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(短編ふう)痕跡は消せるか?

〈大〉の方へレバーを押した。
これで全て終わりだ。
痕跡は一切残していない。
はず、だ。
排水口へ液体が渦を巻いて吸い込まれていくのをじっくりと観察する。
流れ切った後、透明な水がゆっくりと再び溜まっていく。
そこに何もまぎれている様子はない。
全てはすっかり流れ切ったようだ。
給水タンクの上の手洗いも確かめる。頭を垂れる姿に突き出た蛇口から水が補給され続けている。濁りのない水だ。
盥部分にも痕跡は見当たらない。
問題ない。

ん? 待てよ? 自分は一体、何を流す必要があったのだったか?
…まあいい。何も痕跡は残っていない。

ドアを開ける。
踏み出す前に部屋の様子を注意深く探る。
そもそもここへ来たときの痕跡が何かしら残ってしまっているのではないか?
床に、歩いてきた痕跡はないか?
床の様子に隈なく目を凝らす。
あのあたり、絨毯の毛先が少し不自然に寝てはいないか?

――ふいに目が覚めた。

スマホを探りあててみると、まだ、2時を少し過ぎた真夜中だ。
近頃、こうして夜中に起きてしまい、その後、しばらく眠れないことがよくある。

どうしてこんな夢をみたろう?
まるで犯罪トリックの仕上げをしているような気分だった。
見逃しはないか?という不安と、完璧だ、という自信が交錯した高ぶり。

意識できていないところで、こころが変調しているのだろうか?

こ、ん、せ、き、を、け、そ、う、と、す、る、ゆ、め、を、み、た。
(痕跡を消そうとする夢をみた。)
な、ん、の、あ、ん、じ、?
(何の暗示?)

手にしたままのスマホに打ち込む。

たちまち答えが生成されていく。

『夢は個々の文脈や感情に基づいて解釈されねばなりませんが、一般的に、〈痕跡を消そうとする夢〉は過去の出来事からの解放を求める心理的な反映とされています。この夢は、過去の過ちや失敗、トラウマからの解放を望んでおり、自分自身をリセットしたいと思っている可能性があります。』

文章の巧みさに驚く。
遠くのデータセンターでAIが深夜も稼働しているのだ。
しかし、この回答は夢の中の気分に当たらない。
完全犯罪を遂げようとする男は、後悔なんてしないだろう。

再度、打ち込む。

(過去を誤ったとは思っていない。)

瞬く間に生成されていく次の文章。

『リセットが必要であると感じる理由は、過去の出来事や状況から学び、前に進むための新しい方向性や機会を求めているからかもしれません。また、誤ったと感じていない場合でも、過去の痕跡を消すことで心の軽さや新たな始まりを感じることができるかもしれません。それぞれの人にとって、リセットや過去の痕跡を消すことは、成長や前進の一環として重要なステップです。』

原理からすれば、記憶した膨大なテキストから類似文脈を選び出し、結びつきの高い単語をその度合いの高い順に並べて返しているようなものだと聞いたことがある。もちろん、これは単純化しすぎなのだろう。
しかし、ある程度そんな仕掛けだとすれば、痕跡、消す、夢、意味、などの単語から、総当たり的にデータ空間を飛翔し、フロイトやユング、占い関連の文脈にたどり着き、結びつきの強い語順に並べて文章に生成する、という作業を超高速でしているという解釈になりそうだ。
そして、痕跡を消す夢の解釈をこれ程スムーズにAIが生成できるのは、痕跡を消す夢を解釈した研究や自分と同じようにそれを見た人間がそこら中にいるということなのに違いない。

ひとは、所詮、似た者同士なのだ、と思えば、深夜の孤独も薄れた。

通勤に使う路の端を定位置にしている見かけアラフォーの女性占い師がいる。
もう少し季節がうつると桜が美しい並木道だ。
わりと人通りの多い通りなので、こんな人目のあるところで、占ってもらいたい客がいるだろうか?といつも思う。
実際、客のいるところは見たことがない。
客が来そうか、来そうもないか、それを見通せない占い師は、いつもポツリと卓を置いて座っている。
彼女なら、この夢をどう占うだろうか?
興味が湧くが、あそこで衆目の中、彼女の対面に座るのはやはり恥ずかしすぎる。
…。

――今度はスマホのアラームで目が覚めた。

いつのまにか、また、眠ったらしい。
2度目の睡眠は、起き上がるのがひときわつらいが、今日は出勤しなければならない。

早朝の通勤列車は、比較的空いていたが、空席はないので隣の乗客と肩をぶつけないようにしてつり革に揺られる。
乗客のほとんどがスマホを見ている。

ふと気になって、AIに訊いてみる。

(ネット上の痕跡を完全に消すことは可能?)

『ネット上の痕跡を完全に消すことは難しいですが、以下の方法で最小限にすることができます。
1. 個人情報の…
2. 検索エンジンから…
3. …

……但し、完全に消すことは不可能であり、一部の情報は既に他の人や組織によってアーカイブされている可能性があります。』

ん?ちょっと待て。

(それら痕跡は、生成AIの学習にも使われている?)

『はい。生成AIは様々な分野を学習しています。』

自分の中のAIへの心証が変わっていく。…

(私の痕跡も?)

AIはこちらの変化にはまるで気づかない様子で、軽快に文章を生成する。

『はい。あなたのオンライン上の痕跡も、一部がAIの学習に使われている可能性があります。例えば……』
いくつもの例が文章に生成されていく。

(君のこの回答にも?)

『はい。私の学習データは、私のトレーニングに使用されるために収集された様々なテキストデータから生成されています。ウェブ上で公開された文書、書籍、ニュース記事、会話ログなどが含まれます。つまり、私が提供する回答は、それらのデータから学習した結果です。あなたの痕跡も反映されている可能性があります。但し、個人を特定するために使用されることはありません。』

砂漠で迷った男が前方に足跡を見つけ、救われた思いでたどっていったら、一周回って自分の足跡だと気づいた。
たぶん、今の自分はそんな顔をしている。

やはり帰りに寄ってみようか。
彼女が今日もポツンといれば、思い切って占ってもらおう。
自分は、痕跡を消せるか?

―了ー

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眠れない夜に

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