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シリーズ 「アラブナショナリズムとエジプトとスエズ危機」第5回エジプトと冷戦

はじめに

政権を運営していくことになった革命評議会とナセルですが、王政時代の課題は山積したままです。この状況下を脱するためにナセルは冷戦構造を利用し、東西から利益を引き出す外交を展開していきます。しかし、その動きが英仏の逆鱗にふれる事になっていってしまいます。


 当初イギリスは冷戦構造の深まりにつれて、中東への防衛戦略を転換せざるおえなくなっていた。第二次世界大戦で決定的に「大英帝国」は衰退し、最早イギリスだけの力で現状を維持するのは不可能になっていた。その為中東地域における防衛機構を強く欲していた。
エジプトは当初イギリスとの関係が深かった影響もあり、西側との協調姿勢も取っていた。このことは、イギリスの再駐留を認めたことからもうかがえる。しかし、中東地域が冷戦構造に組み込まれていく中で、徐々にその態度は変化していく。西側諸国、特にイギリスが主導していた対ソ連の安全保障機構であるバクダット条約機構の形成に対して、ナセルは強く反応を見せる。トルコとイラクの相互防衛条約が結ばれるとナセルはこれを痛烈に批判する。ナセルから見れば対ソの名を借りた欧米によるプレゼンスの拡大は、「自由世界」を「共産主義」から守るという大義名分を付けた再植民地化を危惧させた。実際にナセルはアメリカ国務長官ダレスに対して次のように述べている。「英国によって“自由世界の通信・交通を守るため”に占領されてきた」ため、「“自由世界”は帝国主義と支配を意味するようになりました」(へイカル 1972)と述べている。
西側諸国にとって重要な安全保障上の脅威はソ連であるが、実際的に中東アラブ諸国にとって脅威は眼前のイスラエルであった。このことはソ連の脅威とそれに対応する安全保障機構の必要性を説くダレスに対してのナセルの答えが如実に表している。「率直に申し上げますが、ある朝、目が覚めてみたらソ連が我々の敵にであったなどという事は、私自身、考えられません。我々はソ連を知りません。彼らは我々から数千マイルも遠くに存在します。もし私が国民に向かって、我々には今や、数千マイルの彼方に、全く新しい敵が存在するので、我が領土を占領しているイギリスという敵の存在を忘れなければならない、などと言おうものなら、私は笑いものになってしまいます。私がイギリスを忘れてしまったら、誰も私を相手にしなくなります。」 エジプト、ヨルダンやシリアと言った直接的にソ連と国境を接していない国々にとっては、遥か果ての「アカ」の脅威よりも眼前の「六芒星」がはるかに実際的な問題だったのである。
一方でイラクは西側諸国との連携を深める独自路線を取った。ソ連と国境を接するトルコや距離の近いパキスタンと共に積極的に西側の企画する中東防衛機構構想に協力する。この背景にはアメリカからの軍事・経済支援へ期待もあった。このような動きに対して、ナセルは三つの懸念を抱いていた。イラクが経済や軍事支援を餌に再び植民地の化の足掛かりとされることや他のアラブ諸国がイラク・米英を中心とする中東防衛機構を形成してしまえば、アラブ世界の中心地はカイロからバクダットに移りエジプトは孤立してしまう。さらに対イスラエルに対するアラブの団結が乱れることであった。このような背景の中でバクダット条約機構は成立した。さらにイスラエルとの国境においてエジプト軍への襲撃が行われ緊張が高まっていた。ナセルは外交的孤立の中で武器も持たずに単独でイスラエルの脅威に立ち向かうという絶望的な可能性を深く憂慮した。 ナセルはこの状況を打破する手立てを見つける必要性に迫られていたのである。
1955年に行なわれたバンドン会議に出席したナセルは非同盟主義・反帝国主義に強い共感と影響を受けた。ここからナセルは東側との関係を重視し始める。現実としてイスラエルの脅威とアラブ世界での分裂に備えるには武器がいる。しかし、米英は提供を拒んでいる。このような状況下でとりうる手段として東側に目を向けたのである。帰国後ブルガリアやルーマニア、東ドイツ、ソ連、チェコスロバキアなどと通商協定や技術協定を締結し、東側と具体的な成果を基に接近し始める。同年9月に行われたカイロでの軍事展覧会で、チェコスロバキア経由でソ連製の武器を購入することを公表した。この内容は超巨大協定であり、朝鮮戦争においても活躍し当時世界最強クラスであった戦闘機MiG15、200機をはじめとしてIL爆撃機50機、戦車300両、自走砲100門、各種砲数百門、装甲兵員輸送車、駆逐艦2隻、潜水艦6隻など破格のものであった。 エジプトはこの武器の購入を綿花で支払う事になり、自然的にエジプトはソ連を中心とする東側の経済圏と深いつながりを構成することになる。
ソビエトは第二次大戦後、援助を行う国をイデオロギー立場から選出し、援助を行っていた。だが、それでは範囲があまりに狭く、西側よりの国家が増えることにソビエトはいち早く気が付いた。その為、ソビエトは援助国の範囲を民族ブルジョワジー、更には反共政府にまで広げる戦術に転換したのである。
武器を欲するエジプトと中東行きにおける西側の影響力を削ぎたいソ連両国の思惑が一致した結果であった。
このことは西側諸国にとって大きな衝撃を与えた。中東の重要地域であるエジプトが東側になるのは言うまでもなく大きな脅威になり得るからだ。
ナセルは旧体制の一掃と共に農業の促進と工業化を目標とした。エジプトの経済的自立を目指したのである。この目標の一大プロジェクトとしてアスワン・ハイ・ダムの建設である。このダムは当時世界最大のダムの貯水量の二倍という野心的計画であった。このダムによって農業工作面積の拡大と工業に必要な莫大な電力をまかなえるというエジプトにとって、最良の手段であった。しかし、この巨大プロジェクトは13億ドルの費用を要するものであった。これには米英が合わせて7000万ドル、世界銀行が2億ドルの融資に合意していた。ただし、米国の支援には東側諸国をプロジェクトに関与させないという但し書きがあるものであった。 しかし、ナセルは中華人民共和国の国家承認やソ連のダムへのプロジェクト関与を否定しないと発言するなど西側諸国と東側諸国との関係を転換した。明らかにエジプトは西側の依存脱却と東側の接近を志向していた。そもそもダム建設へのアメリカによる支援は、東側に歩み寄るナセルの懐柔が目的であった。しかしながらナセルはこれを逆手にとり、ソ連からの支援の受け入れも否定しないなど東西両陣営からの支援を引き出そうとしたのである。これに強く反発したアメリカは1956年7月19日ダムへの支援を撤回する。さらにイギリス政府と世界銀行も支援の撤回を表明する。これはアメリカの経済的な支援という形でのプレゼンス減じさせることにもつながった。後にダムに対してソ連が支援を買って出たことによって、むしろエジプトでのソ連のプレゼンス拡大を招くことになった。これはアメリカが中東におけるアラブ・ナショナリズムと左傾化を履き違えた対応した失敗と言えるだろう。
これに対して、ナセルは1956年7月26日革命4周年記念式典の場で、スエズ運河の国有化の宣言を行う。スエズ運河の収益によってダムの建設費用を賄うという計算のもとであった。スエズ運河の利権は未だに英仏が保持しており、エジプトに残る唯一の植民地支配の象徴であった。そのためエジプト国民は熱狂的にこれを支持した。それとは対象的に利権を持っている側の英仏には衝撃が走った。スエズはヨーロッパで消費される石油の3分の2が通過する大動脈である点や両国の威信に関わる問題であったからだ。フランスはインドシナにおいて屈辱的な敗北を喫し、チュニジアとモロッコの独立を認めざる負えない状況になっていた。更にはアルジェリアにおいての独立運動も激烈なものであった。フランスは、アルジェリアにおいて独立運動を主導していたFLN(アルジェリア解放戦線)をエジプトが支援しているのではないかという疑念を抱いていた。 エジプトを打倒することはアルジェリアにおける紛争終結につながるとフランスは考え始める。イギリスもイギリス領インド帝国を失い、スリランカが独立し権威が失墜していた。何よりも両国にとって、運河の石油ルートの遮断と利権への挑戦は、軍事力行使をせざる負えないものとして認識した。
この状況を知った戦争に備えるための武器の調達に奔走した。フランスはイスラエルへの武器提供を積極的に支援し、フランスのイスラエル支持の姿勢を確かめることになった。



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