花筏

春が頭を置換して、すっかり狂ってきた。
夜の風はもう当たり前に湿度を孕み、今日は外に出たら虫の音が聞こえた。何の抵抗もできずに季節は巡り、また自分は取り残されてゆく。2024年の冬ではない、もっと以前に。

一年前の自分は、今とは違う景色を見て、今とは違う今を想像していた。北千住の夜の路地裏に、雨の上野。何の感慨に浸る暇もなく、一年という区切りを過ぎていった。かつてあれだけ鮮やかだった心象風景もすっかりモノクロになり、一年という時間の重さを再認識する。こんなに重い時間だったっけ。
ただ仕事に忙殺され、心に何かを思い描く力を失っている。仕事に埋もれているうちは良いが、落ち着いてふと周りを見渡した時、そこにはただ空虚しかないことに気づく。空虚に押し潰されようとした時、果たして何で埋めることで自分を守ろうとするのだろうか。モノで埋めることはできない。既に、少し前にそのカードは切ってしまった。では桜でも眺めて、狂ってゆく自分自身を肴に酒でも飲むのだろうか。

『花に嵐のたとえもあるぞ』と口ずさむ時、どうしても風に散らされる桜を思い浮かべてしまう。井伏鱒二が漢詩を訳したものなら、恐らく『花』はソメイヨシノのことではないのだろうけれど。学がない自分は、その花の名前を知らない。
先週末に気温が高くなったかと思うと、急に桜が花開いた。今まで気にも留めていなかった、ただの枝に、ぱっと淡い色が広がる。夜、風に揺られても雨に降られてもまだ花弁を散らさないその姿は、いつかの路地裏で蛍光灯に照らされていた夜桜を思い起こし、やはりそこだけ時間が止まっているように見える。記憶以上に感情も呼び起こされることが少し怖いのか、その異質な空間にだけは近づこうとは思えない。
花筏を見たことがある。大学時代、最寄駅の前を流れる川は、春になると一面が桜の花弁に覆われていることがあった。そう記憶している。存在しない記憶かも、今は分からないが。自分にとって、桜は花弁が舞い散るその時だけが「生きている」ように思えている。花も散らさない姿は時間が止まっている。では舞い落ちた花はというと、徐々に黄ばみ、誰にも見向きもされない姿がまるで「死体」のように思えていた。舞い落ちた花は「死体」であるなら、花筏はどうであろうか。なんとなく、破れた夢たちが流れている姿に見える。一面を覆う誰かのかつての夢達。流れ流れて、いつか海に辿り着くのだろうか。河口でその姿を見たことはないけれど。

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