見出し画像

ウィトゲンシュタインの愛人

昼下がり、潮の匂いがあたりに漂う。雨が降る気配。

***

海のそばを散歩する。波が高い。沖合、サーファーたちが等間隔に並ぶ。押し寄せた波が私たちの足下を奪う。風は全く吹かず、湿り気で息が苦しい。

全ての足跡が波に消えたとき、読みかけの『ウィトゲンシュタインの愛人』のことを思い出した。

誰もいない世界に独り残された女性が、タイプライターにキーパンチする言葉の連なり。不確かな記憶から次々と他の記憶をつなぐ連想の力をよりどころにして、文章は前進と後退を繰り返す。複数のモチーフを反復しながら。

唐突で、筋が通らず、とりとめがないと感じるかもしれない。独りよがりな文章のようだが、読んでいて不思議と癒される。混沌、その散らかり様が、まるで私たちひとりひとりの頭の中に似ているせいかもしれない。この連想がいつか途切れてしまったら、きっと彼女はもう……。そんな緊張感も行間から漂う。

誰かのために書かれた文章より、自分だけのために書かれた文章の方が、誰かの心にしぶとく残るのかもしれない。そういう美しさもある。そんなことは、この本を読むまでは考えたことはなかった。自分を正気につなぎとめるために、書かずにはいられなかった文章。巷にあふれているのかもしれない。目にしないだけで。

(岸政彦『断片的なものの社会学』に、近しい話があったことを今思い出す。Web上で偶然見つけた、誰もアクセスしていないブログの記事について書かれた文章……。)

***

帰り、川上の橋を渡ると、あめんぼ欲しい?という声がする。誰もいない。

夕暮時にそこを一人で渡ると
橋の下からカワウソが「今何時ヤー」と子供の声で聞く。
またある時は、女の姿で橋によりかかっており、その姿は手拭いを口にくわえ、手を隠している。
いずれの時もそのまま通り過ぎれば良いが
少しでも立ち止まったりすると必ず履物の片一方をとられているそうだ。

杉浦日向子「其の三 橋のカワウソの話」『百物語』新潮社

あめんぼ、たくさんいるから一匹あげるよ。また声がした。足下から。橋の下をのぞくと、海パン姿の子どもたちが川遊びをしていた。川の生き物を虫取り網で捕まえているようだった。

***

SmartNewsで今日表示されたニュース。

・コンビニ24時間営業強制は独禁法違反の恐れ 公取委が大手8社に改善要請[毎日新聞]
・ベラルーシで抗議デモ参加の学生40人拘束、警官と衝突[CNN.jp]
・台風9号の暴風域が長崎・五島列島に 最接近の今夜は九州でさらに風雨強まる[ウェザーニュース]

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?