文章の生みの苦しみが消えた起点

それは、高校生の頃。司馬遼太郎の『梟の城』を読んで感動して、咄嗟にペンをとって、感想文の様なものを書いたのだが、余りにもひどい文章内容だった。それに加えて、執筆速度も遅かった。

また、高校生の頃。小説を書いてみようという気になった或る日、タイトルは、『海に沈む』というもの。これが、3行書いただけで、もうそのあと、筆は進みませんでした。

こんな感じで、過ごしていた自分が、大学の日本文学科に受かったのは、英語と古典と日本史のおかげだと思って居ます。現代文は、多分、並みの状態だったと思います。

大学に入ってから、まさにその現代文で勝負する訳ですから、それは大変でした。論文も感想文の様な感じでもあり、少し話が飛びますが、院に入る時に、卒論を、一人の教授に酷評されました。確かsに、しかし、客観的に見ても、余りに出来過ぎたものでは、なかった様に思います。それで、院に入って、とにかく必死に研究に没頭しました。それなりに、文章も上達した時期だったように思います。ただ、学部時代から、芥川龍之介と太宰治の全集は、何度も読んでいたので、それは一つの糧にはなりました。とにかく、必死に研究に没頭して、誰に認められるか、ということは二義的な問題になり、客観的に見て、優れた文章が書けているか、客観的に見て、充実した研究をしたか、ということに、問題点をすり替えました。しかし、院の現場は、自分が適応するには、良しとしない空気だったし、自分がやりたい研究が出来ないなら、院を止めて、個人的にやろう、と思い直し、院を中退します。

その後、紆余曲折あって、現在に至るのですが、院の時に出会った埴谷雄高に支えられて、文章筆記の自由化を感化され、文章の生みの苦しみが消えた起点が、5年程前に存在しました。文章の自由化、これは、長く文學をやるのに、非常に重要だと思っています。

文章の生みの苦しみが消え、自由に執筆出来る様になりますと、アイデアが生じた時に、それを文章にすることが出来る様になります。勿論、他者と比べてではありません。他者がどのような感じで執筆しているかなんて、分からないからですが、自分にとっては、ということです。

文章の生みの苦しみが消えた起点について書きましたが、自分が院を中退して、学んだことは、文章を書くこと、その内容や文体は、自由があってこそのことだ、ということです。これを指針にして、今日も文章を書いています。

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