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【短編小説】ポリごんの手口

 目前を快速電車が線路を蹴るような乱暴な音を立てて通り過ぎていく。
 この荒々しさにして、快速、などという涼し気でスタイリッシュな単語は図に乗っていると思わざるを得ない。速、はまだいい。快、はない。音だけなら暴走列車と聞き違えるほどの武骨なけたたましさでありながら、自分を快いと名乗るのは買い被りすぎだろう。
 そうだ。何よりも、この線路を向こう側でせっせと生きるホームレスたちを軽蔑している。
 全てを失ってもこの世に生を受けた意地を歯を食いしばりながら守り抜き、明日にはあの日に戻れる、いや、あの日よりも豊かな暮らしを手に入れるのだと、小学生よりもジャリ銭を大事にしながら生きるホームレスたちを、騒音で足蹴にしているのだ。
 腹が立つ。許し難い。つい先日までは足蹴にする側だった自分に対しても怒りが湧いてくる。
 ホームレスデビュー。自分はいくら零落しようと野宿はするまいと侮蔑も込めて思っていたが、実際になってみてわかった。誰かと野宿をし、小銭であっても稼ぐ手立てがいくらでもあるこの街、ひいては日本の平和さの有難みを。その環境に甘えることなく、一日一日を外で必死に生きているホームレスたちの苦労と執念を。
 電車は見向きもせずに、騒音だけを投げ付けて去っていく。何度も何度も。いつか鉄道会社も、乗客も、撮り鉄も全員地獄に落ちればいい。
 頭が熱くなった時には、電車は過ぎ去っていた。
 風圧で線路の向こうのすえた臭いが舞い上がる。
 反射的に鼻を覆う。いけない。これから世話になろうという場所の生活臭なのだ。慣れなくては。
 踏切の遮断機が上がる。一車線のみの線路を恐る恐る跨ぐ。そして、その地に踏み入れる。
 生温かい風が吹いてきた。当然臭いも乗ってくるはずだが、不思議に踏み入れた後では気にならなかった。
 取り合えず、歩いてみる。テレビ付きを売りにした安宿の看板が何軒かと、立ち読み客でぎっしりのコンビニ、マジックで殴り書きの出禁リストが貼られているちょうちん居酒屋。大通りには目立ったホームレスの住居らしきものはないが、路地裏を覗くと段ボールの布団や、ビニールシートで覆われた屋台がズラリと軒を連ねている。自転車を蛇行運転する上裸の老人が腐った街路樹に淡を吐き「一ストライク、二ボール!」と叫んだ。何となく治安が悪いのは伝わってきた。
振り返ると、踏み切りを中心に飛び込みを防止するには余りにも低すぎる柵が左右に延びている。見晴らしが良く、線路の向こうのビル群やスーパーが並んでこちらを覗き込んでいるように見える。まるで国境じゃないか。
「アンちゃん、煙草くんない?」
 不意の呼びかけに飛び上がってしまった。振り返ると、ニューヨークヤンキースのキャップに湿った髪を抑えつけた、ごま塩ひげの男性が立っていた。煤けたような白のタンクトップは丸々と肥えた腹で張っている。対照的に腕足は細く、精霊馬の茄子のような体型をしていて奇妙だ。よく見るとキャップのロゴもニューヨークヤンキースっぽい卍だし。しかし、想像するホームレスの体型とは異なっている。臭いはホームレスのそれなのに。
「あ、いや、電子煙草なんで。すみません」
目を合わせずに答えると、男性は腹を抱えてくねくねと笑った。
「電子って、充電なんかできっこねえのに! アンちゃん新入りだろ? 紙煙草じゃないと。この辺じゃ吸えないよ」
「え、なんでわかるんですか」
「だから、電気なんて贅沢なもんねえから」
「そうじゃなくて、俺がホームレスなり立てってなんで」
 何せ今日からなのだ。服だってまだ汚れてないし、シャワーも昨日なけなしの金を使って銭湯で浴びたばかり。通常の所得のある人間と何ら変わりはない風体のはずだ。
 男性はスハスハとまた笑い始めた。何の音かと思っていたら、片前歯が抜けていて、そこから抜ける空気が擦れる音だった。
「なんでって、おれ、何年ホームレスのキャッチやってると思ってんだよ! 顔つきでわかるよ、そんぐらい。無の顔つき。全てを失った顔つき。どうせあれだろ、経営する会社でも倒産したんだろ」
「そんなことまで」
「当たり前だろぉ。アンちゃん上品すぎるからわかりやすいだよ。ついこないだまで贅沢してたってナリしてるもの」
 図星だった。起業するまではよかった。楽しかったのは、学生時代の親友と夢を語り合い、これからの時代はウェブだと息巻いている間だけだった。実務経験なしの状態でマーケティングのコーチングだけの知識で、ウェブコンサルの企業を立ち上げ、現役で商売をしている高齢者のみをターゲットに営業をかけまくった。インターネットが何者かも知らないジジババなら、簡単に仕事が取れるし、高クオリティを求められないと思っていたから。
 舐めていた。冷静に考えればわかることだった。
 高齢者のウェブへの抵抗心は清潔感のある若者が粘れば和らげられると思っていた。しかし、問題はもっと根本にあった。時代はウェブだ、は三十数年も前からの常識だし、想定のターゲットにはもう大手があらかた手を付けていた。
 残っていたのは、パソコンや携帯そのものを持っていない者か、常連客以上の顧客拡大を望まない者、それと電波に過度な恐怖を抱いている者だけだった。
 結果、得られた仕事は身内からが少しと、単発アルバイト代程度の小間使いのみ。挙句の果てには、親友が僅かな運営資金を持ち逃げし今も行方不明。しかし、自己破産をする頭はなかった。社会人経験もない無名大学上がりに多額の起業資金を融資してくれるところなど、ろくな会社なわけがなかったのだ。友人は逃げた親友しかいない。一切の工面のあては絶たれていた。
舐めていたのは仕事だけでなく、人生丸ごとだった。気付くのが悲鳴を上げてからでは、全てが遅かった。
 ホームレスになった、というよりかは、ホームから逃げてきた、の方が正しいかもしれない。借金取りからの隠れ蓑として、人目に付かないホームレスのコミューンで派遣仕事を積み重ね金を貯める。そして、この舐め切った根性を叩き直すつもりだ。血反吐を吐き直すのだ、汗と涙を流し直すのだ。まだ二十代も半ばである体をフル稼働させて、もう一度自分の足で社会に立ってみせる。
 ここまでの転落を思い返せば返すほど、野心は燃え上がった。
「おじさん、この辺の偉いひと? どんなキツい肉体労働でも何でもするんで仲間に入れてください」
 突然の熱意に気圧されたのか、男性は目を丸くしてきょとんとする。再度「お願いします」と頼み込み、頭を下げられるだけ下げた。
 男性は沈黙の後に、噴き出して大笑いした。嘲笑だと一声でわかった。
「アンちゃんどこまで贅沢なんだよ! 仕事なんてあるわけねえだろ!」
「いや、ホントに、何でもするんで」
「だから仕事がそもそもねえんだよ! 日雇いの仕事探してんなら、ここじゃねえぞ。ここは空っぽ」
 仕事がない? それなら、ここで暮らしているホームレスたちはどうやって食っているのだろう。自分が新参者だからと、簡単には仕事を紹介しないつもりなのだろうか。
「空っぽってことはないでしょう。年寄りができない仕事も俺なら全部できますよ」
「しつけえな!」
 突然怒鳴った男性の大粒の唾が、散弾銃のように降りかかる。
「おめえどうせ人間舐めて会社潰したクチだろ。闇金のカモにされて、ツレにも裏切られて、にっちもさっちもいかなくなって『そうだ! ホームレスになれば怖い人にも見付からずにのんびりお金が稼げるぞ!』ってか、坊ちゃんがよお! ホームレスまで舐めてやがる!」
 じりじりとにじり寄りながらその巨体から放たれる怒声の連続に、腰を抜かしてしまった。またしても図星で、心を抉られ、泣きそうになる。
 ぺちゃ。頭に湿り気を感じた。「二ストライク、二ボール!」と叫びながら上裸の老人が自転車をうねうねと走らせ去っていく姿が見える。
 淡を吐きつけられたらしい。惨めだ。先程までの野心は、見知らぬ男性に怒鳴られただけでポッキリ折れてしまうものだったのか。意志薄弱な自分を見付けて、さらに惨めな気持ちになる。空っぽなのは俺じゃないか。
 男性が急にしゃがみ込み手を振り上げる。咄嗟に目を瞑る。殴られる。殴られてもしょうがない。
「だが、舐めているところが、良い」
 思いもよらぬ穏やかな口調に目を開けると、男性が柔和な笑顔で目を細め俺の両肩に手を置いていた。笑うと恵比寿様によく似ている。案外手の平も温かい。
 それでも急な優しさに戸惑わずにはいられない。
「舐めてるのが良いって、意味が」
「つまりな、アンちゃんはホームレス向きだってことだよ。ホームレスの才能がある」
 妙な褒められ方だが、才能があると言われて悪い気はしない。
 先程とは打って変わって別人のような口調で男性が続ける。
「仕事はないが、ここにいる連中は皆仕事をしなくてもいいその生活に満足している。コンビニもドヤも飲み屋もあって、そのどれもが毎日バリエーション豊富な美味い食いモンを廃棄してくれるこの環境は、ムカつく上長に従事しててめえの感情を無理やり抑圧し、汗水たらしながら働くことがいかに無駄なのかってことを教えてくれるんだ。
人生を舐めてるってのは、その環境を十二分に堪能できる素質があるってことだ。舐めてる奴の大抵は何事にもやる気がないか、やる気が短時間で尽きちまう。しかし、この環境はそれを肯定してくれる。やる気なんてなくたって楽できるんだからな」
男性は流暢だった。今まで何度も同じ文章、同じ言葉の羅列を唱えてきたのだろうと思えた。それを無機質に感じる反面、じわじわと、今までのしがらみから解き放たれたような快感を覚え始めていた。
「アンちゃんはここまで散々頑張ってきたよな。そんな苦労人にこそ、ここに足を運べたってことはラッキーだ。これからずっと、自由気ままというご褒美を受け続けられるんだからな。辛い思いばっかり、損ばっかりしてきた奴にだけ与えられるスローライフだよ」
 舐め切って生きてきた自分が苦労人、損ばかりしてきたのは自分のせいだと叩き付けられたのにだからこそご褒美が得られる――辻褄の合わない言い分だということはわかっていた。なのに、大量の情報を一気に詰め込まれたせいか、ぼんやりとした頭には、男性の言葉が救いのように感じられた。
「よくやってきた。これからよろしくな」と男性は立ち上がって腰を抜かしたままの俺に手を差し伸べる。
 その手を掴むと、俺よりもずっと強い力で握り返してくる。なんだか、人生のゴールを迎えたような心持ちだ。
「アンちゃん、名前は」
「あ、川村です」
「苗字なんていらねえ、下の名前だよ! 苗字語ってるといつまでも過去に縛られるぞ」
「え、徹です」
「名前なんてどうだっていいんだよ! じゃあアンちゃんは若社長上がりだから、『ベンチャー』な。ん、社長下りか? まあどうでもいいか」
 そっちから名前聞いてきたのに。いつもなら出かかる言葉をスッと吞み込める。ベンチャーか……馬鹿にされているような気がするが、なぜかここにきてものの数分で愛称を付けてもらえた嬉しさの方が勝っている。
 男性との壁が薄くなった感じがした。俺は尋ねる。
「おじさんは名前、あ、いや、なんて呼ばれてるんですか」
「…………え、おれのこと言ってる?」
「おじさんと俺しかいないんで」
「おれか。おれはな、この辺じゃ『ポリ』って呼ばれてる。だから『ポリごん』でいいよ。ほら、おれの体つきってこう、ごんって感じだろ」
「じゃあポリさんは」
「ポリごんだ!」
「すみません、ポリごんさんはホームレスになる前はお仕事何されてたんですか」
「警官だよ」
「警官?」
「現職だよ」
「現職の⁉」
 快速電車がまた、俺とポリごんの髪をなびかせて過ぎて行く。頬を張るような風圧と、耳を劈(つんざ)くような鉄の擦れる音、それを全て巻き込み押し潰す乱暴な音を転がしながら。
現職の警官がどうしてここに。しかし、格好は明らかにホームレスのそれだ。治安の悪そうな街だから何かしらの潜入捜査という可能性も……にしては目立ちすぎている。ホームレスの影がない大通りに自分から出てきて大声で捲くし立てている時点で、街のちょっとした有名人になれる。
 そういえば、ホームレスのキャッチだとか言ってたな。副業なのか、趣味なのか。いずれにしても目的がわからない。
「うるせえ! 耳障りな音立てやがって! 何べんも何べんも!」
 ポリごんが過ぎ去った快速電車の背中に向かって、地団駄を踏みながら怒鳴っている。
「何が快速だ、身の程知らずが! 快さの欠片もありゃしねえ」
「そう、そうですよね、図に乗ってますよね!」
 思わぬ共感に心が躍って、先程までの逡巡が吹き飛ぶ。
 誰よりも何よりも、俺を嘲笑っているのが快速電車である気がした。起業してからだってすし詰めの満員電車に苦しめられた記憶しかない。中も外も快速とは程遠いのだ。ポリごんの言う通りだ。身の程知らず。あんな鉄箱、今すぐにでも脱線すればいいのに。
「おお、便べんちゃんもそう思うのか。同志だな。便ちゃんみたいな若モンを長年待ってたよ」
 ベンチャーじゃなくて便ちゃんと呼ばれてたのか。歯が少ないから聞き取れなかった。
 しかし、何かを期待されていて嬉しくなる。なんだ、思い返せば、ここに来てから嬉しいことばかりじゃないか。初めこそ変人に声をかけられてうろたえたが、ポリごんは見ず知らずの俺に声を荒げ全力で叱咤をし、優しく激励をしてくれた。その情の厚さに、ポリごんとの距離は他人以上のものになっていた。
 自分には価値がないと叩き付けられていた社会での毎日。死んだ方がマシだと何度も自殺を考えるも、試みることさえ怖くてできない自分に失望し続けた毎日。
ポリごんのいるこの地で労働という概念を捨てて気ままに暮らす方が、ずっと正解なのかもしれない。
 ポリごんは、また柔和な笑顔で言葉を授けるように言った。
「なあ、便ちゃん、おめえならこの地の王になれる」
 現実世界では聞きなれない、王。ましてや、自分に向けられる言葉なわけがなかった。
「他んとこと違って、ここのホームレス界隈にゃヒエラルキーが存在しない。おれが偉いとか、おれの場所だとか、そういう社会にはあるもの、一切ないんだよ。だから本来は、王なんて位づけんのもおかしいんだがな。でも、便ちゃんには若さ溢れるエネルギーがある。頭も多分ここいらの奴らよりも大分いい。飯はたらふく食えて、寝るだけ寝る王様みたいな生活が便ちゃんなら叶えられる」
 生唾を飲んでいた。俺が王になれるチャンスなんて人生何周すれば巡ってくるだろうか。それがいま目の前にある。
「どうだ? なる気はあるか」
 俺は迷いなく頷いた。何回も頷いた。
「そうか、嬉しいよ。おれは便ちゃんと会うためにキャッチをずっとやってたんだな、うん。そうと決まれば、王位継承だ」
 興奮に鼻息荒い俺を尻目に、ポリごんは穏やかな表情で右ポケットをまさぐった。
 真っ黒い大きなパズルピースのようなものを取り出し差し出す。
 一瞬、それが何か理解できなかった。拳銃だった。
「えっ」と反射的に声が漏れる。体が勝手におののく。ポリごんの表情は変わらない。
「こりゃ王冠みたいなもんだよ。治安を乱すようなホームレスがいたら、こいつで脅せ。っつっても、そんなホームレスいねえけどな。それにだ、生きる気力がねえやつに死をネタに脅しても効き目はゼロだ」
「いや、え、なんであるの」
「だから、現職の警官っつったろ」
 訳がわからず、身振り手振りが意味なく大きくなる。
「じゃあ、じゃあ、ホームレスじゃないんですか」
「ホームレスだよ」
 混乱を解くための問いがさらなる混乱を呼ぶ。夢でも見ているのだろうか。
 あたふたと言葉を探す俺の様に、ポリごんが唾を飛ばして笑い出した。
「わけわかんねえだろ、わけわかんねえだろ! 正常な反応だよ、それが。面白えなあ。誰に話してもパニック起こすんだよ。頭から煙ふしゅーって」
 大きなだみ声がさらに頭を揺らす。ポリごんはひとしきり抱腹絶倒し尽くすと、「これあるとパ二くっちゃうか」と笑い疲れた声で拳銃を仕舞った。
「今日は非番なんですか」
 混乱の果てに出てくる言葉は、大体どうでもいいことだ。それが一番出てはいけないタイミングで出てしまった。
「ばか、業務中だよ。非番の時に拳銃持ち出したら大問題だろ」
 民間人に拳銃を授けるのも十分大問題だと思ったが、それよりも聞きたいことが山ほどある。
「ホームレスでは、あるんですよね」
「そうだよ。だからよ、路上から交番に出勤して、また路上に帰るっていう生活だな」
「それ、いいんですか」
「知らねえよ! でも八年これしてるけど何も言われたことねえぞ」
「というか、賃金貰ってるんなら、それで暮らせるんじゃ」
 ポリごんは「まあまあ」と言葉を制して、俺の肩を何度か叩く。
「ゆっくり説明していこうな。何せこれからおめえはおれと代わってここを統べていくんだからな。便ちゃんにだけ、話してやろう。トップシークレットな」
 ポリごんは、どうみてもフィルターだけになったシケモクを拾うと、ライターを付けるジェスチャーをしながら俺を見つめる。
「すみません、電子煙草なんで」
 上裸の老人がまた痰を線路に吐き出した。
「二ストライク、三ボール!」
 叫びながらうねうねと自転車で路地裏に入っていく老人を、二人で目で追う。
 ポリごんはフィルターを咥えたまま舌打ちをすると、悔し気に口の端を下げた。
「瀬戸際だな」
「え、瀬戸際?」
「試合だよ。二ストライク、三ボールっつってただろ。おれ賭けてるんだよ、今バッターやってる方に」
「あの人も知り合いなんですか」
「まあ、なんつうかな、警備員みてえなもんだ。この辺の。んなこたあ、どうだっていいんだよ。ここからはトップシークレットな、トップシークレット」
 状況が何も呑み込めていない。しかし、ポリごんが良い人、ここでの生活が向いていそう、この地で俺は王になれるかも、という微かな喜びだけは確かだ。
ポリごんはシケモクをプッと吐き出すと、それが栓だったかのように話し出した。
「この大通りを五、六分歩いたところの角に汚え交番がある。おれはそこの巡査だ。八年前にここに転勤してきてな、見てわかるとおり左遷だよ。
 つっても、マズいことしたわけじゃない。おれな、警察庁上層部の旦那なんだよ。こんな体たらくでもまだ籍には入ってる。当時はこんなメタボ豚でもなかったし、歯も全部あったぞ。
 恥ずかしい話、仕事は大して出来なかった。国よりも、家庭を守りてえって思ってたからな。でもな、何が気に食わなかったんだか、嫁さん、不倫しやがったんだよ。それも同じ警察庁内でな。
 おれはなけなしの尾行技術で、不倫の証拠を押さえた! 嫁さんに言ってやったよ『亭主飼い殺しにしておめえは若えのとお楽しみってか』ってな。
 その週に辞令が出た。当然、不倫なんてなかったことになってたよ。籍はそのまんま。世間体はあいつの、いやキャリア組のプライドだ。バツなんて許さねえのさ。
 おれも便ちゃんと同じでな、ここに飛ばされた頃はギラついてた。町の治安を大改造して、検挙しまくり、犯罪一掃して、おれも上層部に上がってぶん殴ってやろうってな。
 舐めてたよ。大舐め。そもそもこの町に犯罪なんてなかった。不潔だが平和。だって、みんな死んでるんだもんよ。生きちゃいるが死んでるんだ。
 だからよ、当てつけでおれもホームレスになってやろう、おめえの捨てた男はここまで落ちぶれたぞ、町の警官がこザマじゃ犯罪者で溢れかえるぞ、って。当然全部効果なし。嫁さんの中にまだおれへの関心が残ってると思っていた自意識過剰さを憎んだよ。
 しかしな、しかしだぞ、ただひとつ、儲けたモンがあった。ここの暮らしが楽園だってことだ。
 ホームレスをやってみてわかった。平和には平和の理由があったんだ。ここじゃ生きようとしなくても生きられる。
 だから、俺はホームレスのキャッチを始めた」
 私怨だった。想像以上に。俺の倒産と比べたら、屁でもないじゃないか。しかし、怒りは不思議と湧かなかった。ポリごんのしていることは、この楽園を広めること、立派な慈善事業だ。絶望した人間に楽という名の希望を与えているのだ。
「俺も協力します。ここの暮らしは社会に蝕まれた人間の毒抜きができる、本当の楽園かもしれない」
「便ちゃん、嬉しいが、話は最後まで聞け」
 ポリごんの目の色が変わっていた。表情は柔らかいままなのに、目は血走っていた。
「おめえは楽園を勘違いしてる。そんなもんじゃない。掃き溜めだよ。人間の掃き溜め。おれは、こいつを利用しない手はないと思った。
 便ちゃんには、これからおれの意志をばっちり受け継いでもらわなきゃならねえ。だから言うがな、おれがキャッチを始めた理由は、国力の低下だ。
 嫁さんへの愛はとうの昔に尽きた。今は憎悪しかない。しかし、おれひとり、僻地の巡査ひとりあがいても、何一つ報復できない。
 だからおれは、警察ごと、国ごと潰すことにしたんだ。
 人生終わった奴をこの楽園に呼び込んで、国の荷物を増やしてやるんだ。わかるか、便ちゃん。人間は死ぬより、死んだように生きている方が国の負担なんだぞ」
 ポリごんは振り返り、遠くから走ってくる快速電車を眺めた。線路脇に長く伸びる柵は低く、吹く風も全て通す。
 突風がポリごんの帽子を吹き飛ばした。
 余りにも無謀だ。途中からの言い分は妄想の暴走だ。違う、端からすべて妄言だったように思える。
 頭ではそう理解しているのだ。なのに、どうしてだ。ポリごんの立ち向かう魂が輝いて感じる。違う、どうして、違う。
「スケールでかくて驚いただろ、便ちゃん。国対おれ! 左翼、右翼、おれ翼だよ!」
 ゲラゲラと笑いながらも、依然快速電車から目を離さない。少しづつ、あの音が近づいてくる。
「でもなあ、これからは国対便ちゃんだ。頼んだぞ。おれは嫁さんに大打撃を与える秘策を思いついたんだ。
 人身事故の損害賠償はどこに請求がいくか知ってるか?」
 スッと笑みが消えたと思うと線路に歩き出す。
 キャッチをする理由はわからなくても、この意図だけはわかった。
 多額の賠償金を妻に当てつける気なのだ。
 私怨の晴らし方はどうでもいい、もうポリごんが命を捨てようとするのを見過ごせる状態ではなかった。前に立ち回り肩を抑える。手汗が滲んでいた。
「これだけ講釈しといて自分は死ぬって意味が――」
 ポリごんは躊躇なく拳銃を向ける。ここに来てから初めて見るポリごんの表情。赤いような、青いような、黒いような、言い表せない色の無表情。
「生きる気力がありやがる奴には効き目があるんだよな」
 パンッ。銃弾を俺の股の下に撃ち込む。腰が砕けて動けなくなる。
 ギリギリ、キーキー、ゴロゴロ、バラバラ――快速電車は目前だ。線路に近付くポリごんの姿に気付いていないのか、汽笛をならすことなく、速度も落とさず、迫り来る。
「ゆみこーーーーーー!」
 妻の名らしきものを叫んでポリごんがは跳ねるように走り出した。
 姿を追って振り返るも、高鳴る鼓動から意識をそらすように目を閉じてしまう。
 言葉は奇声にしか変換されない。
 もう無理だ。
 ぶつかる。

目前を快速電車が線路を滑るように通り過ぎていく。
 清々しい風が、粟立った汗を冷まし、涼しい。
 無機質な音は、無機質ながらに鋭く、爽快だ。
 それは紛れもなく、快速だった。
 目の前にあったのは、線路の手前、トドのように横たわるポリごんと、倒れた自転車、そしてそそくさと自転車のチェーンを直す上裸の老人だった。
「三ストライク、バッターアウト! チェンジ!」
 老人は自転車を立て直すと飛び乗って、またもや蛇行運転で去っていった。
 ポリごんはごろんと仰向けになると、盛り上がった腹に大波を立てて揺らしながら天に叫んだ。
「生きちまったよぉ! また、、生きちまったよぉ!!!」
 涙とも汗ともつかない液体を顔中から噴出させている。きっと、それはポリごんが空に飛ばした自分の唾だろう。
 生きる気力がない方が生きやすい。ここはそれを肯定してくれる。
 死んでもいいのだ。生きてもいいのだ。どうでもいいのだ。
 俺は腰が砕けたまま、横たわり、腕を枕に眠りに就く。
 快速電車に鬱憤を感じることはもうなさそうだった。

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【罪状】妨害運転罪
上裸の老人が常習的な自転車の蛇行運転をしていたため。

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