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自虐は一番の自己愛

毎春思う、飽きる前に散りゆく桜は思考をもたないはずなのにどうしてそう賢いんだ。

「春が二階から落ちてきた」と、伊坂幸太郎の小説の冒頭句がよぎる。

出来ないことばかりに目が行くボクら人間(狭義で言うとに日本人)は、自虐の日々を噛み締める時も多々あるだろう。

裏を返すと、いや裏の裏つまり表に戻る訳だけど、自虐は自己愛だ。

数年前まで自虐思考に陥る要因は、いわゆる自己肯定感の低さと自己承認欲求の高さという本当の意味での負(ネガティブという意味)からくる、
"負の相関関係"だと信じ切っていた。

つまり自信は無いくせにやたら周りや社会に認めてもらいたいっていう稚拙なアダルトチルドレン。

けれど鬱病の経験や他者を関わりの中で、自虐の本当の理由の輪郭がはっきりと見えてきた。


どん底まで落ちてほぼ開き直りに近い自虐を繰り返す自分

そんな事ないよの一言欲しさに口を大きく開ける鯉みたいな人々


この両者を否応なく見せつけられてきた。
見せつけられてきた感覚になれるくらいには、何故か自分の中には第2の人格みたいなものがあったのかもしれない。






自分を可哀想と思えるという事は、それだけ関心や愛がある確固たる証拠であって、それはむしろ誇るべき事だと思う。

自分が大好きで大切で自己愛が強いという現象は、その人自身を強くする起爆剤になりえる。

自己愛から自己肯定感が高まり、やがては自信というパワーに成長する。


最たる例として、自分の子供が学校などで嫌がらせを受けていた場合、確実に他人の子供よりも可哀想だと悲観する。

理由は明白で、それだけ子供に愛情を抱いているからだ。

自虐に変換するとそれだけ自分自身に愛情を抱いているという事になる。

つまるところ、
こんな自分が愛情を抱ける程、自身には何か魅力があるとも捉えられる。

どの角度から物事を捉えるかによって、負の意味から正の意味へ簡単に逆転してしまう。


極論的にマクロな視点で考えると、
東洋人は内向的が故に悲観的に閉じ籠り自虐する事で自己を愛してきた。

西洋人は外交的が故に楽観的に振る舞い自慢する事で自己を愛してきた。

東洋人のボクらには自虐という形で愛する方法もあるって事を知っておいてほしいし、自虐できたならあと一歩。



どうか積み重ねてきた歴史や歩んできた人生を軽視しないでね。

それではおやすみなさい。

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