旅をする人

 その人とは、深夜、新宿のクラブで出会った。

 地上の入口から地下へとつづく階段を降りて行くと、やっとクラブの入口にたどり着く。受付にチケット見せて入場料を払い、重く厚い木製のドアを開く。通路を右に曲がると、バーカウンターと小さなテーブル席が2つ。カウンターの真上にあるダンスフロアから重低音が響くたびに、壁の棚に置かれたグラスや瓶が小刻みに震える。
 唇と耳が触れ合うくらいに近づかなければ声が聞きとれないほどの音を気にする様子もなく、カウンターの端に座っている人がいた。「待ち合わせかな」と思いつつ、注文したジン・ライムを受け取り、日常を忘れて音を浴びるため、僕はフロアに続く階段を登った。

 音楽に共鳴して勝手に動く身体を、おさえる理性もなければ、羞恥心もない。「会うときは、いつもクラブ」な友人・知人と挨拶を交わし、踊り、飲み、叫び、笑い、汗をかく。 

 2杯目のカクテルを注文するためにカウンターを訪れると、その人は席を移動し、壁際の小さな正方形のテーブル席に座っていた。テーブルにはドリンクもないし、手には携帯電話も持っていない。ただ、ひとりで座っていた。すっかりテンションが上がっていた僕は、その不思議な佇まいと好奇心に誘われ、あいている正面の席に座り、その人に声をかけた。

 会話の途中でお気に入りのリズムが聞こえてきたので、その人にひとこと告げ、僕はフロアに戻った。体力が続く限り、音楽に身を任せ、本能のままに踊る。そのとき僕の脳裏には、飛鳥了が、自分自身と不動明にデーモンを憑依させるために催した「サバト(夜宴)」が、そこで多くのヒッピーたちが、奏で、叩き、飲み、笑い、踊り狂っているシーンが浮かぶ。『デビルマン』誕生の瞬間のように、本能だけで動く自分。そんな自分を「本能だけで動く存在になろうとしてるんだな、キミは」と、観察し続けている理性。そんなもの、吹き飛んでしまえ。

 イベントも終盤に近づいたころ、友達に連れられたその人が、フロアにやって来た。音楽とアルコールと徹夜が融合したテンションで盛りあがる人々の狭間で、すこし居心地が悪そうに身体を揺らしているその姿は、周囲にいる、どんな非日常的な装いの、派手な動きの、大声で笑いあう人たちよりも、僕には際立って見えた。

 トリを務めたオーガナイザーが、イベントの終了と謝辞と告知をのべ、フロアにいる人々から歓声が上がる。音楽はフェードアウトし、派手な色彩のライトは消え、白熱灯がフロアを照らしだす。モグラになっていた自分が、突然、白日の下に引きずり出されたような目のくらみ。視覚が戻ってくるにつれ、程よく闇に隠れていた世界が明確になっていく。サバトは終わり、日常が始まる。スタッフが機材の撤収をはじめたフロアで、僕はふたたび、その人に声をかけた。

 翌週末の晴れた午後、僕はその人と喫茶店に行った。

 初めて降りた駅の改札前で合流し、喫茶店を目指して歩く。その人が行きたいといった喫茶店は、古い木造家屋を改装した建物の二階にあった。階段を登って店内に入り、窓際の席に座って、コーヒーを2つ注文した。ガラス越しの春の陽射しを浴びながら、僕たちは気ままにお互いの過去と現在を共有した。店内にいる飼いネコを目で追い、窓からの景色を眺め、コーヒーを飲みながら、少しも急ぐことなく。

 会話が一段落したタイミングで、僕は数瞬、左側にある窓の外を眺めた。そして視線を正面に戻したとき、異変に気がついた。椅子に座ったその人は、軽くうつむいたまま、とまっていた。

 眼は机の一点を見ているようで、どこも見ていない。そんな風に見える。表情からは感情がわからない。穏やかな印象も手伝ってか、瞑想をしているようにも感じられる。でも、目を開けたまま?
 
 微動だにしないその人に「どうしたの?」と声をかけようとした。けれど、思い直して、やめた。なんとなく「邪魔しちゃいけない」と思った。そして僕は仕事のことを考えたり、窓の外にある空や町並みを眺めたり、今日の会話を思い返したりした。

 5分か、10分か。あるいはその間か。
 正確な時間は忘れてしまったけれど、コーヒーを飲み干しそうになる少し前に、その人は、かえってきた。眼にゆっくりと光が宿ったあと、すこしぼんやりとした眼差しで顔を上げ、右を見て、左を見て、机の上に置かれたコーヒーカップを見て、最後に正面にいる僕を見た。やっぱり「どこかに行っていたんだ」と思った。こういうとき、むかえる側は、なんていえばいいんだろう。自分の中のページをめくる。

 「えーと…… おかえり?」

 その人は僕を見て、静かに微笑んだ。

 「考えごとしてた?」と問うと「ときどきこういう感じになる」という。僕は好奇心から「そのときの感じを教えてほしい」とお願いしてみた。 
 少し考える様子を見せ、その人はゆっくりと話してくれた。
 
 「水の中にゆっくり沈んでいく、が、イメージとしては一番近いかなあ」

 「水の中って、音は聞こえるけど小さくて、遠いところから呼びかけられてるみたいになるでしょ。そんな感じ。で、底の方から泡があがってくるんだけど」

 「その泡の中には、いろんなものが入ってる。小さいころに見た風景とか、毎日使ってる道具とか、友達の笑顔とか、描いてみたいアイディアとか」

 「その泡って、つかめたりする?」

 「ほとんど見てるだけ。ゆっくり上がっていく泡も、はやく上がっていく泡もあって。前に一度つかもうとしたけど、あんまり手が動かなくて届かなかった。だから今は見てるだけ」

 「こっちに戻ってくるときは?」

 「沈むのとは反対に、ゆっくり上に浮かんでく。もうここはいいかな、って思うと、浮かんでく。水の中っていったけど、本当の水の中じゃないから息はくるしくないし、ずっといられる感じ。水の上に顔が出たら、こっちの世界」

 水の中には、自分の意志で入れるときもあれば、気づいたら入っているときもある、とのこと。

 「普通に生活していて突然そのときが訪れたら、いろいろ危ないんじゃないかな」と思いつつ、僕は、素敵な童話を聞き終えたような気持ちになっていた。

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