見出し画像

羽黒山から月山への道にはいくつもの掛け小屋が建っていたという話③~狩籠-合清水~

 現在、いでは文化記念館の2階では出羽三山の古写真の展示を行っています。羽黒山の登山口から月山へ続く道にはいくつもの掛け小屋(月山登山者への食事や休憩・宿泊のための臨時の小屋)が建っていました。そのような風景をおさめた、昭和初期の出羽三山の写真が展示されています。

狩籠(新山神社)

 現在月山5合目にあたるとされる場所には昭和中期まで狩籠(かりごめ)小屋が掛けられ、小屋は、大きな杉の下にありました。この杉はその異様な形からご神木とも、これより上に杉がないことから「限界杉」ともよばれました。その昔、月山登拝中に亡くなった道者や行者はこの大杉の裏に埋葬されたといいます。

 根元には新山神社があり、「蛇枕石」という平たい石もあります。かつては鉾立新山大権現(ほこだちしんざんだいごんげん)が守護したところだそうです。*¹

狩籠の古写真

 小屋の東側には龍神さまが住むという神秘の龍ヶ池(狩籠池、新山池とも)と呼ばれる崖があり、ここから滴り落ちる水を水樽に入れて運び、小屋の飲み水としたそうです。小屋の近くで採れる青物植物のある場所は「小屋の畑」と呼ばれ大切にされたそうです。ここの小屋の名物は赤飯、きのこ汁だったそうです。

「狩籠」の由来

 神子石の言われにある、女人結界を破った女が蛇に変化して蜂子皇子(能除太子)を妨げようとしたところを皇子によって捕らえられ、池(狩籠池)に封印されたため、「狩籠」と呼ばれるようになったそうです。*¹

 また、弘法大師(注1)が蛇を退治したという話もあります。

 月山の中腹に悪蛇が棲んでいて、道者をなやました。
 そのことを聞いた弘法大師が、ひとびとの難儀を救おうとして、これを道のほとりの池に封じこめた。

『羽黒山二百話』第156話 狩籠池のこと 戸川安章

平清水(津長井神社)

平清水の古写真

 月山中腹1000mの位置に平清水小屋が掛けられていました。この平清水だけでなく強清水や合清水には「清水」という名称がついています。この名称はきれいな湧き水に恵まれる土地に付けられました。
 平清水は月山一美味しい湧き水に恵まれていたそうです。小屋の西側に湧き水があり、きれいで美味しいことで知られていました。昭和30年代の山開きの頃、保健所の人が飲料水を調べにきた際に平清水の湧き水は軟水で一番水質がよかったようです。この水を手桶に入れて小屋の入り口に置くと、道者はひしゃくで喉を潤し、お盆に志をおいていったそうです。
 ここの小屋の名物はそうめんです。そうめんは傘骨や、清水と名前の付く小屋が提供する名物です。湧き水が冷たい・美味しい小屋ではそうめんが名物になっていたんですね。ちなみに煮出しに鰹節は使えず、しょうがと醤油を少したらして食べたそうです。美味しい水であれば麓では味わえない美味しさを楽しめ、冷たい水であればその水でそうめんを冷やして、登山の際に上がった体温を整えてくれます。月山の登山シーズンは夏場だったので、冷たい水でしめられたそうめんはさぞ美味しかったことでしょう。

 小屋から山頂を目指す参道の登り口には津長井神社と庚申石碑(こうしんせきひ)がありました。祀られていた津長井の神も、強清水の生井の神や平清水の栄井の神と同じく井戸の神様です。
 庚申石碑には御神鏡のほかに「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿の石像があり、猿田彦尊ともいわれていました。

合清水(栄井神社)

合清水の古写真

 この小屋ではそうめんのほかにあん餅も有名だったようです。この小屋の右には「恩繋(おんつなぎ)」「孝繋(こうつなぎ)」と呼ばれる不動明王の36童子の銅像があったそうです。*¹ また、狩籠・平清水と同じく井戸の神様が祀られた栄井神社があります。
 栄井神社の近くには湧き水があり、「ハンド鉢」と呼ばれる自然石に流れていました。これを飲み水・風呂水・トイレの清掃に使われた後、玉川へ流れていきました。玉川は立谷沢に流れ込み、最上川へ合流します。小屋の裏には大雪渓があり、その雪解け水は小屋の台所を経由して合清水沢に流れていきました。合清水は笹川に流れ込んで、赤川に合流します。このようにして合清水小屋は最上川水系と赤川水系の「分水嶺」に建っていたということです。

「合清水」の由来

 江戸時代の文書には「業清水」とも書かれているこの小屋の名前の由来は二説あり、「人間の業を清水で洗い落とす」とする説と「登り下りの合い清水」といって、玄海口(西川町)から月山を越え羽黒山に向かう道と手向口から月山に向かう道が、ちょうど落ち合う場所にあるためという説なのだそうです。

馬止め

 また合清水は「馬止め、駒止め」と呼ばれました。小屋は「一名馬返し小屋」とも。小屋裏の大雪渓を馬が登れなかったからとも、馬方が日暮れ前に麓におりなければならなかったともいわれます(注2)。馬を野口からここまで貸す便があったそうです。ここで、『羽黒山から月山への道にはいくつもの掛け小屋が建っていたという話①』で引用した曾良の日記を見てみましょう。

六日 天気吉。登山。三リ、強清水。二リ、平清水。二リ、高清。是迄馬足叶 。道人家、小ヤガケ也。弥陀原(中食ス。是よりフダラ、ニゴリ沢・御浜ナドヽ云ヘカケル也。難所成。こや有)御田有。行者戻リ、こや有。申ノ上尅、月山ニ至。(中略)
七日 湯殿へ趣。(中略) 昼時分、月山ニ帰ル。昼食シテ下向ス。強清水迄光明坊より弁当持せ、サカ迎せラル。及暮、南谷ニ帰。甚労ル。

『曾良旅日記』河合曾良

 平清水から弥陀原(弥陀ヶ原)までの間にある「高清」という地名が合清水だと考えられ、「是迄馬足叶」とあるように、馬の足で行くことが叶ったのは合清水までと読み取ることができます。つまり、馬止めの役割を果たしたのは写真が撮影された昭和初期だけの話ではなく、少なくとも江戸時代からあったのではないでしょうか。

脚注・参考

脚注
(注1) 弘法大師(こうぼうだいし):真言宗を開いた空海のこと。かつて出羽三山は独自の山岳信仰だった。しかし江戸時代、修験道法度が制定されて当時の羽黒山の別当・天宥(てんゆう)が羽黒山と月山は天台宗に改め、湯殿山は真言宗となった。現在も湯殿山の開山は弘法大師だとしている寺がある。

(注2) 岩鼻通明氏の見解*²によれば、先述のようにその先の道の関係で馬は厳しかったかもしれないことや、霊山ということでここまでのみ動物の同伴が許されたかもしれないなど、様々な理由が考えられるという。

参考
*¹『三山雅集』,東水 撰, 1710
*² 出羽三山歴史講座第2回『奥の細道 曾良旅日記の謎』質疑応答より, 2023
『曾良旅日記』,河合曾良, 1689~1691