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こんにちは。
株式会社ロジック・ブレイン コンサルティングパートナー園池涼一です。

弊社の性格診断システムであるロジック・ブレインを利用して、歴代の首相の能力を分析していくという試みです。

今回は初代内閣総理大臣・伊藤博文氏の能力と人物像を見ていきます。

伊藤博文の経歴

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伊藤博文氏の総合分析レポート

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全部黄色です。伊藤博文氏は松下村塾の出身で吉田松陰氏の門下生でありました。
17歳の伊藤氏を見て松蔭氏は「なかなかの周旋家(人の間に立って世話を焼く人)になりそうだと」評し、その実直な性格を愛したということです。

理性中の理性タイプです。幕末から明治維新にかけて活躍した人には理性タイプが多いのが特徴です。

伊藤氏もその1人です。話が長く、1〜10まで丁寧に話をする。
ティシュシュを配られるといらないと思っていてもお願いしますと懇願されると受け取ってしまうタイプで、情に絆される営業に非常に弱いという傾向が見られます。

伊藤博文氏とは・失敗に挫けない人 

攘夷派の志士を経て初代総理大臣へ
先に書いたように、吉田松陰の松下村塾の門下生であり、高杉晋作氏らとの英国公使館焼討ちを実行するという攘夷派でした。

英国へ留学し、西欧文明に触れることで開国派へ転身します。維新の十傑の1人木戸孝允に従い、維新の十傑の薩摩藩の大久保利通氏と公家の岩倉具視氏らと協力しながら政権の中枢へと進んでいきます。

攘夷派とは日本においては幕末期に広まった、外国との通商反対や外国を撃退して鎖国を通そうとしたりする排外思想である[1]。元は中国の春秋時代の言葉で、西欧諸外国の日本進出に伴い、夷人(いじん)を夷狄 (いてき) 視し攘(はら)おう、つまり実力行使で外国人を排撃しようという考え。
Wikipediaより

立憲政治の立役者
外国の文化に触れたことで、日本の近代化のためには憲法による政治が不可欠だと痛感し、西洋から次々と制度を導入しながら、日本の当時の現況に合わせた憲法の作成に取り組みます。ウィーン大学で学んだ歴史法学や行政を学び、帰国後、内閣制度の制定や大日本帝国憲法の起草と制定の中心となり、立憲政治導入の父と言っても過言ではありません。

韓国総統府・初代総監
憲法調査などによる外国への渡航、日清戦争前後における条約調印と改正、日露戦争後には日露の戦後処理に奔走するなどの経験により、高い外交力を有していました。初代韓国総監に就任はしましたが韓国併合には慎重派で、軍閥とは対立の立場をとっていました。一般には韓国植民地化の最大の推進者という見方もあり、評価はわかれます。

初代総理大臣としての業績

第1次伊藤内閣
1885年(明治18)12月22日に内閣総理大臣に就任します。
この内閣は藩閥内閣で薩長出身者が大臣を独占するという組閣で、
別に大きな2つの課題がありました。
・憲法草案
・諸外国との条約改正
という2つの改題です。

翌年5月に出された治外法権の改正案は、外国人犯罪には外国籍の判事を任用する内容だったため、政府の弱腰の姿勢が世論を沸かせる結果になります。
1887年(明治20)10月に条約改正・租税軽減・言論の自由を求める三大事件建白運動が自由民権派によって組織される反政府運動が起こります。

この情勢に対して伊藤氏は12月に「保安条例」を布告し反政府運動の弾圧に取り掛かります。
「治安を妨害する者は、皇居より3里(11.8Km)以内の土地からの退去を命じる」という内容で、この条例により中江兆民、尾崎行雄などを含めた570人が退去を命じられました。

翌年4月に伊藤氏は憲法草案を仕上げるために内閣総理大臣を辞任し、
枢密院(天皇の諮問機関)を設立し議長に就任し、後任には薩摩出身の黒田清隆を推薦し、最初の内閣は2年4ヶ月で幕を閉じました。

第2次伊藤内閣
1892年(明治25)8月、伊藤氏が内閣総理大臣に任命されます。
この時の伊藤内閣は「元勲内閣」と言われています。「元勲」とは、明治維新に功績のあった有力政治家のことです。

伊藤氏は民党(自由民権派の政党)から猛攻撃を受けて退陣した松方総理の後を受けての組閣であったことから、「明治政府末路の一戦」と位置付けていました、藩閥対民党の構図です。それに対抗するための「元勲内閣」を組閣したのでした。

この時の大仕事は日清戦争の遂行と戦後処理でした。
政府は国防上、朝鮮が日本に敵対的な強国の影響下に置かれることを恐れ独立を支援しました。
対して清国は宗主国の立場から朝鮮への影響力を維持しようとしますが、1894年(明治27)3月に朝鮮で勃発した東学党の乱(甲午農民戦争)を端に発し8月1日に朝鮮の独立を理由に、清国に宣戦布告をします。

清国は劣勢になると講和を模索し始めますが、日本は講和を有利に進めるために戦闘を続けます。
翌年の4月に李鴻章を代表とする清国の講和団と日本の伊藤氏と陸奥外相らは山口県下関で講和条約を調印、戦争が終結し巨額の賠償金と利権を確保することになりました。
これにより遼東半島や台湾が日本に割譲されましたが、ロシアが自国の南下政策の障害になるとして、フランスとドイツ巻き込んで日本に遼東半島の返還を迫り、遼東半島を断念。そのことが国内からは多くの非難の声が上がった。

第3次伊藤内閣
戦後の財政措置による増税が長引き、これ以上引き延ばせない状況の中で1898年(明治31)1月、伊藤氏は3度目の内閣総理大臣に就任します。

この状況を打破しようと当時の自由党、進歩党との連携を計るも失敗。増税法案は提携する政党もないまま議会に提出され、6月に賛成27対反対247という大差で否決。伊藤氏は衆議院解散で応じるが、これがきっかけで自由党と進歩党が合同して、憲政党が結成されます。

手持ちの札を出し切った伊藤氏は総辞職し、憲政党の大隈氏と板垣氏後継の内閣に任せて、野に下り自らの新党結成に向けて動き出します。

第4次伊藤内閣
大隈氏と板垣氏の組閣した内閣は日本初の政党内閣でした。しかし憲政党の分裂により、わずか4ヶ月あまりで瓦解。その後の第2次山懸内閣は解決していなかった地租増徴は、憲政党の要求で当初より税率をわずかに引き下げたことにより5年間の時限立法とする事でようやく成立します。

1990年(明治33)6月に中国で起こった義和団事件の対応の最中、9月に山懸総理が辞意を表明し、新政党の立憲政友会を立ち上げたばかりの伊藤氏が公認を押し付けられた形で、10月に4度目の内閣を組閣します。

蔵相のポストをめぐって一悶着があるなど始まりから前途多難でした。内閣は貴族院からの攻撃に晒され、伊藤氏が政党を率いて衆議院を政治の中心にしようとすることに対する貴族院の反発がありました。抵抗の中、天皇の助力により増税法案を通過させました。

なんとか切り抜けたものの、終了後に公債による事業の全面停止をめぐり閣内の不統一が生じ、伊藤氏最後の内閣は7ヶ月余りで幕を閉じる。この時伊藤氏は還暦を迎えていました。

朝鮮総督府・初代統監とその最後

1901年(明治34)第4次伊藤内閣退陣後、伊藤氏は朝鮮半島の支配に手を伸ばすロシアに対し、宥和政策をとるために韓国を日本の勢力下におくことをロシアに認めてもらう代わりに、満洲の権益を認めるという交渉をしようとしたのですが、同時に行われていた日英同盟交渉がロシアに知れてしまい交渉は停止となり、帰国します。

そして日本が先制攻撃をロシアに仕掛け日露戦争へ突入し、その裏で伊藤氏は腹心の金子堅太郎氏をアメリカに派遣し日本への支持を取り付け、特使として韓国に赴き、皇帝高宗に日本への協力を約束させます。
日本はアメリカを介して戦争を終結させ、ポーツマスで日露講和条約が結ばれ、ロシアは韓国での日本の権益を認め、干渉しないと約束します。

伊藤氏は、再び特使として韓国に日韓協約調印を迫ります、高宗氏は難色を示しますが、「日韓は互いに独立を維持するのであって、列強に植民地化されたアフリカのようになるわけではない」通し切り11月に協約を締結します。

1905年12月21日、伊藤氏は天皇より初代の統監に任命されます。
すでに韓国では抗日武力蜂起が起こっており、1907年(明治40)6月に高宗がオランダのハーグで開かれた万国平和会議に日本の不法行為を訴える密使を送ったことがきっかけで、高宗氏を翌月退位させ、軍隊も解散させます。これにより韓国は日本の保護国となりました。

1909年10月26日の朝、伊藤氏は満洲視察のため黒竜江省のハルビン駅で午前9時30分、ロシア守備兵を閲兵し始めた時に飛び出してきた抗日活動家の安重根氏に3発の銃弾を撃ち込まれ、その30分後死亡します。

伊藤氏の能力とビジネススタイル

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ロジックにおける伊藤氏の能力は第一能力が分析力と第二能力が応用力であります。合わせてビジネススタイルは改革的スタイルで応用力は強いです。また本質がW-なので吸収力も持ち合わせています。ここでは第一能力と第二能力に焦点を当てていきます。

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分析力
分析力はある現象について判断を下し、いろいろな観点からいくつかの要素に分解して考える力です。
組織管理力と実務力も兼ね備えています。

分析力は自己管理と分析が伴い、計画性にも優れています。少し先を読むことができる能力でもあります。起こりうるあらゆる場面を想定しながら緻密な計画の立案が可能です。

今までの伊藤氏の4回の組閣、憲法草案のために諸外国に行き色々なものに触れこれからの日本のあるべき姿を想像し、世界と対等に渡り合うためには近代化は必要不可だと確信し開国派に転身したり(パイオニアという個性も影響しています)、
憲法を作り上げ、内閣制度を制定し、日韓協約を調印させる行為もこの実務力があったこそだと考えられます。

韓国併合に関しても慎重な姿勢をとっていたのは植民地ではなく独立するための手段であれば良いと考えていましたが、軍閥はそうではありませんでした。
個人的には伊藤氏とっていた立ち位置、個性とスタイルと能力を診ていくと一般に植民地化の推進者と考えられているのとは違う人柄が見えてきます。

また人材起用は実力本位でした。明治政府は薩長中心の藩閥政治であり、官僚ポストは藩閥に左右されるところが大きかったのです。

伊藤氏が憲法草案のために起用した官僚たちは長州閥とは関係なく、
その過程では自分を上司ではなく同志と見るように促し意見を述べてもらったり、

肥前の大隈重信氏や紀州の陸奥宗光氏を外務大臣に起用し、条約改正にあたらせるといったところは、組織管理力が活かされています。

さらに組織管理力と実務力で診ますと、伊藤四天王という4人の政策や実務面でサポートした人たちがいました。
末松謙澄氏、伊東巳代治氏、金子堅太郎氏、井上毅氏です。

末松氏は工部省に採用され、のちに伊藤氏の次女生子氏と結婚、伊東氏と金子氏は総理秘書官を務め、井上氏は政策ブレーンとして活躍しました。

この分析力(組織管理力・実務力)が活かされていたからと個性であるパイオニアタイプの気質がリーダーとして人をまとめるのが得意であるというマネージメントの力が働いて、
4度の内閣総理大臣として活躍したことはとても納得できることです。

応用力
応用力は今までにないものを考え出し、実現に向けて計画を立てるけれども、状況に応じて変化させていく力です。
創造力と企画力も兼ね備えています。

柔軟な発想ができるタイプで企画力に優れていて、モノやアイデアを考えだす想像力が逞しい能力です。
この能力はクリエイティブでもあるので大きく働いたのは憲法草案作成に大いに役立ったこと、立憲政治の立役者というのはピタリと当てはまります。

また人と人をつなぐ能力が応用力の真骨頂とも言えます。吉田松陰氏が見込んだように物怖じしない周旋の名手です。
外国人ともすぐに打ち解ける人懐っこさ、木戸孝允氏が台湾問題から野に下った際は、木戸氏・大久保利通氏・板垣退助氏の連携を周旋し木戸氏を政府に復帰させています。
立憲政友会を結成した際も伊藤系の官僚と憲政党メンバーとの合流をスムーズに成し遂げるのは応用力の賜物です。

スタイル
また清廉潔白が信条の人物でした。当時は政府の高官の多くが賄賂により私服をこやしていましたが、伊藤氏は金銭には極めて淡泊で、贈らず受け取らず、邸宅も豪華ではありませんでした。

政治的に対立した者ですら称賛を惜しまない。
陸軍中将の三浦梧楼氏は「いかに伊藤を攻撃する者でも、金銭に関して彼に非難を加えた者話1人もいない」と語ったほどです。

改革的スタイルの特徴で枠にはまった生き方は不得意で地位や名誉、財などにはそれほど興味を示しません。

参考文献 池上彰と学ぶの日本の総理 第14号 伊藤博文 小学館ウィークリー

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