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こどもや動物のために。国会に体温ある議員を。血の通う議論を。人々のための政治を。

前回に続き、今日も政治関連のお話。
でも政治って、別に「遠い何か」じゃない。きっと、もっと身近な何かなんだと思います。
「生きている、そして生きていく社会のこと」という点において、社会にはみんなが当事者になっていく様々な問題が溢れています。政治というものは、きっとその問題解決の先にあるものなんだと、これは受け売りの言葉ですが、今はとてもそう思います。

人は、「個人」という意味で、一人一人がマイノリティで。
日々生きていると、息苦しくなる瞬間が人の数だけきっと存在しています。

それを、少しでも息をしやすい社会にしていくこと。
それが、政治の役割の本質の一つなんじゃないかなと思うのです。

さて、今日の文章はちょっと長いですが、どうぞ最後までお付き合いくださいね。忙しい方は目次から気になる箇所へ飛んでいただければと思います。▼

「お前なんていらないよ」って言われたようで。

2022年4月30日。
うららかな春の日差しが差し込む埼玉県加須市の「はっこう村」には、庭先で走り回る子供たちと、何とも気さくな笑顔を浮かべた元衆議院議員の堀越啓仁さん(以下、けいにんさん)がお話会のために集まっていました。

けいにんさんには、『こども』『動物』の2つの問題についてのお話をお聞きしてきましたので、その内容についてまとめさせていただきます。

動物の中でも「鶏が大好き」だというけいにんさん。

けいにんさんのご実家は天台宗のお寺。
「とても(僧侶だけでは)食っていけないけど、長男だからお前が継げよ?」という無理難題を背負って、一時期は比叡山にも籠っていたことも。やがて作業療法士の資格を取り、僧侶としての家業を手伝い、作業療法士としてリハビリに従事することで生計を立てながら、有機栽培やマクロビのマルシェで大好きな音楽を仲間と奏でているような男だったと、けいにんさんいいます。

2016年に出馬した参院選で敗れるも、2017年の衆院選で当選。2021年までの4年間の間、衆議院議員を務め、社会のために獅子奮迅の働きを見せましたが、無念にも2021年10月の衆院選では落選してしまいました。
落選後は、「お前なんていらないよ」と社会から言われているようで、家を出るのも苦しかったと言います。

しかしそれでも、看過できない問題のために、社会のために、未来のために何としても国会へ戻るんだ、人々の声を届けるんだという新たな決意を胸に再び立ち上がって全国でお話会を展開されています。

政治から国民が離れたのではなく、
国民から政治が離れてしまっている。

けいにんさんがこだわっているスタイルは「対面で話す」こと。
コロナ禍でなかなか難しい側面もありますが、この「対面」こそ大事なんだとけいにんさんは言います。

昨今の社会では、「国民が政治に関心がない」「若者が政治から離れてしまっている」といわれることも多いですが、けいにんさんから言わせれば「離れているのは政治の方だ」と。小難しい話ばかり繰り広げ、汚職や不毛な言い争いの絵ばかりをメディアで見せられている国民が、政治と距離を置いてしまうのは無理もないものだと。

もっと自由な報道と、国民の接しやすい政治を確立していくべきだと自分も思います。そのためにまずは自分ももっと政治へ関心を持とうと思いました。

”自分らしさ” を ”再び獲得する”。
 大切なのは「自分らしく生きる社会」。

けいにんさんが大切にされている「自分らしく生きる社会」というキーワードは、政治家になってからいうようになった言葉ではなく、作業療法士時代の「リハビリ(リハビリテーション)」という言葉に端を発するそうです。
リハビリテーション(Rehabilitation)は、ラテン語の「Re(再び)」「habilis(人間らしい、できる、適する、獲得する)」が語源にあり、「再び人間らしく生きる、人間らしさを再獲得する」といったような意味になるのだとか。

今回のお話会では、こどもを取り巻く問題から3つ、動物を取り巻く問題から1つをお話しいただきました。


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■ パート①「こども」について。
「保護の対象から、権利の"主体"へ。」

「ああしなさい。こうしなさい」
「このレールの上を走っていくと幸せになれるんだから」
「外れたら社会不適合者だからね」

様々な無責任な価値観の押し付けが社会にはびこり、禁止事項ばかりを教え込まれてしまう今のこどもや若者たち。とある公園では「静かに遊びましょう」という注意書きすらも。

こどもらしさを奪われ、
「自身で選択をし、成功体験を積む」
という貴重な経験に著しく乏しい日本人の若者は自己肯定感が低く、自殺率も高い。

こどもをしっかりと守るための体制が、全く不十分なまま放置されてしまっている現状を、けいにんさんは訴えかけます。

トピックは「児童虐待」「自殺」「児童労働」の3つで、一貫するのは「こどもは、保護の対象ではなく権利の主体としてとらえていくべきだ」というメッセージでした。

|児童虐待について
 悪者は親や教師や相談員なのか。===========

コロナ禍の日本で、児童相談所へ寄せられた年間20万を超える虐待の相談のうち、6割は無視や暴言、心理的な虐待を占めています。
コロナ禍による緊急事態宣言、一斉休校等による影響もあり、
虐待によって命を落とすケースのうち、その大半の加害者が「実の母親」であるという事実があります。

しかし、虐待が起きてしまうという構造は、コロナ以前から変わらず存在しています。日本では、その抜本的な解決にしっかりと舵を切れていない現状があるのです。

相談所に寄せられる相談のうち、きちんとフォローアップまで行われているのはわずか2割程度。8割は放置当然の状態となっています。これは、相談所の職員さんの雇用環境や、受け入れ態勢そのもののキャパシティを上回る相談が発生してしまっているためです。
適切な場所にちゃんと税金がかけられておらず、現場が疲弊してしまっているのです。

そして、職員やこどもたち自身のケアはもちろん拡充すべきですが、何より大事なのは「保護者自身のケア」です。

困り果てて相談しても、
「あなたが悪いんじゃないの」
「家庭のことは家庭で解決してください」と突き放され、
『自己責任』『自助』という言葉が無責任に投げかけられてしまっています。しかし、現状の社会構造の中で自助のできることには限界があります。

加えて、日本小児科学会では、「情報共有や検証不足によって、数字以上の多くの虐待死が見過ごされている可能性がある」という推測を発表しています。

そもそも「虐待したい」なんていう親が、こんなに存在するわけありません。思わず手を上げてしまう、手を上げざるを得ない、そんな限界にまで追い詰めてしまっている社会の構造が、今日の日本にはあるのです。

これは親の問題ではなく、社会の問題なのです。

寂しさのあまり猫の多頭飼育崩壊を起こしてしまう一人暮らしの高齢者の問題が、その高齢者や猫に問題があるのではなく、そんな精神状態を作りだしてしまう社会に問題があるのだ、ということに通ずるものを感じます。

親の精神状態を指摘し、教員に頭を下げさせ、相談員の対応を責めてしまう。こんな現状では、問題が解決されるわけありません。
しかし、これはこどもの人権にかかわる重大な問題です。


|自殺率について
 「いっそ死にたい」と思わせている社会========

こどもの自殺もまた、深刻な問題です。
自殺の数は減るどころか増加傾向にあり、

コロナ禍における児童生徒の自殺等に関する現状について(文部科学省)

15歳~39歳の死因の1位は、「自殺」になっています。
けいにんさん曰く、東日本大震災の影響によって「不慮の事故」が1年だけトップになったことがあるものの、そのほかの年では自殺が1位になり続けているそうです。

厚生労働省政策統括官(統計・情報政策担当)『人口動態統計』による
https://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/Popular/P_Detail2021.asp?fname=T05-23.htm

自殺の原因は、必ずしも1つというわけではなく、複合的な要因が絡まり、溜まってしまった結果であることが多いですが、その中でも「家庭問題」や「経済的な問題」は大きな割合を占めています。

正直、このテーマについて自分は素人だし、「死にたい」とまで追い詰められたことがないので適当なことは言えないのですが。
そもそも、こどもが「死にたい」と思う社会は健全なのでしょうか。

自殺は、こどもに限った話ではなく、あらゆる世代で大きな割合を占めている死因の一つです。人身事故が起きるたびに、何とも言えぬやるせなさに襲われます。簡単な話ではないことは重々理解していますが、「死にたい」と思わせる社会のままでいいのかどうかは、言わずもがなだと思います。


|児童労働について
 犠牲の上に成り立つ豊かさの享受===========

これはコーヒー豆などのグローバルサウス的な問題という印象がありますが、日本でも問題になっています。

児童労働に従事する5〜17歳の子どもは、2020年時点で約1億6,000万人-世界の子どもの10人に1人近くに相当します。うち女の子は6,300万人、男の子は9,700万人です。

ユニセフの主な活動分野|子どもの保護(公益財団法人  日本ユニセフ協会)

日本では、「ヤングケアラー(※)」がそれに該当すると言われ、現在調査が進んでいると言います。

※ヤングケアラー
一般に、本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的に行っている子どものこと

下記のような事例が該当します。

ヤングケアラーについて(厚生労働省)

いかがでしょうか。
例えば、「日本語が第一言語ではない家族や障害のある家族のために通訳をするこども」なんてなかなか思いつかない事例なのでしょうか。

これは家庭がだらしない、親がしっかりしていない、そういった問題ではないですよね。そう、これは社会保障の欠陥・不備によって起きている問題です。

そしてもちろん、冒頭にあげたような、海外で起きている資本主義社会のしわ寄せの問題も深刻です。

児童労働の中でも、健康、安全、道徳面で有害な可能性が高い危険な労働、心身の発達を阻害する労働、人身売買や子ども兵士の徴用、強制労働などは、「最悪の形態の児童労働」と定義されます。「最悪の形態の児童労働」の中で最も多くは、危険な労働に従事する子どもの数で、2020年時点では7,900万人(児童労働に従事する子どもたちの約半数)にのぼっています。

ユニセフの主な活動分野|子どもの保護(公益財団法人  日本ユニセフ協会)

学校にも行けず、労働の中にはレアメタルなどの鉱物を採掘するための労働など、危険を伴うものも少なくありません。
ではこれは、こどもにそんなことをさせる「親が悪い」のでしょうか。

「こんな仕事、好きでやってるわけじゃない。でもそれしか仕事がないんだ」。
けいにんさんが見せてくれた国際人権NGOのアムネスティ・インターナショナルのビデオの中で、鉱山労働者の男性は話していました。

鉱山労働についてはコチラがわかりやすいです。

安く買い叩こうとする社会と、そのための規制やルールを十分に作れない社会に問題があることは明らかです。
私たちも無関係ではありません。というか、むしろすごく関係しています。
携帯電話、農産物、洋服、、、、
普段使っている、買っているものが、どんな方法で生産され、自分たちのもとへ届いているのか。考える必要があります。

私たちは、「他者の犠牲の上に豊かさを享受しているのだ」という認識を持たなくてはなりませんし、そのためにどう行動するべきかを日々問われています。

|今からできることを。
 こどもを「保護の対象」から「権利の主体」へ。

現在の日本において、こどもの権利すべてについて保証するための法律は一つもありません。教育基本法や児童保護法はありますが、こどもたち当人の意見についてちゃんと声を取り入れてくれている法律が日本にはありません。

法律とは、社会の秩序を作り、構造を作っています。
であるならば、「法律は社会の不備を正すためにある」とけいにんさんは伝えます。

そこでけいにんさんが目指しているのは、国会へ戻って「こども基本法」を作ること。こどもの人権を守り、当事者たちに解決を迫るのではなく、社会全体でしっかりと守っていく仕組みを作ることです。


■ パート②「動物」について。

さて、いよいよ動物のパート。
昨今で、動物愛護や動物福祉の問題が話題になり始めていますが、「正直、動物たちも可哀想だけど人間の問題解決の方が先じゃない…..?」と思われる方もいるのではないでしょうか。

衆議院議員時代は動物愛護法の改正に関わり、現在は「動物福祉推進法」の立法を志しているというけいにんさんに「動物福祉(アニマルウェルフェア)」についてお聞きしました。

堀越啓仁さん公式インスタグラムよりお写真を拝借。
https://www.instagram.com/p/Cax6VWLP0pJ/

|動物の健康を守ることは、人間の健康を守ること

そもそも、「動物の問題」と一口に言っても、同じ地球、同じ社会の中で暮らしているのですから、動物と人間は密接にかかわっているし、動物の健康と人間の健康も密接なつながりがあります。

世界を震撼させたコロナもそうですが、例えば、「人獣共通感染症」は動物にも人間にとっても大きな生命の脅威です。また、大量生産大量消費に間に合わせるために生まれた効率的な畜産システムである「工場畜産」は、ひどい飼育環境下でも動物たちの健康の維持を図るために抗生物質が多用されることによって「薬剤耐性菌」が生み出され、これもまた食の安全の保障問題を大きく内包しています。

そして、「大人たちがどう動物たちを扱うのか」を、こどもたちはしっかりと見ている、ということです。

以上のような理由により、動物、特に家畜(家畜という言葉も、正直自分はあまり好きではありませんが)などの産業動物については、動物福祉に則った取り扱いをスタンダードにしていく必要があります。

動物の問題は、人間の問題なのです。

|動物福祉(アニマルウェルフェア)という考え方
 5つの自由について

動物園の動物で、檻の中をひたすらにいったりきたり繰り返している動物を見たことがある人もいるのではないでしょうか。
あれはもちろん、見に来た人々に「おれを見てくれ!」なんて言ってるわけではなく、「常同行動」といって、その動物がストレスの極致にあることを意味しています。

動物福祉について、何だか難しいと考える人も多いかもしれませんが、言っていることは意外とシンプルで『人間が嫌なことは動物も嫌なんじゃないの』ということです。

まず最初に大事なキーワードになるのは、「5つの自由」というもの。
これは英国政府が立ち上げた委員会で提唱され、世界的なスタンダードとなりつつある指標でもあります。

【5つの自由】
①飢えや渇きからの自由
②不快からの自由
③痛み、外傷や病気からの自由
④本来の行動する自由
⑤恐怖や苦痛からの自由

埼玉県が具体例を含めて掲載しているものをご紹介▼

補足が必要そうなものだけ簡単に紹介します。

補足ー ②「不快からの自由」

これは、暑い寒いなどの気温の問題や湿度の問題、繋ぎ飼いのような物理的な不快を与えず、適切な環境を用意してやることです。

たとえば、乳牛は繋ぎ飼いが問題視されています。(検索したらすぐに出てきました)

牛乳パッケージの「広い草原と牛」のイラストがいかにイメージに過ぎないのかがわかります。「イラストはイメージです」ではなく「イラストはフィクションです」と書く必要がありそうですね。

補足ー④「本来の行動する自由」

これは、動物が生来の生態・習性等に従って生きることのできる環境を作りましょう、ということです。▲で載せた埼玉県のページにはこうあります。

(1)各々の動物種の本来の生態や習性に従った自然な行動が行えるようにする。
(2)群れや家族で生活する動物は同種の仲間と生活でき、また、単独で生活する動物は単独で生活できる。

https://www.pref.saitama.lg.jp/b0716/fivefreedoms.html

補足ー⑤「恐怖や苦痛からの自由」

これは、動物たちに精神的なストレスや負荷をかけたり、痛みを与えてはいけませんよというものです。大昔の哲学者には「動物は機械と同じで痛みなんて感じないし、感情もない」なんて言っていた人もいましたが、もちろんそんなことはありません。

例えば、ブタは非常に社交性のある生き物で知性も高く、きれい好きです。
例えば、泥浴びをしているブタを見て「汚い」と思うのは「人間がそれをやってたら服が汚れるから」という人間目線のものの考え方じゃないですかね。
あれはブタにとっては体温調節や寄生虫を体から落とすために行っている行動ですし、トイレの場所もちゃんと決めてするそうですよ、

「臭い」とか「汚い」って、すごく人間中心的なものの見方なんじゃないかなと個人的には思います。ちなみにぼくも小さいことから泥浴びは大好きです。いつか泥フェスに行きたいです。


|具体例ー「鶏卵の問題」

|大地を踏みしめるための足は、冷たい金網に捕らわれて。
 卵を産むための「道具」になったニワトリの凄惨な現場

工場畜産の問題は、家畜全般に当てはまりますが、今回のお話で登場したのは「鶏卵」についてです。

卵焼き、目玉焼き、オムライス….
私たちが普段食べる鶏卵、すなわち卵の大半は、「バタリーケージ」という環境下で育てられたニワトリたちが産んだ卵です。

バタリーケージとは、ワイヤーでできた金網の中に鶏を入れ、それを連ねて飼育する方式です。鶏のまわりはすべて金網で囲まれています。糞が下に落ちるように床も粗い目の金網になっています。ケージの中には、巣も砂場も止まり木も何もありません。(中略)卵が転がりやすいよう、ケージは傾斜しています。 日本での鶏1羽あたりの一般的な飼養面積は、370㎠以上430㎠未満程度*1。 これは20cm×20cm程度の大きさです。 日本の採卵養鶏場の94.1%*1でこのバタリーケージ飼育が行われています。EUではすでにこのバタリーケージは禁止になっています。欧州委員会の科学獣医学委員会による報告書は、バタリーケージに対して非常に批判的であり、現在使用されているバタリーケージは、その小ささと酷さで、鶏の福祉にとって本質的な重大な欠点を有することが明らかと結論づけています*2。

認定NPO法人アニマルライツセンター 「バタリーケージとは」

映像としてショッキングなので閲覧はお任せしますが、2018年と2019年当時のニワトリたちの様子の動画を載せておきます。「ニワトリはもう、品種改良されすぎてこれ以上改良できない。」とも言われているそうです。
ちなみに、オスは卵を産むことはできないので、オスのひよこは生後間もなくシュレッダーにかけられて殺処分されます。

2018年の動画
2019年の動画

けいにんさんは、ご自身で現場を見にいかれたそうです。
そこで最初に思ったことは、「現場の職員の方もきついだろうな」ということ。
そうです。これを許してしまっているのは、私たち消費者なのではないでしょうか。

消費者の声が上がらないと、こうしてなんともやるせない事件も起こります。

これは、吉川貴盛・元農水相が鶏卵生産大手から500万円の現金を授受したとされる疑惑で、バタリーケージやアニマルウェルフェアが大きく話題になった時の記事です。

|悪者は動物を残酷に扱う企業や農家なの?

この問題については事業者が悪者なのか、というとそれもまた正しくはないと思います。よく考えれば、私たちは、このバタリーケージのおかげで、毎日たくさんの卵を、安価で手に入れることができているわけです。鶏卵業界にのみ、コストと責任を押し付けるのはちょっと横暴なのではないでしょうか。「買う人がいるから、生産される」のです。

そこで私たちができることは、なにも「卵を食べるのをやめる」だけではありません。私たちは消費者として、常に声を上げることができます。
最寄りや行きつけのスーパーで買い物をするときに、お客様のアンケートシートみたいなものがたいていどこにでも置いてあります。
「このスーパーが好きなので、これからも買い物をするために平飼いやケージフリー※の卵を置いてください」と書くことで、すぐにそういった商品が陳列されるようになるケースも往々にしてあります。

ぼくがこの現実を知ったのは高校生の時ですが、それ以来、基本平飼いかケージフリーの卵以外は食べないようにしています。消費者には選択の権利があり、それはちゃんと「一票」として生産の現場に届くのです。

面白い写真がネットにあったので拝借します。
http://turaco.blog.jp/archives/53268962.html

※平飼いやケージフリーの卵とは、いわゆるバタリーケージではなくニワトリたちの福祉に配慮された飼育方法の通称ですが、その詳細や定義についてもいろんな問題があるので、詳しくはこちらをご覧ください▼

「福祉というものは、人間のためのものだから、「動物福祉」という文言そのものを法律の中に入れるは難しい」。
けいにんさんが掲げる「動物福祉推進法」のアイデアを内閣法制局(法律を作る専門集団のようなもの)に持ち込んだ時に返ってきた言葉だそうです。

しかしこれは、国民の中でちゃんと認識を広め、声を上げていくことができれば解決できる問題です。法律の中にも入れていける文言にできます。
私たち一消費者の意識と行動の改革こそが、大切な大切な鍵なんだということです。

■ 声を持とう。
 民主主義を理解するということ。

|「多数決」ではなく「話し合い」

人類が長い時間をかけて獲得してきたもの、その一つが民主主義です。
「みんなのことはみんなで決める」という大原則。
一方で、民主主義とは「多数決だ」と思ってしまっている人もいます。
しかし、単なる多数決ではマイノリティは一生浮かばれません。
けいにんさんは、面白い例を出してくれました。

5人の人間がいて、「ご飯何食べに行く?」という相談をしているケース。
3人はそばを食べたい。でも他の2人は焼肉を食べたい。
シンプルな多数決にすれば、そばが勝ちます。
しかし、5人の中の1人が、重篤なそばアレルギーだったらどうでしょうか。
少なくとも話し合いになりますよね。
みんなで焼き肉にするとか、二手に分かれるとか、そういった方法がとれるわけです。

人は、話し合うことによって議論に妥協点や、双方の納得のいく着地点を見出すことができます。時間はかかるけど、話し合いによって全員に配慮される選択肢を導くことができる。
これが、本当の民主主義の在り方であるべき
だと僕も思います。

A:今日の昼飯何にする? え、ミミズ? おれミミズアレルギーなんだ、、、
B:でも細長いものが食べたい気分なんだよねえ。
C:じゃあイモムシでいいんじゃない?
D:俺は何でもいい。
ABCD:イモムシで決まり!!!
イモムシ:解せぬ。

|崇高で高尚な理念はいらないから

大事なことは、自分の意見を持つこと。軸を持つこと。「政治に参加しなくてもいい。ただ、社会問題には声を上げてほしい。」とけいにんさんは言いました。「社会的弱者のために!」といった崇高な理念や、強い心は必要ありません。ただ、人間みんなマイノリティなので、いつ自分が困った身になるのかはわからないのです。


■ 一人に百歩歩いてもらうんじゃなくて、
 みんなで一歩ずつ歩く。そんな政治を。

ここまでで9,000字超、、、(笑)
大長編になってしまいましたが、最後にけいにんさんからいただいたメッセージを紹介して、終わろうと思います。

|「選挙に行ってください!」
 1票に意味はない?種を蒔くということ。

種を蒔くという気持ちで。

確かに、今の有権者の割合は高齢者の方が圧倒的に多く、現役世代にとっては自分の持つ1票がなんとも意味のないものに思えてしまうかもしれません。しかし、自分達だって当事者だし、いつかメインの世代になる日がやってきます。「そのとき」になってから選挙へ行こうとしても、声を上げようとしても、なかなかうまく動けないものです。
種も蒔かないと花は咲かず、実は実りません。
どうか、種を蒔くつもりで選挙へ行ってください。できれば周りの人たちも引き連れて。

|「ぼくを道具として使ってくれませんか」

けいにんさんのメッセージで特に素敵だなと思った部分です。思い出せる範囲で書き起こします。

ぼくは国会の中で仕事させてもらって、いろんなことを学んできました。その学ぶ機会は、皆さんからいただいた一議席、そして税金によって養っていただいたから手に入れることができた機会です。今度は、その知識を「これがわからないけどどうしたらいいかわからない」「これはいったいどうなっているのか」そういう時に道具として使ってほしいんです。今日のテーマに限らず、いろんなテーマで座談会に呼んで、堀越を道具として使ってほしいんです。

堀越啓仁

これはけいにんさんに関して言えることだけではありません。
政治家とは、議員とは、私たちと変わらぬ1人の同じ国民、市民であり、そんな私たちの代表者です。
「使う」という表現は少し違和感があるかもしれませんが、どんどん議員に質問をして、頼っていいと思います。そして、ちゃんと自分たちの社会を理解して、声を上げ、届かせていく。そうした透明な政治を、システムをちゃんと作っていきたいですね。

■ 感想

いやあ、長くなってしまいましたが、素晴らしい会だったと思います。
三郷市議会議員の佐々木修さんにお話を聞いた時にも思いましたが、「温度のある政治っていいなあ。」と思いました。

政策やマニフェスト、価値観や意見といったものは、それぞれ違っていいし、というか違うべきだし、そこに正解も不正解もないと思うんです。だから政治と民主主義があるわけで。

でも、生きていく中で大変なことがたくさんある。苦しいことも、やるせないことも、許せないことも、いろいろ。目をつぶりたくなるような惨状も何度も目にしてきたし、そのたびに心を病んでしまったりもしました。

特に動物はまさにそれで。
ぐちゃぐちゃになった子猫の死体をいっぱい見つけては埋葬して、くちばしを切り落とされるニワトリの存在を知って、血の海に沈むクジラの眼を見て、それでも笑顔で無関心に生きている人たちがなんか無理になって。強迫生涯になって、受験に失敗して、引きこもって。外を歩けるようになった後も、体のいい自分を演じてきたような節があります。
後ろを振り返ると、目も耳も塞いで、処世術を凝らして、それっぽく生きてきた数年がうつろな笑みを浮かべて転がっているんです。



だからこそ、「なんで社会は変わらないんだろう」「政治家なんてみんな保身と権力欲ばかりで全く頼りにならないおじさんの集まりでしょ」と絶望しかけていたことも何回もあります。20歳になって届くようになった選挙権も、くだらないなと思いながら投票に行っていました。

スーツを着て、マイクを持って、学校や仕事で疲れ切っているところにチラシを押し付けてくる人たち。わんわんと鳴り響くマイクで小難しい単語を連呼しながら、平気で他人を罵る候補者たち。
正直ウンザリだと思ったことは一度ではありません。

だから、こうやって議員さんの方から、一人の同じ人間として等身大に接してきてくれること、目線を同じにして話しかけてくれること、心からの情熱を持って仕事に取り組もうとしていること。こういうのって、すごくうれしかったんです。

正直ぼくは、現代に生まれたくなかったなと思うくらいに、今の社会があんまり好きじゃない。もっと少人数の、互恵的な価値観が当然にあった社会で、自然の一員として生まれて死ぬ、そんな人生が良かったと心から思っています。朝陽に感謝して、動物たちと野を駆け、夕焼けに黄昏れ、月に語らうそんな世界で。
でも、そんなことを言っていても始まらないし、社会はきっと変えていくことができるのかもな、と最近思うことができるようになってきました。

そのために、丁寧な血の通ったコミュニケーションをしてくれる人たちを大切にしたいし、そういう人たちを応援していきたい。

自分もその一人で在りたい。

この、「動物と人間社会」という複雑怪奇な、果てしのない問題の中で、自分だけの生命倫理に出会うための旅を続けたい。

否定や批判はなにも生み出すことはない。誰かを槍玉にあげて、つるし上げればそれで済むほど、社会は簡単にはできていない。

正義と悪の二項対立なんかじゃない。
みんなが限界の中で、必死に何かにすがって懸命に生きている。一人一人に正義と、その根拠がある。

だから、話し合う。だから、対話する。

相手を知ろうと、相手に関心を持つことから。

そのための「間」になれるような緩衝材のような人間になりたい。
そして、常に未来と次世代と命の尊厳を考えられ続けるような人でいたい。

そう思うと、この人間社会も少しは愛おしく思えてくる。

だから、まだまだ知り続けたい。出会い続けたいと思えてくるんです。

そんな風に思って、これからも生きていこうと思います。



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