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『暇と退屈の倫理学』 - 國分功一郎


今日の読書こそ、真の学問である。
 - 吉田松陰


今日の読書。
『暇と退屈の倫理学』 - 國分功一郎

読後感としては、読んでる時は退屈とも思っていたけど、読み終えた今はとても満足している…。


どうしてこの本を手に取ったのか?

僕は忙しいのが苦手です。
だから、なるべく暇を過ごしたいと思っています。

暇を過ごすことにこそ価値があるとだれか持ち上げてくれればいいのにとか思っていた時に出会ったのがこの本。

読んでみた結果、しっかり讃えてくれた気もするし、そんなわけないと戒められた気もします。

ただ、屋久島に移住して、読書にふける余裕があり、贅沢に暇を楽しんでいる今の暮らしは豊かなんだなと感じさせてくれたように思います。


やっぱり僕は思う。
なにもしない時間を大切にできるのがいい。

そして、退屈の気晴らしにはきっと仙人修行をしてるのがいちばんいい。


暇と退屈とは果たして何と向き合うことなのか?

暇と退屈

❝暇とは、何もすることのない、する必要のない時間を指している。暇は、暇のなかにいる人のあり方とか感じ方とは無関係に存在する。つまり暇は客観的な条件に関わっている。
退屈とは、何かをしたいのにできないという感情や気分を指している。それは人のあり方や感じ方に関わっている。つまり退屈は主観的な状態のことだ。❞

退屈という不幸

❝人間の不幸は、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。❞

わざわざ不幸に向かって走り出すことなんてないのだから、なにもしない時間を大切にしたいものだと思う。


終わりのない消費

❝消費社会は、私たちが浪費家ではなくて消費者になって、絶えざる観念の消費のゲームを続けることをもとめるのである。消費社会とは、人々が浪費するのを妨げる社会である。退屈は消費を促し、消費は退屈を生む。ここには暇が入り込む余地はない。❞

消費に走る快感に終わりはないのだ。その先に到達し満たされる地点がない。なんと恐れ多い社会なのだろう。


決断せよ

❝私たちは退屈する。自由であるが故に退屈する。退屈するということは、自由であるということだ。
ハイデッガーは、退屈する人間には自由があるのだから、決断によってその自由を発揮せよと言っているのである。退屈はお前に自由を教えている。だから、決断せよ ─ ─ これがハイデッガーの退屈論の結論である。❞

退屈は見方を変えれば自由なのだ。そこには選択できる自由がある。


環世界

❝人間にとって、生き延び、そして、成長していくこととは、安定した環世界を獲得する過程として考えることができる。いや、むしろ、自分なりの安定した環世界を、途方もない努力によって、創造していく過程と言った方がよいだろう。❞

❝人間は高度な環世界間移動能力をもち、複数の環世界を移動する。だから一つの環世界にとどまること、そこにひたっていることができない。これが人間の退屈の根拠であった。❞

僕たちは視野を持つことができる。あらゆるもののために、あらゆる視点を持つことができる。
そのために、自己の世界で留まっていることに耐えられない。退屈してしまうのだ。


『暇と退屈の倫理学』の結論

❝〈人間であること〉を楽しむことで、〈動物になること〉を待ち構えることができるようになる。これが本書『暇と退屈の倫理学』の結論だ。❞

〈人間であること〉

❝贅沢とは浪費することであり、浪費するとは必要の限界を超えて物を受け取ること。贅沢を取り戻すとは、退屈のなかの気晴らしを存分に享受することであり、それはつまり、人間であることを楽しむことである。人類は気晴らしという楽しみを創造する知恵をもっている。❞

〈動物になること〉

❝動物の様に一つの環世界にひたること。〈衝動の停止〉と〈衝動の解除〉とを繰り返して行動すること。❞

自己を見つめ、自己の道を歩み、その自己の世界に浸る、それが人間というものであり、生きるということなのだ、と僕なりに捉えることにしようと思う。
そうしている内は退屈している暇なんてないのかもしれない。


どうすれば皆が暇になれるか?

❝退屈とどう向き合って生きていくかという問いはあくまでも自分に関わる問いである。しかし、退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は、おそらく、自分ではなく、他人に関わる事柄を思考することができるようになる。それは〈暇と退屈の倫理学〉の次なる課題を呼び起こすだろう。すなわち、どうすれば皆が暇になれるか、皆に暇を許す社会が訪れるかという問いだ。❞

「自由の王国」

❝マルクスは「自由の王国」の根本的条件は労働日の短縮であると言っていた。誰もが暇のある生活を享受する「王国」、暇の「王国」こそが「自由の王国」である。誰もがこの「王国」の根本的条件にあずかることのできる社会が作られねばならない。そして、物を受け取り、楽しむことが贅沢であるのなら、 暇の「王国」を作るための第一歩は、贅沢のなかからこそ始まるのだ。❞

誰もが暇のある生活を享受する世界、そこには自由がある。それは贅沢のなかから始まる。暮らしが満たされ自由を謳歌できる理想の世界がある。


なぜ人は退屈するのか?

❝人はサリエンシー(精神生活にとっての新しく強い刺激、すなわち、興奮状態をもたらす、未だ慣れてい ない刺激)を避けて生きるのだから、サリエンシーのない、安定した、安静な状態、つまり、何も起こらない状態は理想的な生活環境に思える。ところが、実際にそうした状態が訪れると、何もやることがないので覚醒の度合いが低下してDMN(自己参照的な過程や、未来の行為に備えた過去の知識)が起動する。すると、確かに、周囲にはサリエンシーはないものの、心の中に沈澱していた痛む記憶がサリエンシーとして内側から人を苦しめることになる。これこそが、退屈の正体ではないだろうか。絶えざる刺激には耐えられないのに、刺激がないことにも耐えられないのは、外側のサリエンシーが消えると、痛む記憶が内側からサリエンシーとして人を悩ませるからではないか。❞

❝トラウマとは、自分や世界がこうなって欲しい、こうなるだろうという予測 を、大きく侵害する想定外の出来事の知覚や記憶のことである。慢性疼痛を感じている状態にある患者は、外部から与えられる急性疼痛の痛み刺激を「快」と感じる。❞

なにもしない時間を過ごすということは、つまり自己に向き合うことになる。どうしても心に負っている傷が浮き上がってくるのかもしれない。痛みがあったことを思い出させることになるのかもしれない。
それなら、なにもしない時間を過ごすことは、心の傷と向き合い、痛みを取り去ることと表裏一体なのだろう。


自然人

❝もしもサリエンシーに遭遇したことのない、傷跡を持たないまっさらな人間がいたとしたら、その人間は何もすることがなくなった状態でも苦しいとは感じないだろう。❞

❝ルソーの描いた自然人は、自然状態を生きている。彼らを縛るものは何もない。だから彼らは自由気ままに、バラバラに生きている。誰かと誰かが出会い、一晩を共にすることがあっても、その次の日の朝からも一緒にいる理由などない。自然人は気の赴くままに、好きなところに向かっていく。❞

ただ自然であること。自己の世界に浸る人は縛られない。なにもすることがなくなっても退屈することもない。思い悩むこともない。


人間は、その本性ではなく、その運命に基づいて、他者を求める

❝環境やモノや他者を経験する自己およびその身体は、最初から存在しているわけではない。自己そのものがサリエンシーへの慣れの過程の中で現れる。サリエンシーという〈他〉に対する慣れの過程が〈自〉を生み出す。❞

❝他者を経由してはじめて獲得できる慣れがある。人間は生き延びていく中で、記憶し続ける。つまり傷を負い続ける。だが、その中には、自分だけでは意味を付与できない、つまり消化できない記憶がある。記憶が一人ではうまく消化しきれない理由はさまざまに考えられる。それはその経験が一回性であるからかもしれないし、また、理解者がいないからかもしれない。もし、その記憶の消化を手助けしてくれる者が目の前に現れたなら、人はその人と一緒にいたいと願うのではないだろうか。❞

人間は生きていく中で傷を負い続ける、そして思い悩み続ける。その傷は誰かを頼りにすることでこそ意味のあるものになり消化されるのかもしれない。ここに優しさを生む源泉があるように感じた。

(出典:『暇と退屈の倫理学』)


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