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「病院で《聴く》ということ」/詩と朗読 poetry night 第75夜

 過去に書いたものを整理していて見つけたこのエッセイ。30代前半で書いたものだが、なぜ朗読を始めたのか、そのときどんな状況だったのかが簡潔にわかる。
 このときの思いが今に続き、朗読配信をし、朗読会や朗読劇などをしているんだよと、あのときの私に教えてあげたい。びっくりするだろうな。

「病院で《聴く》ということ」(1998年/H10)

膠原病(全身性エリテマトーデス)になって十三年、ついに腎臓がイカれて入院した。治療に専念して二ヶ月、経過は良好のように見えた。ところが、 免疫機能が低下していたため、思いもかけず結核が発症してしまった。
 すぐさま個室に隔離。膠原病と並行して、結核の治療も行われることになった。毎日服用する薬の量、およそ32錠。発熱したら朝晩の点滴。薬漬けとは、まさにこういうことをいうのだろう。
 入院生活は食べることが大きな楽しみとなるのだが、腎臓を悪くした私に出されたのは、減塩・減タンパク質の、何とも哀しい食事だった。面会謝絶なので、他の入院患者としゃべって、気晴らしをすることもできない。残る楽しみは読書である。ところが、あれほど好きだった本が読めなくなってしまった。強い薬のせいか、頭の働きが鈍くなり、文字を追っても、意味がちっとも頭に入って来ないのである。苦労して読み進んでも、前のページの内容を、もう忘れている。また、手がブルブル震えてページをうまくめくれないのだ。これは本当にこたえた。
 そんな私に、ただ一人、面会を許されていた夫が、図書館から朗読カセットテープを借りて来てくれた。片っ端から聴いた。
 宮澤賢治『銀河鉄道の夜』で賢治と共に夜空を旅し、岡本綺堂『半七捕物帳』にドキドキし、山本周五郎『ひとごろし』に笑い、杉本苑子『孤愁の岸』に泣いた。伊藤左千夫『野菊の墓』は、何度聴いてもすぐに眠くなり、結局、民子が大人にならないまま、返却してしまった。
 大量投薬で精神が不安定になり、おまけに医療関係者と夫の他は、だれとも会えない隔離生活。ともすると、不安のあまりパニックに陥りそうになる私を救ったのは、毎日通って来てくれた夫と、この朗読テープだったように思う。
 落ち着いた語り手の声と、物語からうかがえる様々な人生の深さ。私のこの生も、その中の一つなのだと、きっと何とか生きて行けると、何度も自分に言い聞かせた。
 現在、私は退院し、自宅療養をしているが、あの長くて独りぼっちの病室の夜を思い出すと、たまらない気持ちになる。そして今も病室で孤独に陥っているであろう、たくさんの患者たちの寂しさを思う。
 そこで私は、通信教育で朗読の勉強を始めた。病気のお陰で幸か不幸か、自分の時間はたっぷりある。《耳で聴く読書》。将来、私のこの朗読が、人の心に届くといい。病に揺れる私の心を癒したように。

(雑誌『ダ・ヴィンチ』 "病院で読むということ”に掲載) (1998/H10・8月)


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