マイナーサークル運営のすゝめ――マックス・ウェーバー『職業としての政治』より――

要約

◯マックス・ウェーバーの『職業としての政治』の支配の三類型をサークル運営論に援用してみたよ
◯運営体制(本文ではいくつかの項目について星5中で評価してるよ)
・「カリスマ的な支配」:柔軟だけど安定性に欠ける
・「伝統的な支配」:安定かつ楽だけど硬直した組織になる
・「法治的な支配」:しっかりしてるけど運営クソめんどい
◯団体は↑の順で変化していくけど「退化」することもあるしそれは悪いことではない
◯体制は適材適所だから「目指す形」があればそれでいいと思う


はじめに――マイサー百花繚乱の時代――

 大阪大学は、ここ数年「マイナーサークル(マイサー)」※1の百花繚乱を経験している。今や再履バスの運行を陰日向で支える「再履バス同好会」は2017年に創立された団体である。また先日のまちかね祭で大盛況を博した「阪大インキャオタクブラスバンド」もつい4年前の2019年に産声を上げた団体である。
 しかし、(基本的に)構成員が長くても9年、早くて4年で入れ替わる大学というコミュニティーにおいて、4年というのは十分過ぎるほどに長い歳月である。大阪大学お嬢様部の代替わりも記憶に新しいが、その歳月は代表はじめ運営メンバーの交代を要求する。しかし、集団にとって「代替わり」はその存亡を懸けた試練である。歴史を見ても、アレクサンドロス大王やアッティラの帝国など、建国者が死ぬや否や瓦解した国家は枚挙にいとまがない。卑近な例でも、会社の代替わりについて「長者二代なし」や「三代続けば末代続く」と言うように、創設者無き後の集団は続きにくいというのが通説である。設立当初の「伊達と酔狂」ではもはや成り立たなくなるのである。
 では、この狭き門をくぐり抜け、団体を存続させるためには、何を為さなければならないのだろうか。創設者の判断に依存する属人的な体制から脱却しなければいけないというのは自明であるが、そのためにはどのような体制が適切なのだろうか。高名な社会学者であるマックス・ウェーバーの『職業としての政治』は、「支配」の種類を3つに大別した。「カリスマ的な」支配、「伝統的な」支配、そして「合法的な」支配である。では、どのような団体にどの支配体制が最適なのだろうか。
 本稿は、ほぼ引き継ぎなしである公認団体の代表となり、コロナ禍の中手探りで団体の体制を構築した私の経験と、他の団体運営者からの伝聞、そして『職業としての政治』をはじめとした先人の知恵により、「現代の大学のサークル/部活動」に特化した団体運営についての知見を提供しようとする試みである。本稿が、現代の大阪大学に存在する、多様かつ洗練された文化達の保存の一助となれば幸いである。

※1「マイナーサークル」の定義は基本的に「阪大マイナーサークル図鑑」(https://w.atwiki.jp/handai_mincircle/pages/44.html)に従うが、その他筆者の感覚によりそうカテゴライズしている場合もある。
※2 なお、マイナーサークルの歴史や特徴については、「大阪大学ネタツイから卒業論文まで本にサークル」の部誌『OUtput』が詳しい。必見である。

支配の三類型とそのサークル運営における評価(星5中)

 「近代社会学の父」とも呼ばれるドイツ人社会学者のマックス・ウェーバーは『職業としての政治』において、「支配」とその正当性について考察した※3。彼によれば、支配の内的な正当性は、原則として次の3つに分けられる。「カリスマ的な支配」、「伝統的な支配」、そして「合法的な支配」である。そして私は、サークルの運営形態は、原則時を経るにつれてこの順に変化していくと考える。以降、それぞれの種類の支配について、サークル(学生団体)運営の文脈から評価を行う。

※3 本書では、「支配」は国家が統治を維持するための、国家による暴力と、国民のそれへの服従と定義されている。しかし本稿ではその定義を広げ、集団の存続維持のようなソフトな「支配」も含める。

評価基準

 以下の5つの観点について、各項目に星を最大5つ付けて評価する。星が多ければ多いほど、それぞれの観点において優れているとする。
柔軟性:組織の運営方針・形態の変えやすさ。パンデミックなど、外部の変化に対する強さとも言える。
安定性:組織の持続性。運営メンバーの代替わりや脱退などの、組織内部の変化に対する強さ。
民主性:構成員の意見がどれほど団体の運営に反映されるか。
労力的運営コスト(の低さ):主に運営メンバーについて、団体を維持していく上でかかる時間・労力的な負荷。各種会議や総会など。
心理的運営コスト(の低さ):主に運営メンバーについて、団体を維持していく上でかかる心理的な負荷。責任感やめんどくささなど。

カリスマ的な支配

 本書において「カリスマ的な支配」とは、ある個人に異例な天賦の資質が備わっていることにより権威が生まれている場合を指す。本稿では定義を拡張し、「ある個人の存在がその集団の存続に不可欠となっている」状況とする。設立当初のサークルは設立者が居なければ空中分解してしまうから、サークルは、はじめこの運営形態を取ることになる。

・柔軟性★★★★☆
 「カリスマ的な支配」は非常に柔軟な組織を作る。トップの一存で集団の方向性を決定できるからだ。集団の理念が固まっていない時期や、非常時においてはこの柔軟性が武器となる。
・安定性★☆☆☆☆
 一方、定義上、トップの存在なしには組織が空中分解してしまうため、安定性においては非常に脆い。
・民主性★★☆☆☆
 また、トップの裁量で団体が動くためどちらかといえば独裁的であるが、逆にトップにさえ意見が届けば団体を動かせるため、後述の「伝統的な支配」よりは民主的である。
・労力的運営コスト★★★★☆
 また、団体を維持すること自体へのコストはほぼかからない。トップと運営メンバーの私的なつながりで仕事の割り振りなどの意志決定を行えるからである。
・心理的運営コスト★★★☆☆
 団体維持のための心理的なコストも、リーダー以外にとっては責任と意志決定の多くをリーダーに任せることができ低い。ただし、その分リーダーにとっては重責が発生し、その点で後述の「伝統的な支配」よりは心理的なコストが高い。

 総じて、「小回りは効くが安定性に欠ける」体制と言える。また、この体制の例としては、創立者のアイデアや指揮に依存する、設立間もないマイナーサークルやベンチャー企業が挙げられる。歴史的には前述のアレクサンドロス大王の帝国などがこのカテゴリーに当てはまるだろう。

伝統的な支配

 「カリスマ的支配」の時期を過ぎ、存続に成功した団体は基本的に「伝統的な支配」に移行する。本書では、「ある習俗が記憶の及ばないほど昔から行われていて、これを維持しようとする姿勢が習慣となっているために、神聖なものとされる『永遠の過去』から与えられる」権威であると定義づけられている。本稿では広く「前例主義的な運営」とする。何かを決める際に、「以前、先輩はどうしていたか」をその根拠としていればそれは「伝統的な支配」である。

柔軟性★☆☆☆☆
 
この体制はもちろん柔軟性においては後れを取る。運営の範を前例に取る以上、「新しいこと」をする能力は低い。
安定性★★★★☆
 一方、安定性においては非常に優れている。極論誰が運営陣に入ったところで、彼らは前例をそのまま実行すれば良いだけであるからだ。たとえリーダーが急に失踪したとしても、別の誰かがすぐに代わることができる。運営がリーダーの資質ではなく、前例に依存しているからである。
民主性★☆☆☆☆
 
「伝統的な支配」の民主性は非常に低い。団体の運営が前例に従って行われるため、そこに構成員――リーダーさえも――が自らの意見を挟み込む余地はかなり狭い。
労力的運営コスト★★☆☆☆
 
「伝統的な支配」においては、前例に基づいた意思決定の場――「定例会議」や「総会」などのようなもの――の実行を要求されることが常である。これらは形式ばったものであり、「カリスマ的な支配」における有機的な支配よりは運営に費やされる労力や時間は大幅に増える。ただし、これには「伝統」の再確認という役割があり、団体の維持にとって重要な役割を持つ。
心理的運営コスト★★★★☆
 
基本的に前例に従っていれば良いため、意思決定の責任などの心理的な負担は非常に少ない。何かを決める際には「前例に沿っているか」だけを考えればいいし、判断を誤ったとしても「前例に従っただけだ」という言い訳が効く。

 「伝統的な支配」は、「気が楽で安定しているが、硬直した組織」を作る。この体制の例としては、大抵のある程度長く存続している部活動・サークルが挙げられる。私が属していた部活動でもそうであるが、何をするにしても「前回はこうしていた」「先輩がこう言っていた」というのを判断基準にする性格があれば、それは「伝統的な支配」である。歴史では江戸時代の幕藩体制や清の科挙、ヨーロッパの封建制が例となる。また、ここでは「(後述のような)法治的システムが形式上存在しても、実際は機能していない」場合も「伝統的な支配」に含める。私が属していた部活動のように、形の上では「総会において構成員全員による決を取る」としていても、その実態が単なる追認機関であればそれは「法治的な支配」とは言えない。

法治的な支配

 最後に来るのが「法治的な支配」である。基本的に、団体は「カリスマ的支配」から直接、もしくは「伝統的な支配」を経てこの形態に到達する。マックス・ウェーバーは、これを「法的な規約が妥当なものであるという信頼と、規約によって理性的に定められた規則を根拠とする公平な『権限』による支配」とした。本稿では「明文化された規則に基づき運営され、構成員の意見を運営に反映させるシステムを持つ団体」をここにカテゴライズする。

柔軟性★★★☆☆
 
「カリスマ的な支配」ほどではないとしても、運営の柔軟性には優れる。前例に固執する「伝統的な支配」とは異なり、新たな試みを可能にするシステムを内包しているからである。
安定性★★★★★
 また、「法治的な支配」は安定性の面で最も優れている。明文化された規則やシステムは、それ自体で団体が存在することの内外に向けての正当性となる(部活動の銀行口座を作る際に、部活動の規約の提出が求められることを考えればわかりやすい)。また、(少なくとも理念の上では)団体の運営が構成員全員の合意に基づいて行われているから、不和や代替わりに伴う混乱も起きにくい。
民主性★★★★
 
構成員の意見を吸い上げ、団体運営に反映させるシステムを持ち、民主性も高い(少数意見を無視する「多数派の支配」に陥る可能性もなくはないが)。
労力的運営コスト☆☆☆☆☆
 
一方、「法治的な支配」は運営コストが高くつく。規約の不断の確認と更新が必要であったり、意思決定を行うごとに構成員の意志を確認しなければいけないなど、前の2つとは比べ物にならないほどの労力が要求される(怠れば法治は形だけの「伝統的な支配」に逆行してしまう)。
心理的運営コスト☆☆☆☆☆
 
心理的にも運営陣には多大な負担がかかる。「法治的な支配」を行う者は、常に「自団体の行動がその理念に沿っているか」「自団体の行動が構成員の意志に沿っているか」に気を配らなければいけない。さらに、「団体が構成員の意志に沿って動く」ということは、逆に「団体の行動の責任を構成員全員が負う」ことも意味する。「リーダー」にも「前例」にも責任を擦り付けられない。

 「法治的な支配」を行う組織は、「柔軟であり安定し、民主的であるが、その分運営にかかるコストは非常に高い」組織である。このような組織は学生団体には稀有である――学園祭の実行委員会や大規模なビジネス系団体くらいだろうか。日本を含め、現代の民主主義国家はこの支配原則を基に運営されている。また、上でも述べたが、「法治的な支配」には形式だけではなく内実も要求される。いくら規約があっても、それが形だけになっていれば、もしくはそれに盲従しているようでは「法治的な支配」を実行しているとは言えない。

サークル運営体制の変遷と選択――大阪大学外付けCDプレーヤー同好会の一生――

 西暦476年、ゲルマン人傭兵隊長のオドアケルが西ローマ帝国皇帝のロムルス・アウグストゥルスを退位に追い込んだ。その滅亡の正確な年号については諸説はあるが、これが西ローマ帝国の終わりを象徴する出来事であることに異論はないだろう。ここに、高度に発達したローマの文化と政治――皇帝の中央集権と元老院――は崩壊し、封建的な「暗黒時代」が始まったとするのが通説であった。しかし、近年では、「西ローマ帝国の統治制度は476年以前にとうにガタが来ており、その崩壊は単にその実情が体裁に反映されただけ」という評価がされつつある※4。度重なる内戦や弱体な軍隊、極端な貧富の差や移動の自由の厳しい制限は西ローマ帝国に荒廃と不満をもたらしており、その崩壊と地方分権への移行はむしろ「進歩」であったとさえ言える。
 …読者諸君はいきなり何の話かと思われただろうが、この例からは「高度な(に見える)制度が常に適切であるわけではない」ことが分かる。ローマの遠大な道路や上下水道、元老院や行政制度は1世紀のヨーロッパには求められていたとしても、5世紀にはもはやそうではなくなっていたのである。同じように、サークルの運営体制にも「目指すべき単一の体制」はない。時期や団体の性格により、望ましい体制は変化する。

※4 詳しくは参考文献の"The Roman Empire Had To Fall. Here's Why."参照。

運営体制の変遷

 まず、サークルが、その設立から運営体制をいかに変えていくかの一般的な法則を考えてみよう。ここでは、架空の「大阪大学外付けCDプレーヤー同好会」を例として用いる。

図1 サークル運営体制の変遷図
カリスマ的な支配←―――――→伝統的な支配←―――――→法治的な支配
     ↖――――――――――――――――――――――――↗

 

 (図1参照)ノリと勢いで発足した我らが外付けCDプレーヤー同好会、略して外C同は設立当初「カリスマ的な支配」下にある。「サークルを作りたい」と願いそれを実行に移すほどの、外付けCDプレーヤーへの熱意と構想力、組織力がある人間(創設者)は「カリスマ」と呼んでいい存在であり、初期のサークルの中核となる。この当初の体制は、創設者がその団体を去る時に終わりを迎える。この「代替わり」の際に(サークルが空中分解しなければ)、外C同は「伝統的な支配」に移行する(一足とびで「法治的な支配」に移行する場合もある)。二代目以降の代表は、多かれ少なかれ先任の前例を踏襲できるようになり、そして彼らにはそうする圧力がかかるようになる。そして、サークルの規模が拡大し、よりきちんとした運営体制が求められるようになると、外C同は「法治的な支配」に移行する。もはや「ノリと勢い」ではやっていけないのだ。ここに、会員500名超、いくつもの部門を有し、会員全員参加の年次総会で会長他役員を投票で選出する巨大サークル、外付けCDプレーヤー同好会が誕生するわけである。
 ここで重要になるのは、サークルの運営体制の変化は必ずしも一方通行ではないということだ(そのため両端に矢印をつけている)。黄金期を過ぎ、規模の縮小を余儀なくされた外C同は、「法治的な支配」の維持コストが大きくなりすぎ、「伝統的な支配」に戻るかもしれない。そこからより規模が小さくなると「伝統的な支配」すら維持が難しくなり、リーダーの存在なしには団体が空中分解してしまうような「カリスマ的な支配」に元通り、となるかもしれない(これは実際私がリーダーを務めていた団体で起こっていたことである)。ただしここで明言しておきたいのは、「伝統的な支配」や「カリスマ的な支配」への「逆行」は悪いことではないということだ。これは単に組織の実情に合わせた運営体制に移行したというだけで、むしろ無理に「法治的な支配」を維持しようとする方が避けるべきことである。

運営体制の選択

 では、サークルはいついかなる場合に、どのような運営体制を取るべきなのだろうか。よくありがちな誤解に、「『法治的な支配』は常に優れている」というものがある。明文化された規約や、民主的な制度を作ることが常に取るべき道であると考えることだ。しかし考えてもみてほしい、外付けCDプレーヤーの同好会などに年次総会やら部門やらが必要だろうか。こんなサークルはノリと勢いで十分やっていけるから、その場の雰囲気と前例踏襲でやっていく「伝統的な支配」で十分である。この例には、ほとんどの「サークル」や「同好会」が含まれる。もっと言えば、祭りの出し物としてのバンドや語劇祭の専攻のような一過性(が強い)集団ははなから「カリスマ的な支配」を前提としても良い。所詮一過性の団体であるからだ。
 一方、よりちゃんとした組織――例えば学園祭の実行委員会――についてはそうもいかない。このような組織は、組織の内外に大きな責任を持ち、そのため柔軟性・安定性・民主性全てにおいての高度さが求められる。明文化された規約に沿って運営され、内外から広く意見を吸い上げる「法治的な支配」を取るべきである。決してトップ層の閉じられた空間で意思決定を行ったり、規則や前例に盲従し実利を損なうような「伝統的な支配」に陥ってはいけない
 最後に、現実においては純粋な「伝統的な支配」下にある団体や、純粋な「法治的な支配」下にある団体などは存在しない。全ての団体は、この3つの運営体制のミックスとして存在している。普段はノリと勢いで活動している団体が、学祭出展に関してはマニュアルや反省点の共有などの「法治的な支配」的スタンスを取ることもある。「伝統的な支配」の団体がコロナ禍のような危機に際して、誰か一人に改革の旗振り役を託し「カリスマ的な支配」を実行してもいいわけである。

おわりに

 かなり長くなってしまったが、本稿はサークルの運営体制の三類型を考え、その特徴や変遷について論じた。ここで、私が論じたいことは決して「この体制が最も優れている」ということではない。肝心なのは、団体の性格や時節に応じて、適切な体制を選択しようとする意識である。最悪の選択肢は無軌道であり、いかなる体制を志向するかという目標を固めていればそれでよい。本稿が、各大学のマイナーサークルとその多種多様な文化の維持発展の一助となれば幸いである。

参考文献

  • 「再履バス同好会」 阪大マイナーサークル同好会 最終更新: 2023年05月07日 https://w.atwiki.jp/handai_mincircle/pages/1.html

  • 「阪大インキャオタクブラスバンド」 阪大マイナーサークル合同説明会 最終更新: 2023年05月07日 https://w.atwiki.jp/handai_mincircle/pages/31.html  

  • 『職業としての政治 職業としての学問』マックス・ウェーバー 著 中山 元 訳 2009年 発行

  • "The Roman Empire Had To Fall. Here's Why."―Youtube 投稿者:Tominus Maximus 公開: 2021年4月5日

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