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あゆの自伝的小説『M 愛すべき人がいて』を読んで

8月12日(月)

午前中だけ仕事をしたら、明日から四連休だ。退勤して最寄り駅の本屋に向かう。昨日の出張中に読んだ宮本輝『流転の海』が骨太でおもしろかったので続編二冊を手に取る。そして、買うかどうか迷っていた小松成美『M 愛すべき人がいて』を購入。

『M 愛すべき人がいて』は、昨年デビュー二十周年を迎えた浜崎あゆみが歌姫としてデビューしてトップアーティストに成長するまでを書いた自伝的作品だ。ストーリーの主軸にあるのは、プロデューサー・松浦勝人との出会いと熱愛であり、ファンの間では公然の秘密であったらしい「禁断の恋」が赤裸々に語られているということでネット上でも話題になっていた。早速本屋併設のカフェに入って、冷房が効き過ぎる店内で身を縮めながら一気に読んだ。

冒頭では「事実に基づいたフィクションである。」と断り書きが入り、浜崎あゆみによる後書きでは「読み終えてくださった皆さんは今、一体どの部分がリアルでどの部分をファンタジーだと感じているんだろう。もちろん答え合わせなどするつもりは無いし、真実は当人達だけが解っていれば良い事だと思っている。」と語られる。

このように、書かれた内容がすべて事実ではないことを強調しながらも、「あゆ」こと浜崎あゆみの一人称で書かれ、彼女が作詞した歌詞が様々な場面で全文掲載され、実在する人名や歌番組名も登場するなどリアリティが感じられる作りになっている。

集団になじむことができず学校に反発し、家計を助けるためにモデルや女優の仕事をしながらもこれと言った目標のなかった少女・あゆが、六本木のディスコ・ヴェルファーレのVIPルームで、十五歳年上のエイベックス創業者・松浦勝人氏と出会う。彼の前でカラオケを歌って気に入られ、歌やダンスの過酷なレッスンを経て、会社の総力を結集してプロモーションを行い、満を持してデビューすると瞬く間にスターダムにのし上がっていく。ありがちなシンデレラ・ストーリーといえばそうだ。二人は同じ夢を目指す同志として、そして恋人同士として深く結ばれるが、あゆの成功に比例して松浦氏が酒に溺れすれ違いが生じていく、という流れまで含めて、レディー・ガガ主演で話題になった映画「アリー/スター誕生」のようだ。

「その人に抱きすくめられた私は、目に見えない永遠の時間や愛という名の力、そして出会いの奇跡を信じることができた」

「もしここにこうして二人でいることが世間に知れたら。それがどんなに純粋な想いであっても、汚れなんてどこにもありません、本当です、と神様に誓えても、許されるはずがなかった」

とあるように、あゆは、松浦氏と自分の関係が純愛だと信じる。愛する彼のために歌い、彼の夢を叶えるためにスターになることを誓う。

しかし、その恋の内実はどうだったか。

松浦氏は、初めてVIPルームであゆと会ったときに、当時所属していた事務所からもうすぐミニアルバムを出すと言ったあゆに対して「売れないよ、そんなの」と全否定を浴びせる。そして、次に会ったときには、「お前……可愛いね」といきなり口説いて番号を聞き出す。完全に自分の権力を振りかざすモラハラ&セクハラおやじである。

その後も唐突に電話がかかってきて二言三言で切れたり、呼び出されて出かけていくと十五分ほど会話してすぐに「今日はもう帰れ」とタクシーで帰宅させられたり。歌手としてエイベックスと契約することを迫り、不安に揺れるあゆに対しては「俺を信じろ」の一点張り。そして、あゆの思いを確認することも自分の思いを伝えることもなく、いきなりあゆと母親が住む中野のマンションにフェラーリで乗り付け、「あゆみさんと付き合っています。真剣です」とあゆの母親に宣言したかと思えば、あゆを連れて自分の実家に向かうのだ。人攫いか。

友人の秋山悠紀氏がこの作品について、「ホストクラブの経営オーナー兼現役ホストにハマったキャバ嬢の物語」と言っていたが、言い得て妙だと思った。あゆの方はそれが純愛であると信じていたのだろうが、松浦氏はプロデューサー目線であゆを商品として眺め、彼女の自分に対する恋心さえも商業的成功のために利用していただけのように思える。松浦氏がエイベックスの社員に啖呵を切って言ったという、

「お前たちのボーナス、ぜんぶ浜崎が稼ぎ出す。そんな日がすぐに来るんだよ。だから、文句は言わせない。仕事に恋愛を持ち込むなんてあり得ない。」
というせりふにその本心が現れているのではないか。彼は本当に「愛すべき人」だったのだろうか。

それでも、現実世界で彼らが成し遂げた偉業はただのビジネスとしての成功ではなかった。松浦氏との出会いや恋愛がなければ、歌姫としてのあゆや、彼女の多くの名曲が世に送り出されることがなかったのは間違いない。彼女の飾らずに自分自身をさらけ出すキャラクターや、素直な感情を情感たっぷりに歌いあげるその楽曲に、救われた人たちがどれほどたくさんいただろう。

この本は、ただ平成の歌姫・浜崎あゆみの栄光の軌跡を過去形で語る本ではない。彼との出会いと別れのおかげで今の私があります、とその半生を総括する本でもない。

なぜなら、紆余曲折を経ても彼女が志を持って歌い続けており、さらに二人の関係が現在に至るまで続いていることが明かされるからだ。「浜崎あゆみ」の物語は現在進行形で続いている。作中、冒頭ではデビュー二十周年を迎えようとするあゆが松浦氏と再会するシーンを描き、デビュー前後の数年を回想する本編を経て、末尾で再び現在に時間軸が移る。そこで二人がまた共に歩き出す様子が描かれる。

「十六年の時を経て再びマサは私に寄り添ってくれた」

「私たちは、私たちの間に横たわった巨大な空白の時間を、少しずつ埋めることができる」

「浜崎あゆみのいる場所は大空にある。そう言ってくれたあなたへの感謝を胸に、私は歌い続ける」

現実の松浦氏は現在、エイベックスの会長で既婚者である。作中では、かつて二人三脚で歩いてきた二人の、今なお続く精神的な結びつきを描きたかったのかもしれないが、自分に影響を与えた男に、語り手であるあゆがまだ囚われているらしいことにそらおそろしさを感じてしまう。彼女は、デビューから二十年経って、数々の困難を乗り越えて歌手として着実にキャリアを積み上げても、変わらずに、同じ人を必要とし続けている。しかしそれは形を変えても続いていく「純愛」とか「同志の絆」と呼んでいいような美しいものなのだろうか。「依存」や「束縛」ではないのだろうか。

それにしても、この本に「暴露本」という分類はふさわしくないように思った。何かを暴きたてたり誰かを貶めたりする意図で書かれた本ではない。この本の語り手は、彼女自身の人生に起きたことと、その時々の自分の感情しか明らかにしていない。だからこそ、その危うさに勝手に不安を覚えてしまうのかもしれない。

作中、序章では松浦氏が「もう一度俺がやる」「ここから二十年先までのロードマップを、俺たちは描くんだよ」と語り(突然現れて何言ってるんだ?)、あゆは、「あゆね……今だから歌える歌を、届けていきたい。いろんな経験をしてきた今だからこそ、歌える歌があると思っているから」と語る(これはまあ、わかる。いろいろあったよね)。それはまるで、引退した同世代アーティストとの比較なんてはねのけて、デビュー二十周年を迎えた浜崎あゆみの第二章がここから始まると、高らかに宣言しているかのようだ。プロモーションになると考えたからこそ、エイベックスも浜崎あゆみ本人もこの企画を進めゴーサインを出したのであろう。

この本の語り手がそうであったようにように、現実の浜崎あゆみも、誰を糾弾するでもなく、自分を弁護するでもなく、ただその切実な思いをさらけ出しながらこれからも進んでいくはずだ。かつては特に熱心なファンではなかったのに、私は今、そんな彼女から目が離せなくなりそうな気がしている。

家に帰ってから、作中に出てくるあゆの曲を聴いた。それらは決して懐メロなんかではなかった。

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