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柄谷行人 トランスクリティーク 感想やらメモやら

哲学史や哲学入門書とは打って変わって、本格的な哲学書の何たるかはその難解さに現れやすい。哲学をするとは、これまで認識されていなかった概念を想像することであるから、もっぱら抽象的な行いである。私たちの日常生活の舞台においてほとんど現れないことや、現れたと認識されていないことを語るこの行いは、意識して考えていない状態の人間にとって、ことさらに距離の遠い行為である。さらに言うなら考えているはずの人間にとっても遠いことである。私たちはなんだって自分にひきつけつけて、自分との連関の中で理解をしていく動物であるので、距離の遠いことは理解の困難さに直結する。

私はこの本を少しも理解ができなかった。恥ずかしい限りであるのだが、この本を読んでいるというのは、紙に黒く印字された日本語の文章を目で二、三時間眺めるといったことで終わってしまった。確かに日本語で書かれたこの文章を読んでも、意味をくみ取り咀嚼し私のものにすることはできなかったわけである。

しかしながらすべての文章を理解できなかったわけではない。時折含蓄の深さを感じられることがあった。ここではかろうじて私が意味をくみとれたと思い込んだ文章やキーワードを引用してその個人的感想を述べていこう。それにしても意味のくみ取れる箇所より、くみ取れない箇所の途方に多いことはなんと不甲斐ないことだろうか。いったいどれほどの研鑽と訓練を積めば、意味をくみ取れるようになるのであろうか。

ちなみに目を通したのは第三章トランスクリティーク単独性と社会性までである。怠惰である。私にはこんな重い料理は食べきれない。咀嚼できない。

カントやマルクスは、強固な不動の原理体系を築いたように見える。しかし、注意深く読んでみるならば、彼らが絶え間ない移動を繰り返していることがわかる。マルクスの場合には、それはもともと明らかだった。ドイツイデオロギーの時期、彼は自身がその中にいたヘーゲル左派を外から批判した。その時彼は経験論的な方法を重視し、合理論を嘲笑している。しかし経験論が支配するイギリスにおいて、彼はヘーゲルの弟子であると公言するにいたる。そのどちらが真のマルクスだというのではない。また、それらを超えた新たな立場を築いたのでもない。重要なのはマルクスがためらわなかったこの移動と批評性である。 

カント関しても同じことが言える。彼は空間的には全く移動しなかったが、移動への誘いを拒否したことにおいて、そしてコスモポリタンであり続けたことにおいて、一種の亡命者であった。一般にカントは、合理論と経験論の”間”にあって、超越論的な批判をした人だとされている。しかし視霊者の夢のような奇妙に自虐的なエッセイを見ると、カントが単に”間”で考えたなどとは言えない。彼もまた、独断的な合理論に対して経験論で立ち向かい、独断的な経験論に対して合理論的に立ち向かうことを繰り返している。そのような移動においてカントの批判がある。超越論的な批判は何か安定した第三の立場ではない。それは横断的な、あるいはトランスポジショナルな移動なしにはあり得ない。そこで私はカントやマルクスの、トランセンデンタルかつトランスポジショナルな批判をトランスクリティークと呼ぶことにしたのである。

p20

一番最初のほうに出てくる文章。なるほど移動と批判、批評性か。第三の安定した立場など幻想だったわけか。

コスモポリタン
世界主義的 な、国際的 な、外国人への偏見がない、洗練された ギリシャ語で「全世界」を意味するkosmosと「市民」を意味するpolitesが語源。 cosmopolitanは「世界をよく知っている」「国際的な」という意味で、人や街、環境、職業などを形容する。

マルクスはエンゲルスに比べ史的唯物論の見解の確立に遅れた。宗教批判の問題に深くかかわっていたから。ドイツにとって宗教批判の問題は本質的にはもう終わっている。そして宗教の批判はあらゆる批判の前提である。マルクスは国家あるいは資本を宗教批判の変形として考えたことは、たんに、やがて放棄されるべきフォイエルバッハの自己疎外論の応用に過ぎないのではない。資本と国家という形をした宗教の批判を続けた。

資本主義は経済下部構造のようなものではない。人間の意志を超えて、人間を規制する、人々を互いに分離させ且つ結合するある力である。それは宗教的なものである。

商品は一見したところ分かり切った平凡なものに見える。だがこれを分析してみると、きわめて面倒なもの、形而上学的な小理屈や神学的な偏屈さでいっぱいのものであることがわかる。

しかし、マルクスにとって、社会性は単独性と切り離せないものだ。そもそもローティは共同体と社会の区別ができていない。すなわち同一の規則を持ったシステムにおける交換=コミュニケーションと、異なるシステムの間における交換=コミュニケーションの区別ができていない。単独性は、デカルトのコギトがそうであるように、「社会的な空間」と切り離せないのだ。それは単に私的あるいは内的なものではない。

p153

この下に記載されている文章は冒頭のカントとマルクスの移動と批評性、批判についての一文を見ないで書いたもの。今振り返ると適切でない感じがする。独断的というか文脈を無視しているというか。一人で読解しようとすることの危険性が出ている。
当初この社会と単独性に関する一文だけが印象に残っていた時の思索↓

日本語話者と日本語話者、日本語話者と英語話者が衝突した時、その際の交換=コミュニケーションは明らかに違うだろう。違うだろう…。違うだろうか。

柄谷は同一の規則を持ったシステムにおけるコミュニケーションと、異なるシステムの間におけるコミュニケーションを語る際、異なるシステム間のコミュニケーションを語るときにだけ”間”という概念を入れている。なるほど同じような価値観を持っている集団においては間はないといいたいわけだろうか。確かに一見したところ同一規則システムには間はない。だが極端な個人主義者である私の信条は人間は一人として同じでないのではと考える。しかるに同一の規則を持ったシステムにおけるコミュニケーションにも間は存在する。この間は共通する規則に焦点を当てている間は、存在の小ささから認識されえないけれども、いったん焦点が合えば私と他者の差異性として認識され問題となる。

私が言いたいのは同一の規則を持ったシステムにおけるコミュニケーション=交換にも、間はありそうだということである。同一間コミュニケーションも差異間コミュニケーションも、両者ははっきりとは違いのない行為ではないかと思ったのである。

だがしかしここで両者のコミュニケーションを同じことにすると、社会と共同体の区別がつかないことになってしまう。一応私の認識では社会と共同体は違うものである。

差異のグラデーションが共同体と社会を分けるのだろうか?グラデーションであればきわめて小さな差異を包摂した共同体を描けるだろうか。

同一の規則に鑑みると、価値観の違いは同一の規則を持たないことになるのだろうか。どう考えればいいのだろうか。

それにしても柄谷の交換=コミュニケーションの枠組みは素晴らしい。当たり前であるが、この商品と紙幣といった資本主義社会の基本的な仕組みは、どういった宗教にも負けず劣らず宗教的である。

言語の違いと共通性
日本語と英語 文字は違う明らかに違う
翻訳は可能=共通するものがある、あるいは見いだせる


疲れてしまったので終えます。さようなら。

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