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短編小説:招き招かれる時のマナーと嘘

(1)祥子の場合
 
その一か月前、私は都内のワンルームのアパートに引っ越したばかりだった。

七畳のワンルームは冷暖房も付いており、南向きで日当たりが良い所が気に入っていた。

久し振りの一人暮らしということもあり、金曜に仕事が終わると、私は食料品の買い物をし、翌日の土曜日に食器や家具の買い出しに行くことが日課になっていた。

東京で一人暮らしをするのは十年ぶりだった。新卒で会社に勤めていた頃、給料が百万円たまった所ですぐに実家を出て、やはり小さなアパートで独り暮らしを開始した。入社したのは小さなメーカーで、海外との取引が大半だった。時差に追われながらも深夜まで働く日々が続いた。

大学時代に寮に入っていたので、食事や洗濯、掃除には特に苦にならなかった。

しかし、この生活も一年で終わった。交通事故で下半身を怪我し歩行不能になったからだ。

楽しくなったばかりの仕事も辞めたくなかったし、やっとのことで構えた自分の城も捨てるには惜しかった。だが家族の散々の説得もあり、私は自宅近くの病院での治療とリハビリを始めた。不治の怪我ではないという診断だった。

しかし、リハビリは全く功を奏さず、ひどい痛みで歩けない日々が八年続いた。

痛みを我慢する中、私は勉強を続けた。新聞を読み、テレビのニュースをチェックし、家族に頼んで経済や海外の動向が分かる雑誌を図書館で借りてきてもらってとにかく勉強をした。

もう一度社会に戻って働く。その気持ちだけは何年たっても萎えることはなかった。

友人からふとしたことで紹介してもらったカイロプラクティックが功を奏して、私は久しぶりに二本の足で歩けるようになった。股関節の脱臼とのことだった。「整形ではこう言ったことは直せないからね」というのが施術師さんの話だった。

再度社会にでた私は、念願だった会社員生活を再スタートさせた。小さな商社の事務でお給料は安かった。手取りで十八万円。しかし仕事は楽しく、三年後にはもう一度一人暮らしを始めた。

中小の会社は一人で様々な事をやらなければならない。十人ほどの社内では深夜まで全員が働いているといった状況だった。テレビで「二十四時間働こう」という宣伝が無くなったのはいつの頃だろうか。それでも深夜残業はまだ普通に行われている。身体を壊す前に、職場の近くでアパートが見つかった時は本当に安堵したものだった。

安いお給料を切り詰めて生活する日々。そのため買い出しはいつも歩きで、少し遠くの手頃な価格で食料品が買えるスーパーまで出かけていた。

日曜日には、近所のお寺で外国人観光客相手のボランティアガイドをした。お寺でのお参りの仕方や、墓地に眠る人々の説明をするだけだったが、訪れた人たちは皆神妙な面持ちで墓地を眺め、最後にお線香をあげる人までいた。社会に出たなら少しでも人の役に立ちたい。お参りが終わって,一緒に写真を撮ろうと言ってくださる人もいて,集合写真に入れてもらえることもあった。観光客の笑顔を見ているとやりがいを感じられた。やっと人の役に立てる事を見つけられたのが嬉しかった。

そんな中、ふと同窓会の誘いが来た。学生時代の友人達で、久しぶりに会える人が大勢いるから来てみては、という誘いだった。私が大学の最終学年を交換留学で海外に出ていたため、同級生は私より一年先に卒業していた。そのためか、卒業してから同級生に会うタイミングを逃していた。

その同窓会で桃花に会った。桃花に合うのは確か大学以来だっただろうか。桃花は卒業後、ほんの少し会社勤めをした後、結婚してどこか外国に住んでいるらしいと人づてに聞いた事があった。

「ねえ、引っ越したんだって?遊びに行っていい?」

久しぶりにあった桃花は、鼻息も荒く私に話しかけた。

「一人暮らしなんでしょ?私、つい先月ベルギーから東京に戻ってきたばかりで、今は旦那の会社の社宅に住んでいるの。今、いろんな人のお宅に行って、インテリアの事とか色々参考にさせてもらっているのよ。それに私たちもう何年も会ってないじゃない?話すことはいっぱいあると思って」

「来てくれるのは嬉しいけど、私引っ越したばかりだよ?家具も日用品もまだまだそろっていないし・・・そんな所だけど大丈夫?」

「うん。祥子の家に行きたい」

「分かった。土曜日に時間作るからその時に来て」

そんなこんなで桃花がアパートにやってきた。昼過ぎに来る桃花を、私は駅まで迎えに行った。

「祥子!」

自動改札の向こうから桃花が笑顔で手を振っていた。グレーのフォーマルなスーツに,揃いのロングスカートに身を包んでいる。髪型も美容院から直接来たかの様にセットされ、派手なメーキャップをしていた。大分かしこまった格好に、私は少々違和感を覚えた。もっと気楽な格好で来てくれても良かったのに。

私たちはそのままアパートへ向かった。午前中に買い物をして、軽くつまめるお菓子や飲み物は用意していたので,途中でどこかへ立ち寄ることも無く真っすぐアパートへ向かう。

アパートに到着した時、桃花の表情が少しさえないのに気がついた。
「大丈夫?疲れてない?」

私は桃花に話しかけた。さっき自動改札で会ったときの桃花とは打って変わったかのように硬い顔をしている。

「ううん、大丈夫」

桃花は表情を変えないまま、返事をした。

「それじゃ中に入ろう」

私はアパートの入り口のオートロックを解除し、ドアを開けた。

「こんなアパートでもオートロックなんかあるんだ」

「そうだよ。オートロックがあるのが、ここに決めた理由の一つなんだ」

「ふーん・・・」

桃花の顔がまた硬くなった。一体どうしたんだろう。私は少し心配になった。具合でも悪くなったんだろうか。

四階の部屋まで小さなエレベーターで上がる。私の部屋はエレベーターの斜め前の部屋だ。

鍵を開けて中に入ると、桃花は私が靴箱の上に置いている、百円均一で買った布で作った敷物を取り上げた。

「気に入った?」

桃花に話しかけると、彼女はぼそっとした声で言った。

「こんな飾りもしてるんだね」

「うん。この靴箱の上、ちょっとしたスペースがあるでしょ?いずれは花瓶か何かを置こうと思ってて」

「ふーん」

そう言ってぶっきらぼうに布を靴箱の上に放ると、桃花は小さな上がり框に靴を脱いで上がった。

「スリッパはないの?」

「ごめんね、置くところがないからスリッパは用意していないんだ」

桃花は一瞬躊躇したように見えた。そして爪先立ちで家の中に入ってきた。

家の中にはようやくそろえた低い大き目の座卓と座布団が四枚。冷蔵庫と、調理に使うための折り畳みのテーブルラック。食器を入れる小さな棚、そして隅の方には小さな書棚があった。壁には小さい頃から大好きで部屋に飾っていた、額縁入りの風景画のポスターを飾っていた。

「何これ」

入り口から廊下で続く台所スペースの前に来た時、桃花が言った。
「うん?何?」

見ると,桃花は台所スペースと部屋を区切っている黄緑色のカーテンをつまんでいた。

「それ、廊下と部屋の区切りにしているのよ。狭い部屋だけど、台所が見えているとどうしても落ち着かなくてね」

「柄、ダサくない?」

確かに、あまり品のあるものとは言えなかっただろう。近所のショッピングモールに入っているアジアからの輸入雑貨店で見つけた、黄緑色のコットンのカーテン。黄緑に水色や赤、オレンジの縞模様が入っている。少し薄手のコットンなので夏場には涼し気に見えたが、決して洗練されているデザインとは言い難かった。

「あはは、確かに洗練とは程遠いね。アジアの雑貨を売っている店で買ったの。夏場には涼しいよ」

「ふーん・・・」

桃花は明らかに様子がおかしかった。

私は、彼女に座布団を勧めた。途端に彼女は大声を出して言った。

「私、床に座るの慣れてないのよね。ほら私ってヨーロッパで育って、ついこの間までベルギーにいたじゃない?日本でも向こうでも椅子の生活しかしてなくって。ソファーとか買わないの?」

「ごめんね、ソファーは置く場所が無くって・・・夜は布団を敷いて寝てるんで、部屋は出来るだけ広く使えるようにしているの」

桃花は浮かない顔をして、おそるおそる座布団に腰を下ろした。

「足は崩してて!正座とか慣れてないよね?今お茶を入れるね」

私はそう言って、台所の電気ヒーターにやかんをかけた。

「電気ケトルとか使わないの?今ティファールとか良いのが出てるじゃない」

「確かにね!ただ、まだ家電もなかなかそろっていない状態で・・・今回はやかんのお湯で我慢してね」

そう言うと、私は食器棚から近所で何とかかき集めたマグカップを取り出した。ボーンチャイナで出来ているその白いマグカップは、見た目もシンプルで気に入っていた。

そのマグカップを見た途端、桃花は金切声を出した。

「そんなマグカップしかないの!?あなた、私たちと同世代の人は、もっと茶器に気を使っているわよ!?もう少し良いもので出せないの!?」

「良いもの?」

「ほら、ブランド物で、ウエッジウッドとか、マイセンとか、セーヴルとか・・・

うちはティーカップはウエッジウッドのパウダーブルーでそろえて、コーヒーはマイセン。ディナー用のプレートはリージュ焼きでそろえているのよ。
ベルギーにいた時は毎月の様に旦那とあちこちの窯元に行って色々な食器を見たわ。イギリスにドイツにフランス・・・
私たちもう三十代なんだから、その位のもてなしをして当然じゃない?」

どれも名だたるブランド物の食器だった。自分も焼き物の基礎知識はあったが、残念ながら桃花と私の好みはかけ離れていた。私はブランド物というよりも、田舎の鄙びた町で売っているような、素朴でシンプルなものを購入しようと考えていたからだ。

「ごめんね、まだこのマグカップをそろえるので精いっぱいで。もう少し余裕が出てきたら他の物をゆっくり選んでみるつもり。一応ボーンチャイナなので、変なものではないんだよ。あ、もしこのマグがいやだったら別の物もあるよ。母が作ったものなの」

そう言って私は別の湯飲みを出した。陶芸教室に通っている母が持たせてくれた湯飲みのセットだった。手びねりで一つ一つ作ったその湯飲みは、決して洗練されたものではないが、落ち着いた茶色の地に深い緑色の釉がかかっている。一つ一つ少しずつ形が違うものだが、色調は統一されていた。
湯飲みを手にした桃花は、湯飲みの裏までつらつらと確かめていた。

「コーヒーや紅茶、緑茶と麦茶があるよ。何にする?」

私は桃花に尋ねた。

「うん・・・緑茶でいいや」

「オッケー」

「京都の宇治茶でしょう?」

その一言に面食らった。

「ううん、静岡の掛川茶っていうの。多分聞いたことないよね。私もお土産でもらうまでは知らなかった。日本一の生産量がどうのとか言ってたよ」

「ふーん・・・静岡ねえ・・・」

桃花はさも不満げに湯飲みに入ったお茶をつらつらと眺めた。
「お茶と言えばやっぱり京都の宇治茶よね。お客さんが来た時はその位のレベルのお茶じゃなきゃ。もてなしの心が無いの?」

「ごめんごめん。なかなかそういう高級品まで手が回っていなくて・・・」

「まったく、三十過ぎて常識のかけらもないんだから・・・それはそうと、お母様が陶芸をやってたのね。祥子もやってたの?」

「ううん。私が今の会社に勤め始めた頃からカルチャーセンターでやってたのよ。平日のレッスンだったから私は出たことがない」

「陶芸は面白いのよ。私ベルギーにいた時、陶芸教室に通ってたの。主人と同じ会社の人の奥様方の集まりで紹介してもらったの。ベルギー人がやってる教室だったけど、ブリュッセルにいた日本人の人が結構来ている教室だったのよ。週に二回レッスンがあって、今じゃうちには私が作った置物が沢山あるのよ。

ねえ、あなたもやらない?私がやってるんだからあなたもやれば良いのよ」
「週末のクラス?」

「ううん、火曜日と木曜日の午後」

「そっか・・・平日は会社があるから難しいね」

「でも私がやってるんだから、あなたもやれば良いのよ。日本に帰ってきてあった人達には皆勧めているのよ。私が面白いって言ってるんだから、皆やれば良いのよ」

「残念だけど、平日は仕事があるから参加できないわ。ごめんね。それに、私週末はボランティアを入れているから、これ以上時間は取れないな」

「これだけ誘ってあげてるのに・・・友達がいのない人ね」

「ごめんごめん!あ、お茶菓子もあるからちょっと待っててね」

「その前に手を洗ってきていい?」

「どうぞ。洗面所、そっちのユニットバスの中だよ」

桃花は手を洗いにバスルームに入っていった。下ろし立てのタオルを二枚畳んでかけておいたが、気がつくだろうか。

ハンドタオルはあえて用意しなかった。お客様が来てハンドタオルを出すと、使った後どこに片づけていいか気を使わせてしまう。私はそれが嫌だった。

それにお客様に手洗いを強要するのは、相手を汚いもの扱いをしているような気分がして、気が引けるものだった。

桃花が手を洗っている間に私はお茶菓子を用意した。コーヒーや紅茶を飲むときのためのビスケットと、緑茶を飲むときのための和菓子の両方を用意していた。

今日は緑茶ということになったので、さっそく私は和菓子を冷蔵庫から出した。寒天で紫陽花を飾った白あんの季節のお菓子。これなら濃いめの緑茶に会うだろう。

桃花がバスルームから出てきたので、私は銘々皿にお菓子を盛り付け、お茶菓子用の木でできた楊枝を添えた。

戻ってきて座った桃花は、さも汚いものを見るような眼でその楊枝を手に取った。
「これって、ちゃんと洗ってあるの?」

「うん。使い捨てじゃなくて、茶道のお稽古をするときに使う道具だって。これも母が持たせてくれたの」

「何だか嫌だなあ・・・フォーク、無い?」

「あるよ。和菓子用の楊枝が使えないなんて、本当にベルギー人になっちゃったんだね、桃花は・・・」

「このお菓子は吉祥庵?」

「ううん、この近くの商店街で売っているの。このあたりでは老舗の様だよ。夏だし、何か季節の物を、と思って」

「また・・・お客さんに出すときは一流のお店の物を出さないと。せめて青坂赤野とか、百歩譲って虎龍屋とか」

「はい、分かりました。次に桃花が来るときは準備しておくよ」
 
その日、あまり話は盛り上がらず、私は桃花に引っ越し祝いとしてマリアージュ・フレールの紅茶を手渡した。こちらは喜んでくれたようだ。
 

(2)桃花の場合
 
その年、私たち夫婦はベルギーでの五年間の滞在を終え、日本に帰国した。
久しぶりに過ごしたフランス語圏。スイスで産まれて、その後フランスに引っ越し、人生の大半をヨーロッパで過ごした私にとっては、待ちわびた里帰りの様な滞在だった。

私は学校を卒業してから保険会社に二年間勤めた後に結婚し、メーカーに勤める夫と共に欧州と日本を往復する生活を始めた。

赴任先では様々な出会いがあった。知り合った人と趣味を共有するために習い事なら何でも挑戦した。その中でも私の心を捕らえたのが陶芸だった。

轆轤に向かい、自分の思い描いた作品を作り上げるのはこの上ない喜びとなった。始めはうまくいかなくても、練習した分だけ腕は上がる。友人も出来、私は陶芸に夢中になった。

夫はインテリアに興味があった。食器やテーブルリネン、ダイニングの家具など、店頭やアンティークショップを回って選りすぐりの物を購入した。

そのうち、ヨーロッパの有名な窯元を訪れて食器を吟味するのが私たちの楽しみになった。月に一度は自動車を高速で飛ばし、各国の窯元を回る。食器の絵付け体験も楽しんだ。

窯元巡りをしていた時、ふと学生時代の友人を思い出した。

祥子とは学生時代に知り合った。海外育ちの長い私と祥子は即意気投合した。オーストラリアで産まれて、十四歳で初来日した祥子は、私の大事な友人の一人だった。海外での生活について話せる人は周囲にほとんどおらず、住んでいた国は違っても、お互い住んでいた国の事を懐かしがっては逆ホームシックの辛さを共有した。

ところが、学校を卒業してから私たちは全く会うことは無かった。彼女が大学四年の時にイギリスに留学し、帰ってくる前に私たち同級生は皆卒業したからだ。その後、会うきっかけを逃し続けていた。

私がベルギーから帰って来てから風の噂で聞いたのは、祥子は東京で仕事をしており、最近引っ越して自分のマンションに住むことになったという。
私は興味を持った。

卒業以来、祥子が何をしてるか全くわからなかったが、三十代の独身の会社員がマンションに住んでいるならさぞかし立派なところに住んでいるに違いない。イギリスにいたなら、向こうの住宅事情を良く見てきているだろう。イギリス人にとって家は自分の城。インテリアには凝り、お金もとてもかけているとも聞いたことがある。

主人の会社の社宅は広く、これから室内をどう飾っていくか色々な人のお宅を訪ね廻っていた私は、祥子の家にも行ってみたくなった。三十代の独身女性、しかもイギリス滞在経験をもつ人の家な所ならば、さぞかしお金も時間もかけて、吟味されたものを使っているに違いない。

祥子の家を訪ねていくことが決まり、その日私は指定された大田区の駅にたどり着いた。電車を降りてみて、愕然とした。

殺風景なプラットフォームには看板一つなく、そっけなくベンチが置かれているだけ。企業の広告も全く出ておらず、私は田舎の駅に放り出された気分になった。東京都内なのにこんなに貧乏くさい駅があるなんて。駅にはキオスクすら無かった。

改札に迎えにきた祥子は、飾りっ気のない普段着でジーンズまで履いている。これがお客を迎えるときの服装?もっといいものを着てきてもいいものなのに。私は雑に扱われたような気分になった。

祥子の住むところはマンションと聞いていたのだが、目の前まで行って私は愕然となった。これはマンションではない。単なる安アパートでしかない。
そんな安アパートなのに、入り口はオートロックになっていた。私の住む社宅ですらオートロックが無いのに、こんな安アパートでオートロックが付いているなんて許せない。私はだんだん自分が不機嫌になっていくのを感じた。

埃臭いエレベーターで上まで登っていき、祥子が部屋のドアを開けてくれた。このドアもオートロックだそうだ。何でもオートロック。今どきのアパートはこんなにも厳重にロックしてあるものなんだろうか。
一歩部屋の中に入ると、靴箱の上に明るい黄緑色の小さな敷物が置いてあった。

こんな小さなところにまで飾りをしているんだ。まずそれに驚いたが、よく見ると材質は荒っぽく、どこかの安物の生地で出来ているのは明白だった。こんなものに興味を示した自分がばかばかしくなって、敷物はもとの場所に置いた。

祥子が上がってというので玄関を見たが、スリッパが無い。祥子に聞いてみた所、スペースが狭いのでスリッパは用意していないとのことだった。
 
他人の家の床は汚い。
 
とてもではないが自分の靴下が汚れる。私は目いっぱい背伸びをして、指先だけが床に触れるようにして歩いた。ここの家から変な菌を持ち帰りませんように。

それにしても狭いアパートだ。廊下の片側にキッチンスペースがあり、台所という独立した部屋になっていない。その時、私は妙なものを見つけた。
キッチンと部屋の境目に、派手な黄緑色の薄いコットンの布がつるしてある。上にある突っ張り棒からつるされたその布は、何の目的でつるされているのか分からなかった。

洗練された柄の布地でないことも気になった。もっと洗練されて美しい色のカーテンなら理解できるのだが、こんなおもちゃの様なぺらぺらの生地を吊るしておくなんてどういう神経をしているんだろう。

部屋に入ると、恐るべきものが目に飛び込んできた。ローテーブルの周りには座布団が敷いてある。誰が座ったものかも分からない、不衛生な床に置かれたものに座らなければならないとは。

祥子が座布団を勧めてきたので、私はしぶしぶ座った。どうか誰か汚い服で腰を下ろしていませんように。床からの変な黴菌が服に付きませんように。
祥子がお湯を沸かすと言うので、目を上げてみた。すると、祥子の手には小さなやかんが握られていた。

今どきお湯をわかすのにやかんを使うの!?

電気ケトルが一般化してどれだけ経つと思っているんだろう。私がこれまで尋ねた家は、皆ティファールを使っていた。フランスの誇る電気湯沸かし器。誰もがこれを使っていると思った矢先に、こんな原始的な用具でお湯を沸かしている人がいるとは夢にも思わなかった。

次に祥子は食器棚からぼってりとしたマグカップを出してきた。白い何の変哲もないマグカップ。

普段使いのマグカップを招いた客に出すの?

こんな扱いをされたのはここの家が初めてだ。今まで尋ねた家はどこもセーヴルやロイヤル・ウースター、ジノリなどきちんとした由緒ある茶器でお茶を出してくれたのに・・・

祥子はコーヒーや紅茶、緑茶や麦茶があると言っていたので、私は緑茶を選んだ。コーヒーや紅茶だと、このみっともない白カップを使わないといけない。

緑茶、と言ったら今度は食器棚から不格好な茶色の湯飲みを出してきた。私は失望した。こんな洗練されていないものをお客に出すなんて、本当にどうかしている。しかも母親が手作りしたものだという。そんな変なものをお客様に出す感覚が理解できなかった。

出す緑茶は静岡茶だという。お客様が来た時は当然最高級のお茶で迎えるのが礼儀というものだが、京都のお茶ですらないと言う。祥子の常識のなさに唖然とした。

この人は普通の三十代の人の感覚を持ち合わせていない。

ここは教育が必要だ。私は自分がベルギーで焼き物を習っていたことを説明し、祥子にも焼き物をやる様勧めてみた。私がやっている習い事だもの、大抵の人はやってみたいと言ってくれる。

それなのに祥子は「仕事があるから平日のレッスンは無理」と言うだけ。探せば週末にやっている講座もあるだろうに、と思っていたが、祥子は週末にはボランティアがあるので、どうしても無理だと言う。私が習って楽しいものをこの人は同じテンションで楽しめない人の様だ。

お茶菓子が出ると言うので、私は食べる前に手を洗わせてもらおうとバスルームに入った。そこでも愕然とする事態になっていた。

小さなバスルームの洗面所はお手洗いとバスタブの間にあり、しかもタオルが二枚かかっているだけだ。

もしかしてこれは祥子が朝顔を拭いたものではないだろうか。それとも、お手洗いに行くたびに手を拭いていたもの?

普通なら、お客様用にハンドタオルを用意しておくものじゃない?私の我慢は限界に達しそうだった。

汚いタオルで濡れた手を拭くぐらいだったら自分の服で拭こう。そう決めて、私はせっかく下したばかりのスーツでそっと手を拭いた。

バスルームを出ると、お茶菓子が用意されていた。黒塗りの貧弱な皿に盛られていたのは、紫陽花を象った和菓子だった。これは多少ましな方ではないだろうか。

しかし、その皿のそばに置かれていたのは、木の楊枝だった。和菓子に使われるのは知っていたが、私はこれが大嫌いだった。

人が楊枝を使って和菓子を食べると、べたべたした和菓子が楊枝にくっつく。それをいくら洗ってみた所で、誰かがしゃぶった楊枝がきれいになるとはとても思えなかった。しかも使い捨てではないようだ。

私はフォークを使わせてほしいと頼み、一本出してもらった。これなら幾分清潔だろう。

お菓子のブランドを確かめた所、何と近所で買ったものだと言う。

お客が来たのに近所の和菓子店の物を出すの?せめて名の通ったお菓子屋のものなら理解できるけど、単なる近所の和菓子屋??

私はあきれ返った。この人は人を招くときの常識が欠落している。普通なら吉祥庵や虎龍屋、それでなくても高級デパートの一流の物を出して当然ではないの?

祥子の無礼さに腹が立って仕方がなかった。

私は早々に退散したくなり、話もそぞろに切り上げて、帰る用意をした。

帰り際、祥子はマリアージュ・フレールの紅茶の缶を差し出した。引っ越し祝いだと言う。

むき出しの缶。ビニール袋に入れただけ。何の包装も無し。がっかりして返事をする気力も失せた。

その日の夜、私は旧友たちの前で祥子の家でされた仕打ちをぶちまけた。
皆何も言わずに聞いてくれた。
 

(3)後日談  祥子の場合
 
「・・・という訳で、桃花はあんたの家に行って怒り狂ってたよ」
「なるほどねえ・・・最初っから様子がおかしいとは思ってたんだけど、そう・・・怒り狂ってたんだ」

「彼女を招くときは、一流の物じゃないとダメなんだって。私も結構駄目だしされたよ」

「私は引っ越したばかりだと念を押したんだけどね。家具もそんなにそろってないし。それに変にかしこまりすぎるとかえってリラックスできないと思ったんだけど、違うみたいね。常識が無いって言われたよ。気楽にできるようにかしこまらないようにしてたんだけど、ダメだったのかな。家具も食器もそんなに駄目だったとは」

「あちらは旦那さんの稼ぎで暮らしているの。自分と比べちゃだめだよ」

「うん・・・それに、あの人自分の力で独り暮らししたことないだろうしね。自分の稼ぎで家賃払ったり光熱費払ったり、食費払ったりしてたら、高級品を買うなんて相当な年月かかるよ。私は仕事が出来なかった時期が長いから、貯金も考えなきゃいけないし。贅沢している暇がないんだよね」

「祥子は今の勤め先って何年目なんだっけ」

由利子はポッキーを齧りながら、カフェオレを一口飲んだ。カップは最近買った、陶芸作家の一点ものだ。

「三年目。お給料も下から二番目のランクになったよ」

「どのくらい?」

「手取りで十八万。ここから家賃引いて光熱費を払うと、あとは生活していくだけで精一杯。週末の土曜は家事をする日って決めてるけど、大型デパートに行く暇はなかなか絞り出せないしね・・・」

「でも、話しているうちに、私も桃花を家に呼ぶのが怖くなってきた」

「あはは。その辺はノーコメント。梨花の家なら、かき回せば何か出てくるんじゃない?」

「うちは人の結婚式の引き出物とか使ってるのよね。絶対これもばれるね」

「願わくば、桃花の旦那さんがもう一度海外赴任になってくれないかね。そうすれば桃花と話が通じる人が増えて、桃花本人にも良いんじゃない?」

「それ分かるわ。あそこまでベルギーの生活を押し出してくるなら、やっぱり海外赴任者同士で喋ってて欲しいなあ・・・」
 

(4)後日談  桃花の場合
 
「それでね、そこの家、まともな食器もなければ、家具も最悪だったの!スリッパすら無いし、不衛生だったらありゃしない。私、ずっとつま先立ちでいなきゃならなかったわよ」

「それは悪いのにあたっちゃったね、桃花・・・よその家でスリッパ無しはきついよね。汚いなあ・・・」

「しかもね、ローテーブルに座布団だったのよ」

「それもいただけないね・・・床に直に座るんじゃないだけましだけど、何、和風の家なの?畳とか?」

「ううん、普通のフローリングだった」

「でも、私たちと同世代でしょ?ソファーのおける広さの家に住めないのかね?まずそこが疑問だよ」

「そうそう。まともに暮らしていれば、2DKとかにも住めるわけじゃない?それが1Kのアパートだなんて・・・」

そういって、私は康江が用意してくれたミモレットをつまみながら、シャトー・マルゴーの赤を一口飲んだ。

ウォーターフォードのクリスタルのグラスも品があって嬉しいおもてなしだ。

部屋は広く開放感があり、白と落ち着いた茶色と金の色のコーディネートが行き届き、ダイニングエリアはチッペンデールのアンティーク家具でそろえられている。応接スペースにはイタリアのカッシーナの大きなソファーが置かれていた。

「康江んちは、ちゃんとした食器や家具を使ってるよね。今改めて感じた」

「そう?人を招いたときはこのくらい普通だと思うんだけど・・・」

「そこん家さ、出てきた食器が普段使いのものだったのよ。単なる白のマグカップ。少なくともお客さんに出すものとは言い切れないと思うんだけど・・・コーヒーか紅茶だとそれを使うことになるから、緑茶をお願いしたのよ。そうしたら、今度はその子の親が手造りしたとかいう不格好な湯呑が出てきて」

「うわー、なんか常識がないね。お客さんが来ているのにそんな物出して」

「しかもね、洗面所にはタオルが二本かけてあるだけだったの!」

「え、ハンドタオルは??」

「無いの!信じられる?私、遊びに行く日をちゃんと言ってあったのに、何の準備もしてないんだよ?マジで汚いと思った。その子がお手洗い使った後に手を拭いたタオルだと思うと、汚すぎて使う気になれなかったよ」

「やだ、最悪!そんな人がいるなんて信じられない!」

康江は身震いをした。

「その後でね、お菓子とお茶が出たんだけど、お菓子なんて単なる近所で買ったもので、お茶もなんか、静岡がどうとか言ってて。

私の常識がおかしいのかな、今まで言った家はどこもみんな京都の玉露とか抹茶を出してくれたよ。お菓子もちゃんとしたお店で買ったものを出してくれたのに・・・なんだか馬鹿にされたみたいで気分が悪かった」

「その感覚のほうが正しいよ。お客様が来たらちゃんとしたものを出す。それって鉄則だと思う。いくら友達でも礼儀があるよね」

「そう!そうなの!よかった、私の感覚がおかしくなったかと思った・・・」

「大丈夫。相手が常識のない人だったんだよ。人を招くことに対して礼儀がないよね。大丈夫、桃花はおかしくない」

「でしょ?お客様は少なくとも最善のものを用意してお迎えするものだよね」

「その通り!相手が悪かったんだよ、もう二度と行かなくていいんじゃない?本当に友達なの?違うんでしょ?」

「うん、まあ・・・」

「もう縁切っちゃえば?桃花には釣り合わない相手だよ」

「うん・・・そうね」
 
ほどなくして、桃花と旦那様は次の海外赴任先へと旅立った。今度はイタリアだと言う事だった。私は、今度こそ桃花が帰国後はイタリアの駐在員の人たちと付き合うことを願った。
 
 

(5) 祥子の場合
 
「祥子、同窓会やるけど来ない?」

数年後、私は同級生の麻理恵からお誘いの連絡を受けた。忙しい合間を縫っての飲み会は大歓迎だ。

当日は同級生の一人の清美が誕生日だと言う。私たちはサプライズパーティーを企画して、レストランに小さなケーキを注文した。

当日集まったのは十人。麻理恵が予約してくれたレストランは天井が高く広々として、私たちは部屋の奥の大きなテーブルを囲んだ。

酒豪が集まっていたせいか、その日は何本ものワインが開けられ、創作イタリアンの料理も美味しく、私たちは限られた時間を食事に会話にと心行くまで楽しんでいた。店員さんがデザートの注文を取りに来てくれた時に、麻理恵が小さな声でケーキを持ってきてくれるよう頼んだ。

しばらくするといきなり店の中の電気が暗くなり、蝋燭の灯された大き目のケーキとシャンパンフルート、コーヒーやデザートの盆を持った店員さん達が一列になって現れた。店内にはハッピーバースデイの音楽が小さく流れている。

シャンパンが次々とテーブルに置かれ、店員さんが麻理恵に小さな声で「店からのサービスでございます」とささやいた。お店の粋な計らいに感謝しつつ、私たちはシャンパンで乾杯をして清美の誕生日を祝った。

同窓会が終わって外に出ると、私は後ろから声をかけられた。

「祥子、久しぶり!」

そこには桃花が立っていた。席が離れていたので食事の時は話すことが無かったのだが、私は返事をするのに一瞬躊躇した。どこで何を言っているか分からない桃花。旦那様の海外赴任から日本に帰ってきているらしい。

「私ね、世田谷で独り暮らしを始めたの。良かったら遊びに来ない?」

一人暮らし?一瞬耳を疑った。

「旦那が浮気をして外で子供を作っちゃってね。去年離婚して私だけ日本に帰ってきたの。引っ越してまだ日が経ってないから家の中に何もないけれど、もしよかったら来て欲しいな」

いきなりの告白に私は戸惑った。桃花の旦那様とは一応面識はあるものの、まさかそんな事態になっているとは夢にも思わなかったからだ。

どこまで深追いしていいのか分からなかったが、私は桃花からの誘いを受け、二週間後の金曜日に遊びに行く約束をした。

田園都市線沿いの小さな駅に降り立つと、桃花が改札で待っていてくれた。
「鄙びた所でしょ?駅からも近い所なんで、すぐに着くよ」

そう言って桃花は駅前のショッピングアーケードに入っていく。

「途中、スーパーで買い物していっていい?あとデザートも買おうと思ってて。近所に良いケーキ屋さんがあるんだ」

私たちはアーケード内のスーパーに入った。桃花は野菜や調味料を買い、その後ケーキ屋さんに連れて行ってくれた。

アーケードの雰囲気に合った、小さな昔ながらのケーキ屋さん。ショーケースには美味しそうな苺のショートケーキやチョコレートケーキ、プリンなどが並んでいる。お店のお婆さんが対応してくれ、私たちは苺のショートケーキとレアチーズケーキを一つずつ購入した。

桃花のアパートはそこからすぐの場所に合った。清潔そうな白いマンションで、二階にあがってすぐの部屋が桃花の部屋だった。

ドアを開けると、小さな上がり框の上にはスリッパがたくさん並んでいる。短い廊下の左わきには小さな部屋があり、「物置場所に使っている」とのことだった。右にはお手洗いとバスがあり、突き当りにはキッチンを備えたダイニングが見えた。

「さあ、手を洗ってきて!食事にしよう!」

私は廊下を戻り、洗面台を探した。小さな洗面台には除菌ハンドソープのボトルがいくつも並び、ハンドタオルを沢山いれた籐の籠が置いてある。私は手を洗ってハンドタオルを引き抜いて手を拭くと、桃花に尋ねた。

「ハンドタオル、使ったのはどうしよう?」

「あ、それは洗濯機に入れておいて。ここよ」

そう言うと桃花はいきなり廊下にあった引き戸を開いた。バスと洗面所の間にあったそのスペースから、大きな自動洗濯機が顔を出した。

「中に放り込んでくれればいいからね。さ、ご飯にしよう」

ダイニングに通された私は、食卓の椅子をすすめられた。

四人、多ければ六人は座れそうな大きなダイニングテーブルはアンティークの物だろうか。落ち着いた茶色の木でできており、テーブルの厚みの部分には美しい模様が刻まれ、金色の装飾が施されている。

その日は桃花の手作りのキャベツの胡麻浸しと買い置きのコロッケ、お味噌汁が食卓を飾った。ほんのりとした出汁が効いた食事はどれも美味しく、私たちはしゃべりながら舌鼓を打った。

「しかし、大変な事になってたのね。桃花が離婚だなんて考えもしなかったよ」

「前兆はあったのよね。ローマに住んでた時、旦那が良く朝帰りするようになって、二日間帰ってこない時もあって。何度も問いただしたんだけど結局口を割ってくれなかった。すべて明らかになったのは、他の女の所に子供が出来たから別れたいって言われたとき」

「それ、ひどくない?いくら何でもその仕打ちはないでしょう」

「私たち子供が欲しいとは言ってたんだけどね。でも、ローマで他の日系企業の方々とお付き合いするうちにその女と知り合ったようで。いつの間にか付き合い始めて。自分が結婚していることも伝えていたみたいだよ」

「それなのに相手の女性も付き合っちゃったの?どこかでブレーキをかけても良さそうなのに」

「それが出来なかったんだろうね。すべてが起きて、子供も降ろせないくらいに大きくなってから私の所に離婚の話が来た。

まあ、そういう卑怯者だったから、もらえるものは全部貰って日本に帰って来た、というわけ。このマンションの部屋には全部の家具は入らなかったけど、旦那と買った家具や食器はほぼ全部私のものになったよ。それに慰謝料も少しは取れたから、しばらくは生活していけそう」

「そうだったんだ。月並みだけど大変だったんだね。分かれて正解だったよ」

「今はこうして自分の家も持てたし。一人暮らしも案外悪くないもんだね」
「ご実家には戻ろうとか思わなかった?」

「それがね、両親は東京から実家のある京都に戻っちゃって。父が退職したタイミングで京都に戻ろうって決めていたみたい。京都だと就職の点で少し難があるかもしれないと思ったんで、私は東京に残ることにしたの」

「そっかあ・・・一人娘がこうなったら、ご実家も黙っていられないよね」
「まあ、色々あったよ。言うべきことは両親もちゃんと言ってくれたし。あ、そろそろデザートにしようか」

そう言うと桃花は立ち上がり、冷蔵庫から先ほど買ったケーキの箱を出してきた。

「食器がまだそろっていないから普通のお皿でごめんね。カップもそろってなくて・・・」

「あ、気にしなくて大丈夫だよ。引っ越ししたばかりの時はこうだよね。ケーキ、美味しそうだよね」

「うん。時々あのお店で買ってるんだけど、あのアーケードでは老舗のお店なんだって。さっきのお婆さんが手作りされているそうよ。コーヒー?それとも紅茶にする?」

そう言って桃花は水色の大き目のカップを二つ取り出した。
「これ、うちの母が陶芸教室で作ったものなの。こんなもので悪いんだけれど・・・」

それは淡い水色で色彩された美しいカップだった。用薬がうまく溶け合い、微妙な色合いを醸し出している。

「綺麗なカップ・・・お母さま、上手だね。色合いがすごく綺麗だよ。これ、持たせてもらったの?」

「実家で余っちゃってるから持って行っていい、って。幾つか持ってきたけど、普段使いにはちょうどいいね」

私たちはケーキとコーヒーを頂きながら、この六年ばかりの間に起きた事を話し続けた。

終電になる前に腰を上げ、私は桃花に引っ越し祝いの小さなガラスの置物を手渡し、最寄りの駅へと向かった。
 


(6) 桃花の場合
 
麻理恵から電話があったのは、その年の五月だった。

離婚してローマから東京に戻って半月。転入の手続きや家の片付けに追われていた私にとって、そのお誘いは嬉しいものだった。

「桃花、再来週の金曜日だけど、夜空いてる?今度同窓会をやることになってて。もし都合が合えば桃花も来ない?」

「行く行く!どこでやるの?」

「渋谷だよ。清美の誕生日にあたるから、内緒でバースデイパーティ、ってことにしてるの。清美には黙っててね」

「了解!誰が来るの?私、皆とすっかりご無沙汰しちゃって」

「えーとね、良治さんとこうちゃん。清美と祥子と留美。私と友里恵と花梨。あと、美紀と裕理にも声をかけてるの。他に誰か会いたい人いる?」

祥子の名前を聞いて、一瞬昔を思い出した。汚いワンルームの部屋で強いられたあの拷問の様な数時間。不潔と貧乏に囲まれた空間での出来事は、私は忘れることが出来なかったらしい。
 
仕返ししてやる。
 
意地悪な心が顔をもたげた。
 
同窓会の終わりに私は祥子を家に誘った。あの時私がやられた仕打ちを仕返ししてやる。

そう心に決めて、私は当日を待った。

金曜日が来て、私は最寄り駅の前で祥子を待った。ほどなくして現れた祥子は、相変わらず洗練されていない服装を身に着けていた。金曜日は会社が私服できていい日だとかで、フォーマルな服は身に着けていなかった。私はため息をついた。やっぱりこの人は人の家を訪問するときのマナーが無い人なんだ。

帰り道、私は祥子を連れてショッピングアーケードにあるスーパーで買い物をし、古ぼけていて,いつもただ通り過ぎるだけの店でデザートを買って帰宅した。

玄関にはスリッパを用意しておいた。私は祥子がスリッパを履かないのではないかと内心思っていたが、案外素直に履いたのに毒気を抜かれた。洗面所に用意していたハンドタオルも、難なく使っている。

食事はスーパーの買い置きの物を出した。普段人を招くときはデパートで購入した一級品の惣菜や地方の名品をきちんと用意して、食器も私好みのジノリやマイセンを使う。

でも今回来るのは祥子だ。普段使いの普通の食器で料理を出し、最後のデザートの時も、適当なカップを出すことにしていた。私の母が陶芸教室で作ったものと偽って。

やって来た祥子は、食器や食事に全く無頓着だった。

それどころか、出したスーパーの煮びたしやコロッケを美味しいと言って食欲も旺盛に食べながら、こちらの離婚話に耳を傾ける。

この日のために出した適当な水色のカップも、母の陶芸の腕前を褒めるなど、まったく気にしていないようだ。

手作りの食事と買い置きの食事の区別もつかなければ、陶芸教室で作ったカップの嘘も気が付かないほど、センスがない。

六年。六年間この人と合っていなかったが、祥子は一切変わっていなかった。

やはりこの人の常識は、私とはかけ離れている。そして六年間の間で、何の進歩も遂げていなかった。嫌がらせで出した安物の食事もデザートも難なく口に入れ、逆に褒めるばかり。一体この人は何なんだろう?

その夜、私はベッドで横になりながら今日の事を考えていた。

六年も経って何の進歩も無いのはありえない。もしかして、祥子は私の前で取り繕っていたのではないだろうか?

美味しいと言っていたキャベツの煮びたしやコロッケも、本当は馬鹿にしていたのかもしれないし、コーヒーカップもしらけた気分で使っていたのかもしれない。

これを人に言いふらされたらどうしよう?

私が適当に買った低レベルな食事やデザートを,これもまた適当な食器で出したと人に言われたら?

私はそんな下劣な人間じゃないのに!

そう思ったら、私はいても経ってもいられなくなった。

翌日私は旧友達を誘い、思いのたけをぶちまけた。

祥子が私の悪口を言っていたらすぐに言って欲しいと。

そして、調べられるようだったら、皆に祥子が私の悪口を言っていないか調べて欲しい、と。
 

(7)後日談  祥子の場合
 
「祥子、また桃花がお怒りだったよ。あなた、どこかで桃花の悪口を言っている?」

由利子がコーヒーカップ越しにこちらを見ている。

「お怒りって、また私何かやっちゃった?」

「この間、桃花の家に招かれたでしょ。その時に何かされたんだって?そのときの桃花の家で起きたことに対して、祥子が悪口を言ってるんじゃないか、って桃花が怒ってたよ」

「悪く言うことは何もないんだけど」

「何があったのよ?桃花は、祥子が悪口を言っているって譲らないんだよ?」

「いや、引っ越したから家に来ない?って誘われて。当日家に行って、ご飯食べさせてもらって、デザートまで出してもらって」

「それ以外にもあるでしょう?」

「あ、家に行く前にスーパーとケーキ屋さんで買い物したよ。ケーキ屋さんは桃花が良く買うお店だって言ってた」

「それを出されてどう思ったの?」

「特に何も。桃花が普段食べてるケーキはこんな感じなんだ、って。美味しかったよ」

「食事やデザートを出された食器は?桃花は食器に気を使うでしょ?」

「あ、忘れてた。特に印象には残ってないけど・・・あ、でも、桃花のお母さんが作ったカップでコーヒーを入れてもらったよ。水色の綺麗なカップだった」

「本当にそれだけ?」

「うん。というより、私はここで何を言うのを期待されているんだろう?」

「桃花の家に対する悪口」

「それって、もしかして私に悪口を言わせるために家に招かれたって事?」

「そうみたいね」

私はそれを聞いてがっかりした。

人に悪口を言わせるがために、人を家に招く人がいるとは。

世の中色々な人がいる。

多くの場合、楽しい時間を一緒に過ごすために家に人を招くことが多いと思うが、私の体験したのは、私に悪口を言わせるがための時限爆弾の様なものだった。

こんな人と付き合いを続ける理由があるだろうか。

その日、私は桃花の家の住所を捨てた。携帯の番号も着信拒否にした。

これはすぐに桃花に分かったようで、旧友からなぜ着信拒否にしたのかと連絡があったが、人に悪口を言わせるために家に招くような人とはかかわりあいたくないのだと説明した。

あれから数十年が経った。桃花の名前はたまに聞くものの、今は関わり合いになることはない。

人を陥れるために友達の皮を被った人は、現実にいるものなんだ。人の価値観はそれぞれ違う。桃花と私の価値観も、人づてに聞く限りでは確か違うが、人に悪口を言わせるがために陥れることは、人間として付き合うに値するのだろうか。

桃花の名前を人づてに聞く度、私はふと思い返しては、やりきれない気持ちになりつつも、二度と彼女の家を訪れなくてすむ幸福を嚙みしめた。
 
(8)後日談 桃花の場合
 
「で?祥子は何て言ってたの?」

私は由利子に噛みつくように問いかけた。散々仕返ししたのに、祥子が何も言っていないはずはない。絶対に私の悪口を言っているはずだ。

「桃花の家に呼ばれて食事とお茶を出された、とは言ってたけどねえ」

「食器の事は?食事の事は?絶対何か言ってたはずよ。本当に何か無いの?」

「食事やデザートは美味しかったとは言ってたよ。ただ、出来ればこの先桃花に合いたくないって」
 
それだけ?
 
あれだけ仕返しに色々考えてやったのにそれだけしか返ってこないって、どういう事?

「いや、絶対に悪口を言っていたはずよ。祥子はお客を家に招くときのマナーが悪いでしょ?その人の行動をそのままお返ししたんだもの。それを私が普段そんなマナー違反をするような人間だと吹聴されたらたまったものじゃないわ」

「そんなこと言ってなかったけどねえ・・・「私はここで何をいう事を期待されているんだろう?」って言ってたから、本当に何も考えていなかったんじゃないの?」

そんな馬鹿な話はない。

祥子は絶対に嘘をついている。これで祥子が他の人に、私の家で出されたものが買い置きのコロッケだったり、親が手作りしたカップでお茶を出したりする人間だと言いふらすに違いない。

私は本当はそんな人間じゃないのに。

お客様が来たら、イタリアで買ったジノリのカップでエスプレッソを出したり、ロイヤル・ウースターのフルコース用のお皿とシルバーでお食事を出したりするのはいとも簡単なものだ。

食事だって、職場近くのデパートで一週間以上前から吟味した最高の食事でもてなして、デザートも世界的に有名なブランドのお菓子以外出さないのに。

紅茶やコーヒーだって、世界に名だたるティールームの物をしっかり出してお客様が最高の気分でリラックスできるように配慮するのに。それが祥子を家に招いた事でいやな風評をまき散らされたらたまったものではない。

「そんなに焦らなくても大丈夫だよ。傍から見てると、あなた達二人はしばらく付き合わなくてもいいんじゃないの?祥子は天然であんな感じだけど、桃花は悪意をもって祥子を家に呼んだんでしょ?そこまで仲が悪いんだったら一緒にいる意味もないし」

「でもあんなに酷い目にあわされたのは、祥子の家だけなんだよ?汚いし、貧乏くさいし。出て来る飲み物や食べ物は適当でいけてないものばっかり。何か仕返ししてやらないと気が済まなくて」

「だったらなおさら付き合わないほうが良いよ。あなた達二人は合わないと思う。祥子はよく言えば質素でカジュアルなものを求めているし、桃花は有名な高級品志向だし。二人とも水と油だよ。合わさることは無いと思う」

「そんなこと言っても友達だよ?常識からしてもきちんとおもてなしするのは当然じゃないの?」

「そこが違うんだってば。二人ともおもてなしの尺度が違うんだと思うよ。着飾らない人と、良いものを吟味してもてなす人。正反対じゃない。友達だからこそ肩の凝らないおもてなしをする人と、友達だからこそ贅を尽くして迎え入れる人。価値観が全く逆だね。

桃花が焦ってるのも結局自分が悪いんだと思うよ。祥子を招いたときに嘘をついて、まるで自分が普段からその辺で買ったもの普段使いの食器を使ってる、みたいな振りをした。それを言いふらされるのが嫌だって言っても、もう止められないんじゃない?」

「そしたら私は適当なもてなししかしない人だと思われちゃうわけ?」

「祥子はそんなこと気が付いていなかったし、気にもしていなかったみたいね。ねえ、お願いだからもう二人とも合うのを止めなよ。どちらかが相手に係わる度にこんな風に間に立たされるのも嫌なんだよね」

「じゃあ、私が祥子に謝れば良いの?」

「そうしたければどうぞ」

私は鞄から携帯を取り出し、祥子の番号を出した。しかし、携帯の番号はつながらない。

「おかしいね。電源切ってるのかな」

由利子がそう言いながら、彼女の携帯を取り出した。今度は由利子が祥子に電話をかけた。すると、物の数秒で祥子に繋がった。

「あ、祥子?今桃花があなたの携帯を鳴らしたんだけれど、繋がらなかったみたいで・・・え、何?・・・・そうなの?どうして着信拒否なんかにして・・・ うん、分かった、言っとくよ」
 
こうして私と祥子の関係は終わった。
 
あれから随分立つが、周囲の人からは私がおざなりな客のもてなしをすると言う話はまだ聞かない。

いや、その前にほとんどの知り合いは家に呼んで、私流のもてなし方で迎えた。皆私のマナーの良さや気の使い方は分かってくれて、嫌な顔をされたことは一度もない。 

清潔感のあるハンドタオルに新品のスリッパも。
お客様を迎えるために何日も前から吟味した高級食器も。
高級デパートで購入した世界中からの惣菜や伝統ある高級菓子店のデザートも。


人のマナーはそれぞれなのかも知れない。

あの汚くて貧乏な小さな部屋に二度と行かずにすむ幸せを噛み締めることがある。

私と祥子のマナーは、かけ離れたものだった。それが分かっただけでも良かったんだ。

関係さえ断ってしまえば、あとはもう気にすることなど何もない。祥子が私の記憶から無くなるのも差ほど先の事では無いだろう。

今の友達を大切にしよう、そして自分のレベルを落とさない人と付き合おう。私はそう心に決め、ドアのチャイムに答えた。

「いらっしゃい!さあスリッパをどうぞ!」
 
 
(2023年1月28日に書いた同名の小説に一部加筆しました)

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