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1970代生まれが、今の若者に言ったら驚かれる当時の「当たり前」

70年代生まれのアラフィフ(団塊ジュニアという言葉も死語ですね)です。東京で生まれ育ったのでその当時のお話をさせていただきます。(地域ネタも入っておりますがお許しください。)
*このコラムは筆者がQ&Aプラットホーム「Quora」内で発表し人気のあった内容を、少し編集をしてからnoteに掲載したものです。

●私たちの東京

小学校の頃「私たちの東京」という社会科の教科書があり、夢の島(今の江東区の埋立地エリアはゴミ処理場だった)は私たちのゴミで作られているという項目があり、本当に洗濯機やら冷蔵庫、家具などがそのまま埋まっている写真があった。リサイクルと言う言葉がまだきちんと理解されて無かった時代。

●家庭を顧みない父親

父親は仕事中心で家庭を顧みず(帰宅時間も遅く、猛烈なサラリーマン社会だった)、いつも母と子供だけで夜ご飯を食べ、子供は父親にはほとんど会わないで生活するという母子家庭のような家庭が非常に多く、それが社会問題になっていた。日本の経済を成長させていくモーレツサラリーマンの集団は「日本株式会社」と呼ばれた。

●清楚で気品のあるお母さん

女優・松原智恵子 さんのような雰囲気の、綺麗でクラッシーな感じの上品なお母さんがたまにいた。(例えば、下記KFCのCMで登場する宮沢りえさんのお母さん役の方みたいな人です。) 昨今は中々そのような人を見ません。

●リボンの騎士

小学校の頃、「リボンの騎士」という手塚治虫の漫画(少女漫画の走り?)を学校でよく観た。主人公(男性)は少女の声を話すのだが、その特徴のある声がこびりついていた。(→ご指摘をいただきました。リボンの騎士の主人公は、男の心と女の心を持つ王女(王子)でヒロイン兼ヒーロー。男装の麗人となって悪人と戦うという、当時の少女漫画としては斬新な内容。)

●キャンディキャンディ

キャンディキャンディ、魔法使いのサリーちゃん、そしてガンダムが大ブーム!キャンディキャンディの他に、フランダースの犬、母を訪ねて三千里など、子どもの心の成長にプラスになるようなアニメが数多くあった。

●小学生の必須購読雑誌

学研の「学習」と「科学」という小学生向けの雑誌があり、多くの子供が購読していた。意外と家庭でも研究や勉強をしていた。(因みに現在の学研の本社は五反田にあるが、当時は陸の孤島・大田区上池台にあった。)

●文部省特選「典子は、今」

「文部省(当時の呼び方)特選」映画をよく学校で観た。特に忘れられないのは「典子は、今」というドキュメンタリー映画。当時サリドマイド剤を服用した妊婦から、手や足のない子どもが生まれると言う障がいが話題になった。

●戦争経験者

まだ当時は戦争や空襲を体験した方が多くいて、当時の体験談や平和の大切さを教えてくれる人が数多くいた。学校にも来てくれて話をしてくれた。

●美しい日本語

本当に崇高で美しい日本語を話す高齢の方がかなりいた。また和装の人もよく見かけた。

●子どものしつけ

通勤電車の中では、小さな子供には靴を脱がせて座らせる人が結構いた。(後ろ向きで景色を見る際に靴が立っている人に当たってしまうため。)あと子供は立って、座らせない親が多くいた。(子供は元気なんだから座らないで立ってなさい、と。)

●中学のお受験ブーム

「中学から私立へ」というお受験ブームの走りがあり、四谷大塚と言う学習塾が一世風靡した。その後、日能研が誕生。反面、お受験とは真逆の荒れ放題の学校も数多く、中学や高校の中には、窓ガラスが割れた学校や、学校対学校の乱闘なども存在した。(東京の話です)

●いじめ

「いじめ」は当時も社会現象となっており、子供の自殺という衝撃な事件がメディアを賑わせていた。特に印象に残っているのは中野区にあった富士見中学校のいじめ自殺事件。いじめにあっていた子供に対して葬式ごっこをし、教師もそれに加担していたという極めてセンセーショナルな事件であった。

●出稼ぎ季節労働者

冬になると青森県から東京へ出稼ぎに来る中年男性が多くいて、主に地下鉄工事などの肉体労働に携わっていた。(農家の方が多く、家族を残して単身で東京に来てお金を稼ぎ、春になると青森へ帰っていった。)

●行商のお婆さん

幼稚園や小学校の頃は、行商のおばあさんをよく見かけた。主に千葉・埼玉など近隣農家の方が東京へ毎朝出勤し、色々な街角で野菜を売っていた。

●世田谷区は田舎

世田谷区内の生活道路の両脇にはまだドブがあった。当時もお屋敷街が多かったが、同時に畑や雑木林が至る所にあった。因みに隣の川崎市やちょっと郊外にいくと、都市ガスではなくプロパンガスがまだ一般的だった。

●ボットン

ボットン便所の家庭もまだ結構ありバキュームカーも見かけた。(小学校中学年ぐらいから急速に水洗が主流になっていった)公衆便所(駅の中も含めて)が異様に汚かった。トイレットペーパーが装着されておらず、ちり紙を販売機で買わなければならなかった。昭和50年代になって水洗便所が急速に普及し始めた。

●冷房がない!

クーラー(今でいうエアコンだが、暖房機能はない)はまだ高級品で、一軒に一台という家が多かった。電車も冷房車が普及し始めたのは小学校の高学年以降。(東京の夏はそこまで暑くなかった。30度を越えると大騒ぎ。)基本は扇風機。

●Nゲージブーム

Nゲージと呼ばれる鉄道模型が大流行。(自分も鉄オタ!)同時進行でゲームウォッチが流行り始め、その後にファミコンが登場した。(マリオゲームが日本中で大フィーバーに)

●防災頭巾

小学校の頃、東京でちょっと大きめの地震が頻発し、もうすぐ関東大震災が起こるかもしれないと話題になり、人々の防災への意識が一気に向上し、防災頭巾が流行した。

●アレルギー性鼻炎

花粉症という概念や症状がまだ認識すらされておらず、全て「アレルギー性鼻炎」と診断された。

●多摩田園都市

田園都市線の二子玉川(当時は二子玉川園)と渋谷間はまだ建設途中で、誕生後は新玉川線と呼ばれていた。当時の田園都市線は大井町始発でつきみ野行きが多く、こどもの国行きもあった。ちなみに田園都市線沿線はまだ住宅が少なく山林も多かった。沿線を舞台にした恋愛ドラマ「金曜日の妻たちへ」が一世風靡して一気に開けていった。(そのドラマの制作に東急電鉄が加担していて沿線のPRになっていたとは..。大人になってから知りました。)

●アメカジとチーマー

中学生の頃の渋谷はアメカジブーム(アメリカンカジュアル)、高校時代の渋谷はチーマーブーム(革ジャンやブーツでキメタ若者がワンサカセンター街に集う) 、当時のおしゃれ高校生〜大学生の間ではラルフローレンが大流行。ラルフローレンのボタンダウンシャツ、紺のブレザー、茶のローファー靴という綺麗目ファッションがトレンドになった。

●初めての海外旅行ブーム

中学から高校生の頃にかけてはバブル時代。海外旅行に行く日本人が大量発生した。お土産でよくもらったのは、フランスやアメリカなどから帰国した人からは香水のミニボトルセット(5つぐらいの有名な香水が入っていた)、ハワイ帰りの人からはABCマートのTシャツとマカデミアナッツ。因みに飛行機の機内ではタバコを吸うことができた。

●ローカルネタ(小田急線)

中学・高校は小田急線ユーザーだったのだが、当時の小田急線(下北沢〜和泉多摩川)はまだ地上を走っており、複々線化事業(高架化)のために土地を買収していて、車窓からは「小田急の高架化反対」の垂れ幕をよく見かけた。

ちなみに小田急線の喜多見駅前と言う超ローカルな場所になぜかベネトンの店舗があった。(ニッチネタですみません)

新百合ケ丘駅の周りは一面が原っぱで、西武百貨店建設予定地と書かれた看板が長らく立っていた。周辺はまだ雑木林や山があった。(ニッチネタですみません)

●成城石井

スーパーマーケットの成城石井はまだ成城学園駅前の1店舗のみで、石井家が経営するローカルスーパーだった。(総菜や弁当が評判だったが、近隣以外には知られていないスーパーだった。)高級スーパーは、紀ノ国屋と明治屋、元町ユニオン、そしてシェルガーデン(今のGARDEN JIYUGAOKAの前身)

●日本橋東急と渋谷の文化会館

日本橋には東急百貨店があった。(現在のコレド日本橋)渋谷には東急文化会館があり、プラネタリウムがあった。(現在のヒカリエ)

●スエヒロ

銀座といえばスエヒロ。松坂屋(GINZA SIX)の裏手にレストランがあり、とても繁盛していた。ステーキといえばスエヒロ、という時代だった。当時はステーキをビフテキ(ビーフステーキの略)と呼んでいた。

●井の頭線(マークシティ)

井の頭線の渋谷駅は当時本当にボロくて、ガード下はサラリーマンの聖地のような呑んべい横丁になっていた。(今でいう神田のガード下のような)

●寂しい恵比寿駅

恵比寿駅はまだ寂しい駅で、まだサッポロビールの工場があり、敷地内に寝台列車をレストランにした店があり繁盛していた。今のガーデンプレイス口は町工場街でおしゃれさとは程遠い雰囲気だった。(代官山方面は当時も閑静でおしゃれなエリアでした。)

●横浜ドリームランド

大船の近く (横浜市)には「横浜ドリームランド」という広大な遊園地があった。(ホテルエンパイアという五重塔のホテルとドリームランド線というモノレールの廃線があった。)
横浜市のテーマパーク「横浜ドリームランド」を懐かしむ

●マックとダンキン

マクドナルドでチャーハン(焼売や焼豚も)やカレーライスを販売していた。ダンキンドーナツもあった。

●バタークリームのケーキ

小学校の頃は、ケーキはまだバタークリームを使ったケーキが主流だった。その後、生クリームのケーキに変わっていった。洋菓子のCMといえば不二家かコトブキだった。(今のようなオシャレ系はなかった)

●クリスマスはKFC、誕生日はマック!

クリスマスイブに食べるKFC(当時はケンタッキー)のバーレルはご馳走だった。小学校の頃は、マクドナルドで誕生会を行うことが一種のステータスだった。(ハンバーガーは今のような再生紙の包装ではなく、プラスティックでできた箱のようなパックに入っていた。)当時はマクドナルドやコカコーラのマーケティングの一環としておまけ(ノベルティ)を子供に売る手法が流行っており、マクドナルドのけん玉や、コカコーラのキーホルダーなどが大流行した。(そうやって子供を徐々に洗脳し、大人になった時には優良顧客に 笑)

●待ち合わせは命懸け

もちろん携帯もネットもなかったので、人との待ち合わせは命がけだった。何時間待っても現れないこともあり、泣いたり色々感じながら家路についたりした。駅に待ち合わせ用の伝言板があり、友達への連絡に使うことができた。初めて出会った人同士だと、実家の電話番号を交換したり、日にちと次回会う場所(喫茶店など)を約束したりしたが、結局そのまま会えずに終わってしまうことが多かった。その時の寂しさを手紙に書いたり。またそのような想いは歌や映画やドラマにも反映された。

後にポケベルが誕生。待ち合わせの不便は少し解消された。(下記は当時のドコモ・ポケベルのCM)

●オレゴンから愛

倉本聰さん原作の「北の国から」は人気ドラマだったが、同じ頃に「オレゴンから愛」というドラマもあって、実はそちらもかなりの名作。日本人一家がオレゴン州の田舎で農業を始めるという設定で、主人公の少年の現地での生活の苦労や成長を描いていた。(おすすめです!)

まだまだありそうですが、一旦このあたりで。。

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