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ゲンロン叢書の新記号論読んだけど残念ながら頭に入ってこなかった

まず、読む前に想像していた話の展開や、知の形とは違うために話が入ってこなかったことを正直に告白しておく。不勉強が災いして退屈でしょうがなかった。気分的にどんよりしていて、頭を働かせることに集中できていなかったことも原因の一つだが、やっぱりそれ相応の哲学的、思想的知識の前提を強いられる読書というのだろうか。読者にそれ相応の訓練が積まれていることを前提として、そして人文学への知的好奇心を人一倍燃やしていけることを想定して書かれている本である。きちんと意味をくみ取って自分のものにするにはそれなりの思考力と知識量が必要だと改めて感じさせられた読書体験であった。この本を読み解けるだけの力が、すでに私に備わっていたらどれだけ感動できただろうか。何となく、そういった含蓄深い本だということは伝わってきた。知識不足、思考力不足を嘆く。それでも面白いと思った箇所はあるから、おぼろげな記憶を絞り出す形で書き出していこう。

人文知は何らかの比喩の体系であるといったことを言っていたような気がする。他人に自分を投影するとか、そういった精神分析的な知の形が、射影機のような仕組みの機械の比喩として表現されるのはなんだか興味深い。

模倣を原理とすることでクリアに現実が語れることには、その概念があったかと一本取られた感じがした。ガブリエルタルドいつか読んだはずなのに、模倣という彼のアイデアの最も核心的なことを忘れていたのがショック。定期的に振り返らないと次々に記憶は消えていくばかりだ。

マルクス主義、共産主義は生産の哲学ではあったが、消費の哲学を欠いていた。そのことが、アメリカ型資本主義に敗北した要因である。といったことを言っていたか、言っていなかったか定かではないが、たぶん言っていた。言っていたとして話を進めるが、これは非常に示唆に富む、非常に重要な、着目すべき点ではなかろうか。なるほど人間に根差した、消費の哲学、消費者の思想が必要不可欠になるということか。確かに共産主義には生産の哲学、生産者の思想はあるが、それを消費する哲学に乏しい感じはする。不勉強だから見当たらないと感じているだけの可能性もまた十分にあるが。

消費社会を超えた、高度情報消費社会に地に足つけて生きるためには、何かしら消費哲学がないと、大洪水を起こしている商品の群れに飲まれて、消費の無限へと自分を投げ込んでしまうことになる。そんな適当な自分哲学だけ語って終える。夜も遅いし。有難う。また今度。

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