結局何が「自己責任」なのか?―社会構築主義とデカルトの実体二元論、「『自分』とは何か?」という問いについての一考―

思案の入り口

 「学校・大学教育において、競争主義、能力主義、自己責任などの『勝ち組、負け組』の論理を導入することの問題点を挙げよ」と聞かれたら、あなたはどう答えるだろうか。後輩から「レポート課題のアイデアをください」と助けを乞われた私は、この問いに「『負け組』とされた人々が社会から疎外され、引きこもりや犯罪といった問題につながる」「そもそも『学力』はかなりの程度家庭環境や社会構造によって決定されることが証明されている」というひどく陳腐な回答をしたわけである。
 さて、近年、「社会構築主義」という学説が注目を集めている。その説は以下のように定義される。

社会構築主義(しゃかいこうちくしゅぎ、英: social constructionism[注釈 1][1])とは、ある事柄に対して、社会的に作られたものと考え、それを変更可能だとみなす立場。構築主義とも呼ぶ。逆に、ある事柄に対して、変更不可能な性質だと見なす立場を本質主義と呼ぶ[2]。例えば「男女差」を、「生物学的なモノ」と考えるのは本質主義、「社会的に構築されたもの」とするのが社会構築主義的な考えである[3]。

社会構築主義 weblio辞書
https://www.weblio.jp/content/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%A7%8B%E7%AF%89%E4%B8%BB%E7%BE%A9

要するに、「『性差』や『学歴の差』などについて、それらを個人の性質ではなく、社会によって構築されたものである」とするのが「社会構築主義」である。この社会構築主義を援用すると、先の問いには、「『勝ち組・負け組』の論理は、学力の、『社会により構築される部分がある』という性質を無視するものであり、その論理に基づくことは学力向上政策に必要なファクターを見落とすことにつながる。そのような問題点が存在する」と答えることができるだろう。
 しかし、ここで私は一つ疑問を抱いた。「性差」のような、個人の本質と考えられていたものが社会により構築されるものであるとすれば、「個人の本質」とは何なのだろうか。「個人の本質」から、「性差」や「学力」のような、社会構築的性質=第三者性を持つものを排していった後には何が残るのだろうか。結局、何が「自己責任」なのだろうか。

本稿では、前稿(↑)で十分に答えられなかったこの問いについて答えていこうとおもう。

自己責任論vs社会構築主義

 まず、私の思案のきっかけとなった、社会構築主義とそれが超克しようとした自己責任論の間の戦いについて概観してみたいと思う。社会構築主義の主張の内容は、上野千鶴子氏の平成31年度の東京大学入学式での祝辞に見ることができる。

 あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

平成31年度東京大学学部入学式 祝辞 東京大学公式HP
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html

この祝辞の中で、上野氏は、彼女が東大学部入学生が抱いていると考えた「私が東大に入学できたのは、私の努力の成果である(裏返せば、東大に入学できなかった人間は努力を怠ったのだ)」という自己責任論的考えに対して「あなた方が『がんばる』ことができたのは環境のおかげであり、環境のめぐり合わせの悪さにより『がんばる』ことができなかった人間もいる」という社会構築主義的なアンチテーゼを提起してる。
 このように、社会構築主義は元来「自己責任」である―つまり、特定の個人の本質である―とされていたことについて、それが社会という第三者によって構築されたものであるという指摘を行ってきた。実際、アルコール依存症すらも、個人の病気という視点ではなく、社会構造により引き起こされたものであるという研究もある。Holmes&Antellの研究は、アメリカ先住民の間のアルコール依存症問題において、その原因として先住民を圧迫する政治的・文化的抑圧の存在の可能性を指摘している※1。先住民たちのアルコール依存症の原因は、彼ら個人の体質や個人の怠慢のせいではなく、彼らを数百年間追い詰めてきた白人社会にあるのだ、ということだ。

※1 Holmes, M. D., & Antell, J. A. (2001). The Social Construction of American Indian Drinking: Perceptions of American Indian and White Officials. The Sociological Quarterly, 42(2), 151–173.

「我思う故に我あり」―デカルトの実体二元論―

 しかし、社会構築主義的に、自己責任=個人の本質から、「第三者性」をもつものを排していったとして、その先には何が残るのだろうか。他の何者にも帰することができない、個人の本質とは何なのだろうか。
 考えてみれば、この個人の本質を求める思案の旅路は、デカルトの懐疑主義と同じような道を辿っている。デカルトは、すべてのものについてまず疑いをもってかかるという方法的懐疑の立場を取った(デカルトと彼が代表する懐疑主義・演繹法については下の記事を参照)。

デカルトは、方法的懐疑により身の回りの物事全てを疑った末に、「我思う故に我あり」―すなわち、「何かを疑うことができる『自分』の存在は否定できない」という結論にたどり着いた。そして、デカルトは、「自分」とは何かという問いに対してこう答えた。

ここで、考えることだけが「私」から切り離すことができないということから、「私」とは考えるもの (res cogitans) ということが言える。つまり、考えるという属性を持った実体ということになる。それは、精神であり、魂であり、知性であり、すなわち理性である。このことにより、デカルトは二元論における一つの実体としての精神が存在することを主張する。

デカルトにおける物体の存在について 久保田進一
https://nagoya.repo.nii.ac.jp/record/28670/files/nagpj_14_14.pdf

 デカルトによれば、「自分」の、切り離すことができない本質とは考えること、つまり、理性である。そして、このように、世界を「物質」と「精神(=理性)」に分ける考え方を「実体二元論」と呼ぶ。

結局「自分」とは何なのか?

 前稿『「顔」は「自分」なのか?』にておぼろげながら表明したように、私の自我論は、先に挙げたデカルトのそれとほぼ同一のものである。すなわち(冒頭で立てた問いに答えるとすれば)、私にとって、「自己責任論」であるもの、社会構築的性質=第三者性を持つものを排していった後に何が残るものとは「理性」である。そして、肉体や社会的地位などの第三者性を持つものから開放された「理性」としての我々が為すべきこととは、「形而上学の探求」≒哲学の思案を深めることであると思う。
 私が部活動で取り組んでいるディベートの用語の一つに、"Uniqueness"(「独自性」)というものがある。ディベートというのは、ある政策(例えば、義務投票制)について、導入賛成派と導入反対派が論戦を行う競技である。そして「独自性」とは、反対派が立証しなければいけない事項の1つであり、「独自性」とは「政策を導入しなければ政策による問題は起きない」という意味である。義務投票制の例で言えば、「義務投票を導入しなければ、投票の強制という人権侵害は発生しない」というようになる。ここで大事なのは、「独自性」という概念は、「何か(政策)が存在するからこそ起こる問題」に着目していることである。「『理性』の為すべきこと」の話に戻れば、我々が理性をもっているからこそできることとは、形而上学の探求であるから、「独自性」の概念に従えば、理性は形而上学の探求に勤しむ「べき」なのである。仮に我々が俗世間的な享楽のみを楽しむべき存在であれば、我々に形而上学を考えるための理性は与えられていないはずであるのだから。
 また、この実体二元論から演繹できることとして、「あらゆる差別への反対」がある。格差や差別が、個人ではなく社会に起因するものであるとする社会構築主義と、理性こそが「私」であるとする実体二元論を組み合わせれば、人種やジェンダー、障害など、「第三者性」を含むものにより個人を判断することはできないはずである。個人とは「理性」であり、第三者性を含むものはあくまで社会により構築されたものであるのだから。

結局どういう話だったの?

 本稿では、「『自分』とは何か」について、社会構築主義やデカルトの実体二元論を援用して記した。本稿の意義として、次の二つのことが挙げられると思う。
 一つは、私の(少なくとも現時点での)自我論を明確に表明したことである。デカルトの実体二元論を援用し、「『自分』とは理性であり、その『自分』は形而上学の探求をするべき存在である、また、『自分』ではない第三者性をもつもの(人種やジェンダーなど)による差別はすべきでない」という論を展開した。「『自分』とは何か」という問いは、私がnoteの執筆を始めた時から答えたかった問いの一つであり、この問いに明確な答えを示せたことで私の形而上学の探求に一区切りがついたように感じる。
 また、本稿は現代的な社会学(社会構築主義)と、西洋古典哲学(実体二元論)の間に関係性を見出した。人間を集団としてとらえ、社会のあり方について思案する社会学と、自分一人の自我について考えるデカルトの自我論は一見交わらないように見えるが、デカルトの懐疑主義と社会構築主義の脱「自己責任論」化は同じような趣を持つものであり、この二つを組み合わせて考えることの可能性を示した。もっと言えば、個人の性質と考えられていたものの原因を社会に帰する社会構築主義に、その原因を社会に帰する営みの帰結点の一つとして実体二元論の存在を提示した。
 読者の皆様の知見や思案に、本稿が少しでも助けになれば幸いである。


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