度毎に繰り返された事業の失敗を御木本幸吉はどのように乗り越えたのだろうか。

鳥羽にある「ミキモト真珠島」真珠博物館・館長松月清郎氏の話によれば、御木本幸吉の愛読書は『二宮翁夜話』だったという。幸吉は二宮尊徳(1787~1856)を尊敬し、この本に自らの生き方、生活規範を求めていたようである。この本は、明治十年代の後半に三年を費やして刊行された当時のベストセラーで、尊徳の思想を高弟である福住正兄が著したものである。幸吉本人の言では「七回味読した」ほどの愛読書だったという。

御木本幸吉の生き方・生活規範のいくつかはこの本にその雛型を見ることがきると松月氏はいう。

たとえば『二宮翁夜話』[58]「天変地異を予期する人道」では、事業を進める上で失敗した際の予防策の必要性が説かれている。一方、幸吉はその語録で「二段構え」の必要性を述べており、例えば、真珠養殖の実験場として英虞湾と鳥羽の相島の二ヶ所を利用したことはよく知られていることだが、これは赤潮など不測の災害を考慮にいれたもので、尊徳の教えと一致している。

 同書[62]では『菜根譚』の文言を引用して粗食を勧めている。尊徳の「飯と汁、木綿着物は身を助く」という言葉に従って、幸吉も粗食が食生活の基本で、また絹の衣装を用いないことにしていた。語録では同様に奢侈を戒め、質素倹約の重要性を説く段は各所に見られ、これらは幸吉の処世訓として実践され続けた。

豆知識:二宮尊徳翁とは

二宮尊徳こと二宮金次郎は、江戸時代末期に関東から南東北の農村復興に尽力した人物である。二宮尊徳の思想や方法論を「報徳」と呼ぶ。これは、「万物にはすべて良い点(徳)があり、それを活用する(報いる)」という彼の思想に対して、小田原藩主・大久保忠真から「汝のやり方は、論語にある以徳報徳(徳をもって徳に報いる)であるなあ」とのお言葉を受けたことによる。これら「報徳思想」や「報徳仕法」は、尊徳の子孫や弟子たちに受け継がれ、広まっていった。渋沢栄一、安田善次郎、鈴木藤三郎、御木本幸吉、豊田佐吉といった明治の財界人・実業家や、松下幸之助、土光敏夫、稲盛和夫といった昭和を代表する経営者たちにも多大な影響を与えたと言われる。

江戸儒学思想を生きる力に

幸吉の生活規範はすべて『二宮翁夜話』の教えに添ったものかというと、そればかりではなかったようだ。幸吉が愛読書として挙げたもう一冊は『鳩翁道話』といい、江戸後期に京都で活躍した石門心学の普及者柴田鳩翁(しばたきゅうおう)の道話を書きとめたものである。子供の頃に読んでいたとすれば、幸吉は尊徳を知る前に鳩翁の道話に親しんでいたことになるという。

柴田鳩翁(1783~1839)は心学の創始者石田梅岩(1685~1744)の『都鄙問答』を知って、石門心学を志し、梅岩の後継者である手島堵庵の弟子、薩埵徳軒(さったとくけん)を師匠として修業に勤め、やがて自らも各地で道話を行うようになった。道話はさまざまなたとえ話から教訓を取り出して、孝行や自制、思いやりなど処世の術を説きほどく、いわば講演会をまとめたもので通俗的な読み物だが、今日の社会では全く失われてしまった、「庶民が初歩的な処世道徳に接する」貴重な機会に出会っていたようだ。

江戸後期の庶民の子弟は寺子屋で『童子教』や『實語教』あるいは『経典餘師』などといった儒教の考え方を分かりやすく解説したテキストを用いて、実社会で通用する知恵や作法を学んでいたことはよく知られているところだ。幸吉が大事にした正直や倹約、質素といった徳目は『鳩翁道話』にも満載されているところを見ると、江戸時代の思潮全体を幸吉は必死で学び続けていたのであろう。


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銀座4丁目に立ってみると

御木本幸吉が亡くなった1954年から68年の歳月が経ち、時は21世紀になった。銀座ミキモト本店の前に立って、銀座中央通りを見渡すとめくるめくような宝石を扱う内外の老舗が軒を連ねていることに改めて驚く。特に、3丁目の交差点は、ラグジュアリークロスなどという名前がついていて、イタリアからは「ブルガリ」、フランス・パリからは「カルティエ」、アメリカから「ティファニー」など、世界を代表する宝石ブランドが鼻をつきあわせて商いをしている。そこに、シャネルや、ルイ・ヴィトン、エルメスなどの老舗ファッションブランドなども加わり、今や11の世界ブランドがひしめき合っているのである。まるで、今聞いてきた「真珠の歴史」がリアルに目の前で動き出すような錯覚を覚える。

そんな世界に君臨する海外ブランドたちの向こうを張って、うどん屋、青物行商から身を起こし、自らのアイディア力によって世界の真珠王になった御木本幸吉。

「世界中の女性を真珠で飾ってご覧にいれます」

その宣言通りに、発明された真珠はミキモトパールと呼ばれ、その高貴な丸さといい優麗な色といい、高品質の証そのものである。

筆者が真珠の首飾りの修理をお願いしての帰り、真珠コンシェルジュが出口まで送ってくださった。

「今日はとてもいいお話をさせていただきました。幸吉翁もきっと喜ばれていると思います」

老舗というのはいつも胸を熱くする物語に溢れている。それを語り継ぐ人がいる。この貴重なおもてなしこそが老舗である証なのだと、思わず幸吉翁のレリーフにお辞儀をして店を出た。


2 能のこころ 気品の舞「楊貴妃」の優美              ー坂口貴信師 能舞台「三人の会」ー


多くの能役者にとって、「女」役を自ら得心できるまでに豊かに演じることができるようになることが最終目標だと言われる。そのことは、観世流シテ方 坂口貴信師による築地本願寺で2021年4月に開催された能楽師直伝「能楽・狂言」講座で学んだことである。                 その講座において坂口師は、世阿弥作「風姿花伝」を朗読する中で、その内容に沿った演目の中でも最も豊かな表現力を求められる「女」「老人」「狂物」を主人公とした名場面の演じ方の違いを、「謡くらべ」という形で実演してくださったのだが、その内の「ことさら難しい『女』をどう表現するのか」というテーマについて、「音色(声質)を変える」という妙技を「楊貴妃」を取り上げて実演してくださった。

裏声を使わずに女性の音色(声質)を表現 ー眼前で演じられた謡の気品と流麗がシンクロした異次元の迫力に、驚き絶句した。坂口師の胸郭から放たれる呼吸の魔術としか言いようの無い表現であった。
                                   3月の坂口師の能舞台に「楊貴妃」が掛かると聞き及び、「どのような楊貴妃が観られるのだろう」と筆者も含め多くの方々が期待に胸を膨らませた。2022年3月12日に開催された「三人の会」(in 観世能楽堂)での「楊貴妃」公演レビューをお届けする
                         文責 岩田理栄子


↓【能のこころ】築地本願寺「能・狂言」講座 ダイジェストはこちら↓


◇金春禅竹作品のむずかしさ

「楊貴妃」の作者は世阿弥の娘婿・金春禅竹であると言われる。世阿弥作品が「簡明直裁」(簡潔で迷いがない)だとすれば、禅竹作品は、「紆余曲折」(入り組み変化する)という違いがあると言われる。言い換えると、禅竹作品は「裏の世界が大きい」ので作品を読み込む力と並外れた表現力が求められるがゆえに、演ずることが難しいとされるのである。

古の能の伝書「童舞抄」(どうぶしょう)の中に「楊貴妃」の演じ方についての記述がある。
「此能、女能のうちにて真の能也。楊貴妃の物まねなる故に、美しく、位あるように舞事を本とせり。又、恋慕と哀傷を兼ねたる能也。足踏みにも心持ちあり。口伝・・・・」(この能は、女能の中でも最上の能と言える。楊貴妃の人物を演じるのだから、美しく品位を持って舞い込まなければならない。また、恋慕と哀傷との両面を備えた能でもある。足拍子も心して踏まねばならない。これらはとても大切なことだ・・・」

楊貴妃は、死後もなお愛した玄宗皇帝のことが忘れられず、昔を懐かしみ、その心は皇帝への恋慕の情で満たされ続ける。それゆえに涙するシーンが何度も繰り返し描かれ、作品の最初から最後まで隙間なく愛惜しさにあふれ、美しい楊貴妃の容貌と相まって甘美さが漂うことが特徴でもある。しかし、これを単に美しさだけと捉えるだけでなく、表面の美しさの裏に潜む暗さ、死んだ人間のわだかまりの心情を捉える作業が不可欠で、そこに「真の美しさ」が現れるのだ、と説いている。

この伝書は、室町時代後期から江戸時代における能の演出資料として、本願寺坊官であり能役者であった下間少進(しもつましょうしん)によって著された。素人能楽師でありながら生涯に1200番近い能を演じ玄人を凌ぐ人物である。

●豆知識 :下間少進とは?
下間家は本願寺譜代の家臣で、少進は織田信長の信頼厚く、天正10(1582)法印(最高の僧位)に昇進する。岳父下間丹後光頼から観世系の芸を習った後、金春太夫岌蓮 (ぎゅうれん) に師事。豊臣秀吉、徳川家康の寵遇を得て、門下には諸大名が名を連ねたと伝えられる。著書に三部作:『童舞抄』『舞台之図』『叢伝抄』 慶長1〈1596〉がある。

◇楊貴妃の波乱万丈の人生

白楽天が、玄宗と楊貴妃の悲運の愛の物語を詠んだ「長恨歌」をベースにストーリーを脚色した作品が、能「楊貴妃」である。実際のところ楊貴妃は実に波乱万丈の人生を送っている、まずはその物語をお伝えしておこう。

楊貴妃(719〜756)は、蜀の楊家に生まれ、玉環と名付けられた。幼時に父母を亡くした彼女は叔父の養子となりその後、生来の美貌から、玄宗(685〜762:唐の第9代皇帝)の18子、寿王の李瑁(り・ぼう)の妃になる。17歳の時だった。ところが、その美しさに心を奪われた玄宗は、楊貴妃22才の時に後宮に入れてしまう。息子の妻を略奪したという体裁を整えるために、楊貴妃はこの時道教の尼になって出家し(その時の名前が「太真」)、その後結婚するという形を取っている。玄宗が楊貴妃を寵愛したことから、彼女の親族も唐の要職を担うようになる。その一人が、楊貴妃の従兄弟、楊国忠(?〜756)だった。楊国忠は宰相として権勢を振るうが、やがて、唐の軍人で楊貴妃の養子となった安禄山(705〜757)と激しく対立することとなる。

玄宗は楊貴妃を溺愛して国政を疎かにするようになり、安録山(43歳)という人物の反乱を招くことになる。(安史の乱)安禄山の攻勢を受け、玄宗は首都長安から逃げ、楊貴妃や楊国忠も同行するが、馬嵬(ばがい)という場所に着くと、皇帝警護の親衛隊が、乱の原因を作ったと咎めて楊国忠を殺し、楊貴妃の死も要求する。そしてついに、楊貴妃は玄宗の命により縊死させられてしまう。楊貴妃38歳のことだった。

長恨歌には、乱が鎮まった後、皇帝は深い悲しみのうちに、道士(方士)に楊貴妃の魂魄の行方を探させたと書かれ、そこから能の物語につながっていく。

●豆知識:長恨歌(ちょうごんか)とは?                   唐代の皇帝・玄宗とその愛妃・楊貴妃の悲劇を詠んだ詩。安録山の乱でこの悲劇が起きてから50年後に、120句におよぶ長編の詩が作られた。白楽天(白居易)35歳、9世紀初めの作品である。紫式部や清少納言が生きた時代より150年ほど昔、この詩の入った『白氏文集』は日本にも伝えられ、『源氏物語』や『枕草子』にも影響を与えたと言われている。

能「楊貴妃」のストーリーは、愛する楊貴妃を失い、悲嘆に暮れていた玄宗は、彼女の魂の行方を捜すべく、道教(仙術の使い手)を使う方士(ワキ)を派遣するところから始まる。あの世に行き来できる方士が東海上の仙境・蓬莱島に至ると、そこには孤独な日々を送る楊貴妃の魂(シテ)があった。玄宗の言葉を伝え、貴妃と会った証拠の品を賜りたいと言う方士へ、自らの髪飾りを与える彼女。しかし方士は、それでは確かな証拠にならないと言い、生前に玄宗と言い交わした秘密の言葉を教えてほしいと願う。そんな彼へ、貴妃は、いつまでも一緒に居ようと二人で誓った七夕の夜の思い出を明かす。

帰ろうとする方士。しかし貴妃は彼を呼び留めると、かつて自分が玄宗の前で舞った“霓裳羽衣(げいしょううい)”の舞を見せようと言う。玄宗を慕う心中を吐露し、思い出の舞を舞う貴妃。やがて、帰ってゆく方士を見送りつつ、貴妃はひとり嘆き沈む姿で舞台は終わる。             能楽師にとって、幽霊ではない死者という不思議な立場のシテを演じることになるこの舞台。その心情の深みを感じとるという大きなハードルをどのように超えるのか、会場全体が楊貴妃の登場を待った。


◇楊貴妃の心奥を演じ切る

『楊貴妃』は、『定家』『小原御幸』と並び、三婦人と呼ばれ、貴い女性を描く位の高い曲である。先に述べたように、禅竹作品は世阿弥作品より一つ影があり、能の言葉としても奥行きがあり、そこが魅力でもあると言われている。通常、能の演出は、死んだ人間(シテ)が現世に現れるが、『楊貴妃』は現世の人間(ワキ)が死者の国へ行くという逆の構成である。禅竹は世阿弥とは違った発想で、死者の内情、内面を生者の方が引き出す斬新な手法を『楊貴妃』に取り入れ成功していると言われている。

この演目を演じ切るために、演者が備える謡、舞の高い技術・表現、そして観客を惹きつけるための数々の細い工夫について、視点を写しながらご紹介しよう。

                      ©️駒井壮介


◇動きがない静の世界 

「謡」の妙技「楊貴妃」の謡は長恨歌の原文を崩さずうまく導入された名文であると言われる。この能は、シテの型の動きが非常に少ないこともあって、「謡の曲」とも言われている。静止し続ける時間の連続を飽きさせないようにするのは容易ではなく、演者自身の舞台へのエネルギーのかけ方は通常以上のものであるだろうと想像する。

ここでの謡は、声の音量や高低、息の使い方など技術的なことに重きがあることは言うまでもないが、そこだけに留まっていては作品や役柄としての訴えかけが十分なものにはならないであろう。そういう意味でこの曲は何を言いたいのか、主題が何であるかが熟考されたに違いない。

・隠された、繊細な声色の妙

舞台には、引き回しをかけた蓬莱宮と見立てる作り物が大小前に据えられ、シテはその作り物の床几(鬘桶)に座って出を待っている。ワキ(方士)の名乗り、楊貴妃の魂魄を訪ねる道行があり、ようやく蓬莱宮のある常世の国に着いたと説明する。アイに太真殿の場所を教わると脇座に着陸、ここまですでに30分を超える時間がかかっていた。

シテが作り物の中から、

「昔は驪山の春の園に共に眺めし花の色…」

と謡い出す。

楊貴妃  「鬢の髪は、棚引 くよう、」
方    士  「顔は花のよう、」
楊貴妃/方士 「憂いを含める寂しげな眼には、涙を鵜かげていらっしゃる。」

気品を感じる謡の声は、実に繊細で客席にようやく届く程度、詞章がよく聞き取れないほどの厳かな始まりだ。引き回しの中で気高さを持って謡を奏でるためには、大声で朗々と謡うわけにもいかずその苦心が伝わるようであった。

しかしそこに、敦煌あたりの一面砂ばかりの広大な土地に、風がひゅうと吹き抜けるような壮大な世界観を感じながらシテが臨んでいるのではないか、そんなことを想像しながら謡を聴いていると、歴史の奥底に眠る未知の世界の蓬莱宮のイメージやそこに佇む楊貴妃の面影が幻想的にも思えてくるから不思議である。

動きがないからこそ、楊貴妃の心情を汲み取ろうと耳を澄ます。目を閉じてシテが解き放とうとしている心の動きを感じようとする。鑑賞者の感性の鋭さが求められる場面だとしみじみ感じた。

・ 秘事の豊かな表現 ーささめごとー

ワキの方士は蓬莱宮に行き楊貴妃と会って来た証となるものを所望する。シテは美しい玉の釵(かんざし)を手渡すが、方士はこの釵ならばどこにでもある品物、これでは帝が信用なさらないでしょう、あなたと帝が人知れず話し合ったお言葉を聞かせて下さい、そうすれば帝も納得なさるでしょうと話す。

「思い出せば、七月七日の夜、牽牛 ・織女の二星に寄せて、」    
「天に在らば願わくは、比翼の鳥とならん、地に在らば願わくは連理の枝とならんと誓いしことを、密かに伝えよや、ささめごとなれども今漏れ初むる涙かな」

秘事のシーンの声色には、二人だけにしかわからない心のこもった甘味な空気感が漂っていた。


・流れのある シオリ(泣く動作)

動きがないのに、泣くシーン(シオリ)が頻繁に出てくるのもこの能の特徴である。能のワークショップなどでシオリの型を見様見真似でやってみたことがあるが、素人の形だけをなぞればいいと考えるようなものとプロの能楽師のそれはレベルが違う。

能の演技としてのシオルには、心の作業が必要だと言われる。先ず演者自身の身体の中に心悲しさ、ブルーな気持ちになる動きが起こる。すると自然と体が前に倒れ始め、面(おもて)の受けを曇らせ悲しい表情となり、涙腺が緩んで涙がこぼれ、思わずその涙をそっとぬぐうという一連の動作になる。これを形だけ真似た所作では観客に感情移入して頂けるような本当の強い表現とはならない、という。

シオリがおそらく7回あまりあっただろうか。その度ごとにもの悲しさの度合いを変えているかのように、坂口師の所作に強弱があった。その点だけに注目して鑑賞することも興味を満たす鑑賞法ではないかと思えて楽しくなった。

・喪失感を表現する   人間的厚み

室町後期の代表的な能伝書「八帖花伝書」(作者不明)には演目:楊貴妃について興味ある言葉が載っている。

「太夫三十のうち苦しからず。年よりたるシテはこれを斟酌(しんしゃく)すべし。その子細は年よりぬれば、つまはづれ、身入、身なり、姿かかりまで、若きときに違い、いやしき物なり…」

若々しい肉体の持ち主でなければ楊貴妃の能は見られたものではない、という趣旨が書かれている。華であった頃を思い起こして霓裳羽衣の曲を舞う楊貴妃、若く美しい女性像を描くという意味ではその通りなのだろう。しかし、室町時代はいざ知らず、役者の人間的な厚みを重要視する現代の能に照らし合わせてみると若く美しければいいという演能条件には少し違和感を覚える。

『楊貴妃』を演じるとは、その美しさもさることながら、喪失感の深さ、会者定離(えしゃじょうり)の無常観を、演者がどれだけ魂を注ぎ謡い、演じ、舞い、鑑賞者の心を動かすということができるかということではないだろうか。現代能楽界にあって最も気力が充実し力強さの中に繊細さを表現できる坂口師は楊貴妃を演ずるに相応しい。さらに坂口師ならではの演能が、とりわけ舞の場面で遺憾無く発揮されていたように思う。

圧巻の舞の様子をお届けする前に、装束や容姿作り、作り物などの工夫についてご紹介する。

                                      ©️駒井壮介


・奇跡の装束

演者のパワー以外にも装束や面、作り物にもこだわりを持つことを求めたのだろう。楊貴妃の装束は、まさに絶世の美女のイメージを超える見事さだった。息を呑む眩しさを伴う美しさ、それをじっくり凝視できてシテの動きのないことがむしろ好都合に思えるほどだった。

「八帖花伝書」(前出)には、「楊貴妃」の装束について
「女御・更衣・其の他公家・上臈の御風情信りたる能、いかにも気高く美しく華やかに、いろがさねに念をいれ、出立べし。まづ、上着ハ唐織を本とせり。<中略>楊貴妃、取分唐織本なり…」とある。

たまたま坂口師と公演直前にお話しする機会があった。その際に、楊貴妃の装束は簡単には伝書通りには揃えられないこと、今回のために観世宗家より装束を、梅宮六郎家より面を拝借し、かなり気品の高い装束が実現できたことなどの裏話をお聞かせ頂いた。舞台で私たちがこれほどの装束を目の当たりにできるのも、坂口師の舞台への熱い情熱と他家との深い信頼関係、日頃の交流があってこその賜物なのだと改めて実感した。

楊貴妃はふっくらと豊満な肉体だったと伝えられ、そのイメージは上村松園の描いた楊貴妃を思い浮かべる方も多いことだろう。それに比べると今回の楊貴妃は、凛とした知的なスッキリした雰囲気さえも醸し出していた。それは、気品ある豪奢な装束とともに、艶のある増女を思わせる「白露」という面の表情によるところが大きかったと感じた。

・楊貴妃の姿をあらわにしない ー作り物の工夫ー

楊貴妃はあの世である東海上の仙境・蓬莱島にある「宮」に身を隠すように居るわけだが、四本柱(竹)に白帽子(しろぼうじ=さらし布)を巻いた作り物が舞台上に置かれ、あたかも姿をあらわにしない雰囲気を表現しているかのようである。
作り物は演目にとってシンボリックな要素を表す大切な装置となるが、例えば家屋のイメージを表す場合には、4本の竹で枠を作り屋根を載せて表すという具合である。まさにこれ以上ないほどの簡素な形状で、観客の想像を掻き立てる仕掛けだと言える。

本作品は動きの少なさに加えて、一度も橋掛かりで演ずるシーンもなく、全ては作り物の「宮」の周りで舞が演じられる。それだけに、シンプルさにこだわった舞台装置の工夫が、楊貴妃の気配を消しながらも心象を放出させ、装束を際立たせる効果を見事に演出しているように映った。


                                      ©️駒井壮介


◇宙を舞う ー “霓裳羽衣”の舞 ー

帰ろうとする方士を引き留め、楊貴妃は昔の宴の様子を見せようと言い、“霓裳羽衣”を舞う。「霓」は、虹、「霓裳」は、虹のように美しい衣装のこと。シテは舞うための身支度を整え、簪(かんざし)を頭上に挿す。

まさに能「楊貴妃」の最後の見どころである。

楊貴妃 「何事も、全ては夢幻の戯れごとであったよ。
地謡   「それは、淡い胡蝶の舞のよう」

囃子に乗って演じる、短い舞の所作が始まる。


・空を舞う 優美さと気品 ー序の舞ー

笛・小鼓・大鼓・太鼓の演奏による、非常にゆっくりとした「羽衣の曲」の舞。

楊貴妃「稀に羽衣の曲を舞い、」                   地謡 「振る袖にも、私の心が明らかになる、私の心が明らかになる。」

楊貴妃「恋しい昔の物語を、」                    地謡 「恋しい昔の物語を、語り尽くそうとすれば、長い年月がかかるだろう。形見の釵を 賜り、それではお暇申し上げます」

楊貴妃「それにしても、それにしても、」               地謡 「わが君には、この世で二度とお目にかかることはないだろうよ。浮世ながらも、昔が恋しい。ああ、淡い別れだったよ、と楊貴妃は、常世の国の宮殿に嘆き崩れて、留まったのであった」

能の舞事の一つである「序之舞」、三番目物の優美な女性をシテが舞う際の、非常に静かな品位のある舞である。冒頭に序という部分があったのちに、絶世の美女を思わせる典麗な足拍子を踏んでから舞が始まる。

*三番目物:正式な五番立ての演能の際に、三番目に上演される曲。女性をシテとし、優美な舞を見せるので、鬘物(かずらもの)ともいう。


極めてゆるいテンポの流れの中で、坂口師の踏む足拍子はまるでストップモーションを見ているかのように優美である。一つ一つ足を上げ舞台板を踏むまでの時間は少なくとも10秒以上あるのではないかと思われるほど。足運びが空中で一瞬止まる。空(くう)にある足先は、まるで楊貴妃の心模様を放つように豊かな表情を見せる。

この妙技は誰もができるものではない。もちろん坂口師の鍛錬によって作り上げられた体幹の見事さから生まれる所作であることには違いないが、それ以上に1秒でも長く楊貴妃の心の深淵を感じてほしいという師のこだわりと固い意思の現れであることが見て取れた。ゆったりとした舞は雅な上品さを湛え、心を捉えて離さない。楊貴妃の深い悲しみが揺蕩(たゆとう)ようで、この世のものとは思えない美しさを放っていた。


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鑑賞のあとで

「変化が少ない舞台」と覚悟しての鑑賞だった本作品。静謐な時間が最初から最後まで続いた能舞台にもかかわらず、驚くことに筆者自身にとっては未知の仙境・蓬莱島のイメージを浮かべてその世界に浮遊し、楊貴妃の心に共鳴する至福の時間となった。坂口貴信師の謡の細やかな声音の変化表情のある優雅な足運びに終始酔わせて頂いた所以だと思う。おそらく作者禅竹が求めた楊貴妃の心の奥底に沈む「哀傷」に触れることによって、会者定離の無常観を体感できたからに違いない。

「あのような目の眩むような装束を初めて」「美しい所作でしたねえ」「舞の足の動きに魅了されました」と口々に感想を交歓しながら会場を後にするお客様が多かった。

そんな中、鑑賞をご一緒した老舗名陶「東哉」の女将は、脇正面の隣席に体を沈めながら次のように仰った。

「私どもの店には、歌舞伎女形の坂東玉三郎さんがご贔屓くださっていることもあって、玉三郎さんが師と仰いだ武原はん(地唄舞)さんの舞台を何度か拝見しています。はんさんの“内をあらわす舞”が、それはそれは美しかった。今日初めて坂口師の所作を拝見していて、足の運びがよく似ていらっしゃる、素晴らしいですね。本物は同じなのだと感動致しました」

ー能は観客の想像力、見識や美意識があって初めて完成するー  

古より言い伝えられてきた能舞台の真髄を目の当たりにしたときとなった。

                              

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【観世流シテ方 坂口貴信師 公演予告】

人間が生きることの悲哀を描くー能「善知鳥」(うとう)

ー能の表現力の極みを体験できる 第10回 「坂口貴信之會」ー

能「善知鳥(うとう)」は初夏の越中の国(富山県)・立山と陸奥の国(青森県)・外の浜を舞台とする物語です。この能は『今昔物語集』にも所収される「立山地獄説話」と、『新撰歌枕名寄(しんせんうたまくらなよせ)』に見える「善知鳥説話(うとうせつわ)」とをあわせて創作されたといわれています。(作者不明)

【見どころ】生きることにまつわる哀しさを、陰影深く描き出した、凄惨な物語です。善知鳥とは、鳥の名前。親鳥が「うとう」と鳴き、子鳥が「やすかた」と鳴くように聞こえるといわれることが謂れです。主人公の猟師は、この性質を利用して、鳴きまねで善知鳥を捕獲する猟を行っていました。残酷な猟で夥しい殺生を行ったことが、深い罪であり、地獄へ堕ちることになります。しかし、そんな残酷な猟を生業としなければ、家族を養うこともできなかった猟師。生きるために、生き物の命を奪い去らねばならない人間の悲哀。研ぎ澄まされた動きと腹の据わった謡でそれをくっきりと描き出す、能の表現力の凄みを感じる名作です。ラストシーンの魂が震えるような地獄の迫力が見どころです。

中世において猟師や漁師は殺生を生業とする者として、社会的な差別を受けていました。「善知鳥」はそのような概念に基づく人々の苦悩と古今を通じて変わらない家族への愛情を描き、現代の私たちにも強く訴えかけるものがあります。坂口能楽師の企画・演能が満載の舞台、表現力の極みを体験できる能の世界をご堪能ください。


第10回『坂口貴信之會』公演内容

と き:令和4年9月17日(土) 13時30分開演(12時50分開場)
ところ:観世能楽堂(GINZA SIX 地下3階)

【番組】
お 話   林 望(作家・国文学者)
仕 舞  「箙」   観世 三郎太                       
     「菊慈童」 坂口 信男
狂 言  「貰聟」   野村 萬斎 他
仕 舞  「遊行柳」 観世 清和
能    「善知鳥」 坂口 貴信  他

【チケット発売開始】6月21日(火)10:00
チケットご予約は、観世ネットまで↓


3 編集後記(editor profile)

月に2回参加している哲学者・森信三先生の「修身教授録」の輪読会のおかげで、「二宮尊徳翁」の著書に触れることが多くなった。中でも、尊徳翁の編んだ「道歌選」は、自身の宇宙観、人生観に溢れていて歌に接するたびに感動し、今や筆者の愛読書になっている。

「めしと汁(しる)木綿着物は身をたすく
            その余(よ)は我をせむるのみなり」
                  
二宮尊徳道歌選 [75] 分度の歌    

この歌の真意は、一般民衆に対して勤倹を説いても、民衆に要求した勤倹の納税で晴着を着ていては、民衆の反抗を買うだけである。そのことを肝に銘じよと栃木県大田原藩の伊藤金右衛門に仕法(物事の取り組み方・仕事)        の心得を書き送った際の歌である。人の上に立つ者が虚飾を去り得ないようでは、その任に相応しくないと全ての仕法する者に推譲したという。終始、尊徳翁自身も健康上最も適当な木綿着物、食は一汁または一汁一菜程度で過ごしたという原典である。

常におごりを調整し続けよという戒め以上に、仕法実践者が率先して範例を示した生活こそ、仕法完成への重要な態度であることを述べたものである。彼が説いた「分度」と「推譲」の考え方で、それぞれが「分」に応じた生活を守り、余剰分を拡大再生産に充てることの重要性が強調されている。
世界の真珠王・御木本幸吉翁がこの考え方を信奉し、地位を上げるほどに厳しく自分を律した姿が浮かび上がるようだ。慎みのある生活の尊さを現代人の私たちこそ再考したいものである。

本日も最後までお読みくださりありがとうございます。

          責任編集:【銀座花伝】プロジェクト 岩田理栄子

〈editorprofile〉                           岩田理栄子: 【銀座花伝】プロジェクト・プロデューサー         銀座お散歩マイスター / マーケターコーチ
        東京銀座TRA3株式会社 代表取締役
        著書:「銀座が先生」芸術新聞社刊


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