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自己嫌悪という「ライフスタイル」

〈しあわせ〉の哲学。
それも重ためのやつです。
なるべく飲み込み易いように語るつもりですが、対象が対象だけに....。


こんな本があります。
安冨歩著『あなたが生きづらいのは「自己嫌悪」のせいである。』

あまりに”直球な”タイトルに面食らってしまうかもしれませんが、タイトルの言は真理だと思っています。

本を紹介するのは当テキストの目的ではありませんので、端的に言ってしまう。ずばり、自己嫌悪の原因は親からの暴力。

ここでいう「暴力」の意味は、一般のそれよりもずっと広い。最近言われるようになったハラスメントも暴力。躾(しつけ)も、そう。子が良き社会人になることを願っての「教育」も、大半は、子どもにとっては暴力になってしまう。

つまり、ほとんどの大人は、善意のつもりで子どもに暴力を振るっているということ。

そうした認識は徐々に広まりつつありますが、とはいえ、なかなか認めがたいものでもある。自分たちが生きてきた常識がひっくり返されるわけですから。


その「わかりにくさ」はセクハラを例に取ってみれば、まだしもわかりやすいかもしれません。

セクハラが大騒ぎになってしまう昨今ですが、ぼくのような年代以上の者、昭和の時代を知っている者と言い換えればいいでしょうが、そうした人間には騒がれてしまうこと自体に違和感を感じてしまう向きも少なくない。

自分たちが若かりし頃は、だれもそんなことで大騒ぎしなかった。だれもが「普通の」コミュニケーションとして「あたりまえに」受け止めていた。

かつて「ふつう」で「あたりまえ」だったのが、時代が変わって、そうではなくなった。すなわち、単に時代の変化にすぎない....と。


気持ちはわからなくはないけれど、「時代」に安住しようとするならば、そいつは【キモいオッサン】です。同じオッサンであるぼくが断言しますww

草を生やしてみましたが、笑いごとではありません。
「時代」なんかではありません。
それは「真理」です。
「真理」が露わになってきた、すなわち「進化」した。そして「進化」はまだ途上です。

大人による子どもへの教育の大半は暴力である

現在の【常識】が覆されて、共有されるべき「真理」です。「進化」がこのまま進むなら到達するでしょう。


是非、そうなってほしい。
祈りたいくらいです。

もし、そうならないなら...

博士は自身が出演したドキュメンタリー映像『スティーヴン・ホーキングの一番好きな場所』のなかで、「人類は特別な存在だという考えを捨て、思いやりと謙虚さをもって行動しなければならない」と語っている。



タイトルの「ライフスタイル」という術語は、アドラーが用いた意味でのものです。

『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』が大ヒットしていますから今更ですが、アドラーの心理学でいう「ライフスタイル」とは、性格・人格・生き方・行動原理を指します。

つまり、意識的に選択することが難しい心理学的なもの。

別の言い方をすれば”生存戦略”といっていいと思います。


少し前まで女性がセクハラをセクハラと感じもせずに甘んじていたのは、それがライフスタイルだったからである。

——と言明したとして、「ライフスタイル」の意味が“性格”や“人格”だとするなら、女性としては反撥を覚えるのではないでしょうか? “生き方”“行動原理”だと言われても、まだ反撥はあるでしょう。けれど、“生存戦略”と言うならば、どうか。

社会の中で生き抜いていくために好むと好まざるとに関わらず、選択をしなければならなかった(あるいは、自ら進んで選択した)(生き方の)戦略。

このようにいえば、ハラスメントを甘受していたかつての「ライフスタイル」について、ライフスタイルが変化した現在の立ち位置からすれば、心情的に的確ではないだろうか思います。

すなわち、それは、自己嫌悪な【ライフスタイル】であった。

自己嫌悪ではあったが自己嫌悪だと自認してしまうと、余計に生きていくことが辛くなる。だから、場合によって自ら進んで【ライフスタイル】を受容した。生存戦略として。

いかがでしょう? 女性陣?


今は状況がやや改善しつつありますが、男性に比べて女性はまだまだ社会的な立場では力が弱い。だから、セクハラは、今でも起きる。女性がセクハラを認識し、批判の声をあげることができるようになったのは「ライフスタイル」が変化してからですが、その変化は女性の社会的な立ち位置の変化と密接にリンクしています。

では、同様の思考を子どもに向ければ?


子どもは、現在でも圧倒的に無力です。人類が存在する以上、未来永劫無力でしょう。甚だ未熟な状態にこの世の生まれ落ちてくるヒトの子どもが採用できる生存戦略は、大人の庇護を得ること以外にない。

大人が未熟な子どもを庇護するという(生物学的な意味での)ヒトとして当然の行動および行動時の心情は、(社会的な意味で)人間としての当然の「愛情」という言葉で言い表されます。


セクハラをする男性は、自らの行動を「愛情」だと自認していることが少なくない。セクハラを受ける側の女性も、ライフスタイルによっては、それを愛情だとして受け入れないとはいえないし、実際に受け入れている。

そのような自認を「時代」の所為にして未だ改めることができないのは【キモいオッサン】だし、ライフスタイルを変えることができなくて若い世代に自身の【ライフスタイル】を押しつける女性がいれば、それは【キモいオバハン】でしょう。

残念ながら【キモいオッサン】も【キモいオバハン】も、まだ現存しています。

女性に対しての【キモいオッサン】および【キモいオバハン】が、子どもに対しての存在になると【毒親】。

昭和のオジサンやオバサンの【オッサン】であり【キモいオバハン】であったの同様に、現代において、親の大半は【毒親】である。なぜなら、現代においても、子どもは圧倒的に無力だから、です。

人間は、自身よりも力が弱い存在に対して、自身の【ライフスタイル】を強要することができるし、してしまう存在である。そして、力の弱い者は、その強要を生存戦略として受け入れる以外にない。選択の余地が最初からない。

だから子どもは、自ら進んで、親の〈ライフスタイル〉を受け入れる。成長過程の子どもがごく自然に発露する、ヒトとしての〈愛情〉の型として。だからこそ、ライフスタイルは世代を超えて連鎖していくことになってしまいます。それが【自己嫌悪】のものであったとしても。

その連鎖は【呪縛】です。

ハラスメントという行為の本源的な意味は、決して「いやがらせ」などといったような軽い意味ではありません。「ライフスタイル」の強要であり、つまりは暴力です。


矛盾しています。
子どもの側は愛情なのに、親の側は暴力。
その悲しき残酷な矛盾が成立してしまうのが人間でもあります。

それは男女間でもあります。
女性の側は愛情なのに、男性の側は暴力でしかない。
数でいえば少数だけど、男女逆転もあります。

厄介なのは、こうした矛盾から抜けだすのが、まことに大変なことです。

DVを受けていた女性がいたとして、DVの難からなんとか逃れることができたとしても、それで苦難が去るわけではない。心的外傷ストレス障害、PTSDなどになってしまうと、ずっと長く尾を引く。たとえ生活に影響が出るほどではなくても、【矛盾】はそう簡単には解消しない。

それこそ「ライフスタイル」だから。
抜けだすには並大抵ではない努力を要する。
もう、ほとんど、依存症です。

その苦難を実際に体験したことがある者は、痛切に知っていることでしょう。


大人同士の男女でも、力関係に落差があればハラスメントは「ふつうに」起きる。組織の上司・部下の関係でも、「ふつう」。
もちろん、親子の関係でも「ふつう」です。
が、その認識は、まだまだ進んでいない。

大人同士ならば、賢く振る舞うことができるならば、部下が上司を圧倒することはできる。女が男を支配することだってありうる。しかし、親子逆転は、絶対に、ありえません。
子どもが子どもの間はありえない。

ありえなからこそ、逆に認識は進みづらいといっていいのかもしれない。


【矛盾】が成立すると、憎悪が愛情へ、憎悪が愛情へと入れ替わる。
そのテコの支点になっているのが自己嫌悪です。
憎悪と愛情の逆転を「ライフスタイル」として、一方では暴力によって強要され、一方では愛情をもって受容しているうちに、自己嫌悪という【支点】が自ずから生成されていってしまう。

これはおそらく人間だけが「特別」な能力でしょう。



ホーキング博士がいう「人類は特別な存在だという考え」は「ライフスタイル」からでてくるものです。

親が子どもに躾や教育をするのは、多くは子どもが「特別」であることを願うからでしょう。その【希望】は、親自身が実際には「特別」になれたかどうかに関係がなく抱かれてしまう。「特別」になること出来て出来なくても自己嫌悪というステージにおいて同等だからです。

セクハラをする男性も同じです。自身が「特別」であると現に自認していようがいまいが、そうした【希望】を抱いていて、【希望】の圧力が理性の制御を超えるとハラスメントという形で現れてしまう。

男女間の性的な欲求は、成熟した人間なら男女それぞれの形で存在するごくごく「自然」なものだけれども、自然であるということは、「特別」といったような観念は本来的には無縁だということです。

ところが、人間はどうしても、本来無縁なはずのものを紛れ込ませて混同してしまいます。

でも、本当は、だれもが知っている。
たとえば男女間の恋愛において、
たとえば親子の情愛において、
【特別】なんてものはまったく必要ではないということは。


【特別】を望むことは、実は憎悪です。
隠蔽された憎悪。
隠蔽された自己嫌悪。
隠蔽された自己嫌悪は、別名を“自己愛”という。
すなわちナルシシズムです。


自己嫌悪の「ライフスタイル」を無意識的にであれ選択しつづけるならば、ホーキング博士が言うように、まもなく人類は滅ぶ。

本気でそう考えています。

【キモいオッサン】や【キモいオバハン】は人類を滅ぼす存在です。
いや、マジで。



(『ガンダム』、わけてもシャア・アズナブルについて語りたくなってきたけれどww、それまた改めて。)



〈しあわせ〉の哲学では、動物としてのヒトが本来的に持ち合わせている愛情の回路を発揮することで、自然に生成する感情を〈しあわせ〉と表記します。

これは「自愛」です。
英語で表記すれば、単に、「Self - Love」。

一方で、矛盾が生まれてしまう文明社会を生きていくための生存戦略として獲得せざるをえなかった「ライフスタイル」「自己嫌悪」、自己嫌悪の隠蔽としての自己愛(英語表記: narcissism)を満たすこと、つまり「隠蔽」を貫徹することで獲得される感情を【幸福】と表記する。


〈しあわせ〉と【幸福】とは、もちろん違います。


〈しあわせ〉の哲学:《第一のテーゼ》

ヒトは持てる能力を精一杯発揮できることに悦びを感じる

《第二のテーゼ》

人間は自己嫌悪によって自らの能力を発揮することに苦痛を感じるようになる。


人間が無為自然といかなくなってしまうのは、自己嫌悪のため。

悩ましいのは、自己嫌悪と、文明人であるぼくたちが享受している繁栄とが同根であるということです。

だから〈しあわせ〉と「繁栄」とは、バッティングする。
「繁栄」は【幸福】はもたらすが、どうしても「数量限定」になってしまう。


では、どうしたらいいか——? という(まったくといっていいほど人気はないけれど)ありきたりな疑問に取り組んでみようというのが〈しあわせ〉の哲学が哲学たる所以です。


感じるままに。