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当事性を奪う者たち~ひきこもり界隈の動き

※あとがき以外は無料で読めます。

話のネタに、吉祥寺くんだりまで「ひきこもり」関係のトークセッションを聞きに行きました。私もたいがい物好きだな……。


名古屋で支援活動にたずさわる山田孝介さんと、都内で当事者活動をしているぼそっと池井田氏とのトークセッションでした。

山田さんのおかげで、東海と関東では活動のあり方がどうちがうのか、知ることができました。2000年代から今に至るまでの、ひきこもりをめぐる活動の経緯と傾向についてもお話しくださり、たいへん勉強になりましたよ。

ぼそっと氏はあいかわらずでしたね、わかりにくさが。この点に関しては多くを語らないでおこう(笑)。

一言でいうと、
私が外部から見て勝手に推測してたことは、残念ながらだいたい当たってました。それを裏付けるような突っ込んだ話を関係者の方々から聞けたことが、一番の収穫でしたね。



お二人がお話しされてたように、かつてはダメ連やニートなど、オルタナティブな生き方を追及する動きがあったのに、それがいつしかなりをひそめ、当事者よりもむしろ家族会や支援団体の方が前面に出てくるようになります。ざっくりまとめると以下のような流れです。

当事者活動の弱体化、理論構築の弱さ

家族会の台頭と支援団体の既得権化

支援の限界と責任放棄→支援法制定へ(助成金、ひきこもり手当?)

最近のひきこもり支援法の制定運動を見ていると、当事者を置き去りにして進んでいる印象を受けたんですよね。一部の当事者はそれに異を唱えているけれど、さしたる抵抗運動もなさそう。そんなんでいいのかな?と他人事ながら疑問に思っていたのですが……

「最近は家族会と当事者の仲がいい」

と聞いて、驚いてしまった。

だって、「ひきこもり」当事者とその家族って、利益相反の関係にあるよね? むやみに対立して暴力沙汰になるのはまずいけど、立場や意見の違いははっきりさせた方がよいのでは?それが親からの自立というものだし、ひきこもりを脱することにもつながります。

馴れ合っていてはうまくいかないと思う。自他の区別はつけましょうよ。でないと、「いつまでも親元にいてほしい、できれば介護してほしい」と(無意識的にせよ)たくらむ親に取り込まれてしまうよ、当事者のみなさん!

さらに聞き捨てならないのは、

親や家族が「自分たちも当事者」と言い始めたということ。

これは今回のイベントで初めて聞いたのですが、いったいどれほど厚かましいのでしょうか?

「ひきこもり」問題の当事者といえば、ひきこもっている本人であることは明らかです。自分がひきこもっていることに悩んでいる人自身が、ひきこもり当事者なのです。ひきこもりの人の家族はあくまで関係者であって、「ひきこもっている者が家庭内にいることで悩んでいる」わけです。「自分がひきこもっていることに悩んでいる」わけではない。そこははっきり線引きすべきだと思う。そうしないと、本人と家族の問題が切り分けられない。

当事者というのはものすごく特権的な立場にありますよね。当事者性の特権は侵すべからざるものです。

ひきこもり当事者がいなければ、ひきこもり問題が問題として成立しません。家族も支援者も、「ひきこもり問題」に取り組むためには、ひきこもりの人にいてもらわないと始まらない。そして、ひきこもりを語るにあたって何より説得力を持つのは、当事者の言葉です。ひきこもり問題においてまず尊重すべきは当事者であるひきこもりの人自身であって、家族や支援者などの関係者は二の次なのです。

言うまでもないことですが、あくまでも主役はひきこもり当事者であり、家族や支援者は脇役に徹するべきなんですよ。ところが、当事者活動が低迷するのと入れ替わるように、家族会と支援団体が力を持ち始めます。暴力的な「引き出し屋」を敵視することで組織の結束力を強めていったという、ぼそっと氏の指摘は説得力がありました。また、山田氏が説明していたように、ある時期を境に某親の会に巨額の助成金が入るようになり、そこから組織が巨大化、活性化したという事情もあります。

こうして巨大化した親の会と支援団体は、当事者の特権性と主体性を奪い、当事者の声を代わりに社会に届けるといって、「ひきこもり支援法」なるものの制定に奔走することになりました。

彼らの活動はあくまでも「ひきこもり関係者」としての非当事者活動であるはずなのに、「あなたのために」という建前で押し通そうとする。本来の意味での「ひきこもり問題」は、こうして当事者ともに置き去りにされます。「当事者のために」活動することで彼らは自尊心を満たし、公的機関からの予算で懐を暖かくするのです。

私がいつも気になるのは、当事者の主体性と人権意識です。これが弱いと支援側の人間(家族会、支援団体)に取り込まれてしまう。「かわいそうな弱者」扱いされ、「助けてあげないと何もできない人」認定されて、最悪の場合は飼い殺しですよ。

実際に、最近の支援のトレンドはそうなりつつある。「解決ではなく寄り添い」などといって、問題解決を放棄しています。某支援団体の代表は「ひきこもりのままでいい」「居場所を卒業しなくてもいい」というけれど、そういう甘い言葉は当事者にとって害にしかならない。「ひきこもり」からの脱出を阻み、支援団体に依存させ、囲い込むものだからです。

支援団体の財源は補助金です。障がい者の就労支援施設などは利用者の頭数に応じて予算がつくけど、ひきこもり支援団体もたぶんそうだよね。つまり、多くの利用者(ひきこもり当事者)が居場所だの女子会だのに参加し、できるだけ長くそこに居続けること、できれば卒業なんかしないで一生いることが、支援団体にとって利益の最大化につながるわけです。

だから、親の会は知らんけど少なくとも支援団体は、当事者がひきこもりから脱することなんて、本音では望んでいない。脱ひきこもりのための具体的な道筋を模索したり、ヒントを示したりする努力を放棄しているように見える。その代わりに、「あなたは悪くない」「あなたは一人じゃない」「就労がゴールではない」「ひきこもっててもいい」といったメッセージを発して当事者を懐柔し、囲い込んで、お金儲けのネタにしようとしている……うまくいけば億単位の補助金が転がり込んでくるのです。ひきこもりの人をひきこもり状態に留め置くだけでなく、ひきこもりではない人もひきこもりにしようとするかもね。「ひきこもり」って定義が曖昧ですから、それも可能なんですよ。

そう考えると、「ひきこもりビジネス」は将来性が抜群で、可能性に満ち満ちてるんです。これからどんどん景気が悪くなり、経済的な貧困と政治的な貧困が進み、世情が悪化すればするほど、「生きづらさ」に悩む人は増えるでしょう。その受け皿になれたら莫大な利益が得られるのだから、せっせと政治家に働きかけて、「ひきこもり支援法」なるものを作ろうとしているのです。

彼らにとってひきこもり当事者の意向なんて、どうでもいいんですよ。だってメシの種なんだもの。搾取の対象でしかないのです。

今回のイベントでも某団体の上層部に対する批判の声が聞かれました。ひきこもり当事者を「助けてあげないといけない、かわいそうな弱者」としか見ていないというのです。

ひきこもりの人を主体性を欠いた無力な存在に貶めることで、家族や支援者の地位は相対的に高まります。支援という名目で当事者を懐柔し、支配することもできる。実のところ、当事者が支援者を必要とするのではなく、逆に支援者が当事者を必要としているのではないかとすら思う。それを糊塗するために、彼らはことさらに相手を弱者扱いするのです。

そのような屈辱に屈してはならない。ひきこもりだろうが何だろうが、

誇り高く生きましょう。



※ここまでお読み下さり、ありがとうございました。私はひきこもり当事者でもその関係者でもありませんが、「界隈」を横目で見ていてその理不尽さに耐えられず、思わず熱く語ってしまいました。こういうのも当事者性の簒奪にあたるのだろうか?


※「ひきこもり」問題については以下のマガジンにも記事があります。


※以下はトークセッションの個人的な感想で、ちょっとした裏話のようなものです。投げ銭へのお礼に。    

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