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ビヨンド

 目次

 どうして人は、夕暮れどきに歌を歌うのだろう。
 少しだけ傾きだした陽光に、帰途の気配を漂わせはじめる人々の姿を見やって、レースラインはその白い睫毛を淡く伏せた。喫茶店のテラス席から見下ろせる、住宅街へと繋がった小路に見えるのは、仕事終わりで少し疲れ顔の者、買い物帰りの親子、談笑を交えて歩く若者たち……
 ——そして、路上の端で楽器の用意をする、一人の歌うたいの姿だった。
 レースラインは目深に被った麦わら帽子を指先で少しばかり上げると、眼下の歌うたいをぼんやりと見つめた。地面へ小さな丸椅子を置き、その上に軽く脚を組んで腰掛けた男性は、音を確かめるように抱えたフォークギターの弦を弾いている。レースラインは休日になるとよくこの喫茶店に訪れるものだったが、小路にしては人通りが多いからだろうか、歌うたいたちもまた、よくあの場所で歌を歌っているようだった。
 屋根付きのテラスに、橙色を帯びた斜陽が差し込む。小さな円卓の中心に飾られているドクダミの造花が、光を受けてこがね色の輪郭を保っていた。
 レースラインは視線を路上の歌うたいから外して、卓に乗っている陶器杯へと移す。その中ではなんの変哲もない琥珀色の珈琲が、ほとんど口も付けられずに佇んでいた。最早この席を借りる理由になり果てたそれを、やはり彼女は見つめるばかりで飲もうとする仕草すら見せずに、自分から少し遠ざける。琥珀の水面に照り返る、夕暮れの光が眩しい。歌はまだ、聴こえてはこなかった。
 彼女は足元の荷物入れに仕舞っていた手提げ籠をなんとはなしに持ち上げて、膝の上に乗せる。もう何も入ってはいないその籠からは、しかし未だ少しだけ花の香りが浮かび上がっていたかもしれない。レースラインは音を立てずにそっと息を吐いた。それから、心の中で花の輪郭をなぞるようにして、旅立っていった者たちの姿を想う。
 ——この間、十四になったばかりのエタンセルが好きだった花は月下美人。母親が好きな花なのだと彼はよく花屋の前で立ち止まっていた。双子のロートゥスとヴィルキオは蓮華草と衝羽根朝顔。それらは自分たちの名前の元となった花に似ていて、しかしそれよりもよく見かけることができるから好きだと、そう彼らは話していた。若いが好みに味のあるアイディオンはといえば、やはり彼らしく仙人掌が自身の気に入りだった。不毛な土地に生き、時折そびえ立ってすらいるそれらを眺めながら、彼は仙人掌は男らしくて好い、と笑っていた。パトリは白百合の花のことを、一人になると時折想い出すのだと語っていた。病気がちだった妹が亡くなる直前まで、その傍らに咲いていた花だからと。死の間際の香りが白百合だったら、どんなに心安らぐものだろう、と。
 そして、そんな彼らは皆、前回の討伐指令での出陣にて命を落とした。
 死んだのだ。花の茎が折れるように呆気なく、けれどもそれよりもずっと惨い姿で、生命を踏みにじられるようにして。
 戦場の中で、誰かに看取ってもらえることなど皆無に等しい。そしてまた、死にゆく者の遺言を聴くことも。戦いに身を投じるとはそういうことだ。世回りの騎士とはそういうものだ。それが、命を賭すということだ。
 だから、自分は誰の遺言を聴くことも叶わなかった。五人の中の誰も。それはもちろん、魔獣を斬っていたからである。部下の、一人の命が失われていく中、自分は耳に響く祖父の声のままに別の命を奪い、奪い、奪っていた。ただひたすらに、狂ったように殺し続けていた。その場が紅水晶と黄金砂の荒野となるまで。魔獣を殺すこと。それが自分の、さだめだからだ。
 魔獣を殺さねば。すべての魔獣を。そのための剣も、そのための力も有る。殺さねばならない。たそがれに呑まれ、黄昏のしもべと化した存在を。命の安寧に仇をなし続ける存在を。すべてを奪い、壊し、喰らう存在を。すべてを奪い、壊し、喰らった存在を。わたしは誓ったのだから。祖父の前で頭を垂れ、必ず、と。この自分の〝イシ〟に。魂の石と、そこに宿るわが意志に。わたしの内なるものたちに。
 そう、自分たちは魔獣と戦っている。
 そのために、血が流れる。犠牲が出る。人が死ぬ。倒れた者は、天命が尽きて死ぬのではない。戦場の中で、運の命が尽きるから死ぬのだ。
 魔獣と対峙する我々の運の命は、その糸は日頃の鍛錬やくぐってきた死線の中で、或る者はよりしなやかに、或る者はより頑丈にもなる。けれども、誰しも完璧にはなれない。無敵の存在など、伝承の中の幻想に過ぎないのだ。運の糸は迷いによって絡まり、恐怖によってひどく張り詰め、驕りによってはほつれを生み出す。魔獣は黄昏のしもべだ。その隙をそう簡単に見逃すほど易い存在ではない。それを見逃す心が有るのなら、自身のたそがれに呑まれ、魔獣などには成り果ててはいないはずだった。
 いつ死ぬか分からないのだ。この世界の誰しも。魔獣と戦う存在として騎士や兵士の名を背負うのならば、更に。その道を自ら選んだのか、或いは選ばざるを得なかったのか、そんなことは知りようもないが、剣を取る者が並ぶ焼け野原には、いつもただ幾つかの事実が転がっているばかりである。今日立っているか、倒れているか。勝ったか、負けたか。生きているか、死んでいるか。それは自分か、それとも魔獣か。わたしか、おまえか。
 いつ死ぬか分からない。仲間たちも、もちろん、この自分も。それはきっと、此処に在る限り。この世界に生まれて、この道に立っている限り。此処は、そういう場所なのだ。心で浅く息を吐く。覚悟と諦めはどこか、似たようなにおいをしているような気がした。では自分のこの想いは、覚悟と諦め、どちらの名で呼ぶのがより心に近しい輪郭を成してくれるのだろう。
 ——ふと、弦の弾かれる音がした。
 それは今まで不規則に鳴らされていたものとは明らかに異なり、奏者のまなざしが他者には見えない五線譜を見つめたために生まれた一音であった。レースラインは少しはっとして、此処が喫茶店の一席であることに気が付いた。当たり前だがそんな彼女に構うこともなく、歌うたいの指先からは次々に音が生み出され、それは同時に楽の音のかたちへと編まれていった。
 レースラインが歌のはじまりの気配に、歌うたいの方へと視線を向けた。それと同じく、小路を行く人々の中にもまた、顔を音楽の方へと向ける者、そして思わず足を止める者がまばらにだが存在しているようだった。遠くの方で、夕暮れの訪れを告げる鐘の音が鳴っている。少し、風が吹いた。斜陽の気配を色濃く宿す乾いた風に、冷めた珈琲と花の残り香が乗る。
 ややあって、鐘の音が止む。残響が辺りにさざめき、わけもなく人々の間に静寂が広がった。
 それをあえて待っていたかのように前奏が終わって、いよいよ歌うたいが声を発した。それは、驚くほどにやさしい歌声だった。差し込むこのこがね色の陽光や、冷めきった琥珀色の水面、そして風が吹くと気配を増す花の香りよりも、ずっと、ひどく。けれども、知らない歌だ。当たり前である。曲名を知っている歌の方が、自分には遙かに少ないのだから。ただ、現代語の歌ではないことだけは分かった。古代語の、遠い時代の歌だった。
 また少し、風が吹く。
 ドクダミの造花が揺れると共に、レースラインは頭に被っている麦わら帽子が軽くなったのを感じた。その感覚に彼女が、しまった、と思ったときにはもう遅く、麦わら帽子はふわりと浮かび、風に流されるようにしてテラス席の中を舞う。レースラインは振り返りながら、しかし未だ先ほどの思考の続きを胸の中だけで呟いていた。今のが戦場だったら自分は死んでいたな、と。
 テラス席の客はまばらだ。レースラインは床に落ちたところで拾いに行こうと帽子のことを眺めていたが、その軌道上にいた客の一人が自身の頭上を通りかかった帽子に気付いて、それをひょいと掴み取った。風に乗って下から聴こえてくる歌声が、一瞬遠のいて感じる。帽子を持つその手の主に、その横顔に、自分は見憶えがあったからだ。
 相手が麦わら帽子を片手に、持ち主を探して振り返る。レースラインは思わず息を洩らすようにして、振り返った人物の名を呟いた。
「……フィデリオ殿……」
「……レン隊長?」
 そして、彼女に名を呼ばれた相手もまた、こちらの姿を目にした瞬間、その澄んだ青の瞳を丸く見開いたものだった。レースラインは、未だ口を付けてもいない珈琲が喉の奥でむせ返りそうである。
 フィデリオ・アウシャ。茶髪に青い瞳をした、年の頃はレースラインと同じくらいか、少し下程度の青年である。彼はレースラインの属する〝世回り〟隊とはまた別の、未踏地帯の調査を主とする部隊に所属しているものの、しかして源泉は同じところとする〈ソリスオルトス王國騎士団〉の騎士の一人である。位はレースラインと同じく小隊長。髪の色と似て、陽光に輝く麦畑のように朗らかな人柄の持ち主である彼と、そんな彼が率いる小部隊の人間は、厭われがちなレースラインをそうは扱わない数少ない存在の一つであった。
「この帽子……」
「ええ……まあ、お察しの通りです、隊長殿」
 麦わら帽子を手に言葉で首を傾げたフィデリオに、レースラインは睫毛を伏せるように微笑んでそう答える。
 彼女は、彼の目を見なかった。無論、レースラインも彼と彼の部隊の者たちを厭ってはいなかったし、好ましくも思っているのだが、今日はあまり騎士団の人間に見付かりたくなかったのだ。同じ騎士団に身を置く者同士として、こういった邂逅は喜ぶべきところではあるのだろうが、しかし。
 そもそも、彼が掴み取ったあの麦わら帽子も、そのためのものだった。この白い髪を纏めて仕舞ってしまうための。服装もそうだ。今、城下町で最も多く着られている、流行りかつ目立ちすぎない、程々に凡庸な型で長袖のエプロン・ドレス。その下には分厚い生地の洋袴。右手には革の手袋。自身の軍刀は言わずもがな今日も持ち歩いているが、今は卓に立て掛けてある日傘の中へと仕込んであった。日傘は通常のものよりも少しばかり弧を描いている。雑踏に紛れられる格好だ。そして、装備に不安が残るところだが、街中に魔獣が出た場合、いつでも戦うこと自体はできる格好であった。
 何故、知り合いに見付かりたくないか、と問われれば、その明確な答えは導き出せない。ただ、この花を入れるための籠を持っているときは、誰にも会いたくなかったのだ。おそらく、きっと、自分にこんなことをする資格はないからであろう。魔獣と化した部下を迷いなく斬り捨てられる自分が、戦場の中で死んでいった部下たちに花を手向けるなど。休日の度にこんなことを続ける自分の姿は、己が普段発する、笑えない冗談よりずっと笑えない。わたしが神なら、反吐を吐く行いに等しかった。
 レースラインは背後を振り返った体勢のまま、卓に片手を押し付けてそこに力を込めた。自身の動揺をそちらへと持っていくためである。そして、少し冷静になって思う。そうだ、自分の部下に出くわさなかっただけ幸いなのかもしれない。こうなっては最早、運が良いのか悪いのか、そのどちらとも言い切れなかったが。
 せっかく掴み取ってもらったのだ、ひとまずそれを受け取ろうとレースラインはその腰を浮かせようとする。だが、それよりも早くフィデリオが席を立ち、レースラインの方へと麦わら帽子を差し出した。
「——ありがとうございます」
「はは、いえ」
 困ったように少しだけ笑んでそれを受け取ったレースラインは、帽子の中に押し込めるために緩く夜会巻きにしていた髪が段々と形崩れしていくのを感じて、再びその麦わら帽子を被ろうとする。けれどもその瞬間にフィデリオの瞳と、ぱ、と不意に目が合って、流石に失礼に当たると思い直した。
「レン隊長もお休みだったんですね」
「半日だけですけれどね。この後しばらく厳しい鍛錬が続くから、なんとか休みをもぎ取ってきたんです」
「なるほど……何か大きな討伐指令が?」
「ああいや、規模はそうでもなくて。ただ討伐地が少々おかしな気候の場所なんですよ」
 緩く手を振ってそのように答えながら、レースラインは膝の上に乗った空の籠を隠すように、もう片方の手に有る麦わら帽子でそれを覆った。そうしてフィデリオと幾つか言葉を交わしていると、ふと別の気配を感じて彼女は視線をそちらの方へと走らせる。フィデリオも軽く背後を振り返った。
「失礼——新しいものとお取り替え致しましょうか?」
 卓のそばまでやってきてそう発したのは、喫茶店の給仕だった。言われて、レースラインは自分から遠ざけて置いたままの、一口も飲んでいない珈琲を見やる。
「何かご注文なさいますか?」
 続けざまに、給仕は笑顔を崩すことなくそう問うた。今度はレースラインだけでなく、フィデリオにも言葉が向けられているようだった。給仕の柔らかい声の中に、しかしそれとない催促を感じて、レースラインは心の中で笑ってかぶりを振る。まあ、誰が見ても自分は嫌な客だろう。安い珈琲一杯で長居する上、それには口も付けないのだから。問いかけられているのを見るに、長居自体はおそらくフィデリオもしているのだろうが。
「……では、おすすめを飲み物と合わせて二つずつ頂けますか」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
 給仕の視線に根負けしてそう注文を出せば、彼は満足そうに笑んで、冷めた珈琲を下げたのちに去っていった。レースラインは指先でこめかみを緩く叩いて、喉の奥だけで申し訳なさそうに笑った。もちろん、フィデリオに向けてである。彼女は手袋をはめた右手で自身の向かいの席を示すと、柔くかぶりを振った。
「すまない、負けてしまった。フィデリオ殿はもう何か召し上がった?」
「いえ、私も飲み物一杯で親友と長話をしていたところなんですよ。向こうは大分前に帰ったんですけど——彼が帰った後、なんとなくさっきの席で音楽を聴いていて」
「ああ……路上の?」
 促されるままに向かいの席に腰掛けたフィデリオは、レースラインの問いに頷いて路上の歌うたいの方へと顔を向けた。レースラインはと言えば、彼の言葉にその存在を思い出して、今になってやっと歌うたいの声が耳に戻ってきたところである。
 歌が聴こえる。フィデリオがそうしているから、レースラインもまた奏でられる歌に耳を傾けてみた。
 夕暮れによく馴染む歌声だと、そう思うのと同時に、歌ではない気配を歌うたいの方から感じて、レースラインはもう少し目を凝らしてみる。歌うたいの指先が微かに光っているようだった。それは差し込む夕陽のためではない。ふわりと、眼下で光の粉が舞っていた。それを目にして、ああ、借りものの力か、とレースラインは納得する。
 歌うたいは、去りゆく今日の中で歌っている。それと同じくらい自然に、彼は借りものの力を遣っているのだ。戦いのためではなく、それはおそらく、自分の心のために。彼はきっと、そうした方が楽しいから、自身の借りものの力を遣っているのだろう。自分にとっても、自身の客にとっても。
 路上で舞う光の粒子が、陽の色と相まって眩しい。レースラインは歌うたいから視線を逸らして、顔を卓上の方へと戻した。そうしてみれば、視界の端に静かな足取りで飲み物を運んでくる給仕が映って、彼女は彼が近付いてきたところで軽く会釈をした。ほとんど音を立てず、卓の上に受け皿と陶器の杯が置かれる。胡桃色の水面から、ふわりと甘い香りが浮かび上がった。なるほど、紛うことなきココアである。レースラインはじっとそれを見つめて、視線を少しだけ上げた。
 建物の間から差し込む斜陽の光を受けて、ドクダミの造花よりも鮮やかにこがね色の輪郭を保っている青年の茶髪が、もうほとんど金髪に近く見える。青よりも青く澄んだ彼の瞳は、一心に歌うたいの方へと向けられており、レースラインは相も変わらず真っ直ぐに見つめるものだと、自身の胸の中だけで目を伏せた。分からない。どうして、そういう目で在り続けられるのだろう。目の前の彼も、自分の部下たちも、そして、以前出会った失せ物探しの少年も。こんな世界に生まれて落ちて、しかし未だ。
 レースラインはそっと借りものの力を遣って、音が立たないように受け皿と陶器の杯を持ち上げた。運ばれてきたのがココアで良かったな、と彼女は思う。自分の目が映らずに済むから。
 ふと、フィデリオが視線を卓の方へと戻した。そしてそこに在るココアを目にすると、彼はその甘い香りに少しだけ表情を和らげたようだった。そんなフィデリオの様子を睫毛の隙間から見やりながら、レースラインは持ち上げたココアに口を付ける。歌はどうやら間奏に入ったらしかった。
「……この歌、ご存知なの?」
 そう訊きながら、レースラインは卓の上にココアを置いた。舌の上がなんとなく甘いような、そうでもないような気がする。重くて熱い湯。そんな感覚だ。ココアを飲んでいたフィデリオが、こちらの問いに顔を上げる。それからその青い瞳をどこか楽しげに細めて頷いた。
「〝ビヨンド〟」
「ビヨンド?」
「はい。遠い昔の歌で……おそらく、未踏の地へ向かう者たちを後押しするための行進曲——のような役割を担っていたのでは、と考えられている歌です」
「行進曲? そうは聴こえないけれど……」
 言って、レースラインはちらりと路上の方へと視線を落とした。
 歌うたいの奏でているそれは行進曲のように、完璧に律動的というわけではなく、ところどころゆっくりと歩くような部分がある上、意味もなくその場で一回転して見せるような音もあった。しかもその部分は、いつも同じ場所というわけでもなさそうである。これが行進のときに流れていたら、人と人はぶつかって転ぶだろうな、とレースラインは音楽にほとんど明るくない頭で、しかしぼんやりと思った。
「ああ、たぶん、彼なりに脚色してるんですよ」
「……なるほど、人によって演奏の仕方が変わるわけですか。まあ、それもそうか……」
「歌詞は流石に手を加えていないみたいですけどね」
「そういえば、同じ言葉が何度か出てきているような気がします。ええと……」
 少し唸って、レースラインは眼下の方から聴こえてきた古代語を、聴き取れた部分だけ途切れ途切れに発する。彼女の不得手な古代語の歌詞を耳にして、けれども心得たような表情を浮かべたフィデリオは、光の差してくる方を少しだけ見やって確かめるように言葉を紡いだ。
「——汝の旅路に光在れ」
 ですね、とレースラインの方を見て微笑んだ彼に、彼女はその睫毛を伏せるようにして曖昧に笑った。
 そして、この國はほんとうにその言葉が好きだな、と内心毒づく。それは子どもが生まれた際の祝福の言葉。そして人が死ぬときの見送りの言葉でもある。後者はもう何度発したか数えるのも嫌になった。夜明けと共に在る、汝らの再びの旅路に、どうか光が在らんことを。
 この國は、はじまりと終わりにそればかりを謳う。そればかりをねがっている。今だって、路上の歌うたいは、今日の黄昏にそんなねがいの歌を奏でている。
「どうして……」
 呟けば、フィデリオが首を傾げた。レースラインは睫毛を上げて、その勿忘草色の瞳を彼の澄んだ紺碧へと向ける。
「フィデリオ殿。——どうして人は、夕暮れどきに歌を歌うのだろう?」
 そう発するレースラインの声は、きわめて純粋な問いの姿を象っていた。
 歌うたいの歌声は、未だひどくやさしげなかたちを保って、過ぎゆく人々と沈みゆく太陽の方へと向かい流れ続けている。彼女の質問に、ああ、とフィデリオは頷きながら言葉を発した。
「——確かに近頃、夕方、道端で誰かが歌っていることが多いですよね」
 レースラインもまた頷いて、同意を示す。フィデリオがその瞳を歌うたいの方へと向け、つられるようにレースラインもそちらへと顔を向けた。斜陽の熱が、先ほどよりも増している。その光のせいか、フィデリオの青い水面がきらりと輝いたように見えた。レースラインは彼の視線を追うのはやめて、その横顔を自身の視界に映す。細められた彼の目から、笑みが零れているのだけは確かだった。
「歌はいつ聴いても素敵だと私は思うので、つい立ち止まって聴いてしまうんですが……親友が音楽好きだから、知らず知らず影響を受けてるのかも」
「親友……先ほど会っていたという?」
「そう。彼はよく鼻歌を歌うんですが、それはもういろんな曲を知っているんで、僕も面白くてなんとはなしに聴いていると——或る日気付いたんです」
 そう語るフィデリオは、自分の話をしているわけでもないのにどこか得意げで、レースラインの方に視線を戻したときの表情もまた、卓上のココアを見付けたときよりも柔らかく砕けていた。レースラインはそれをどこか遠いものを見つめるような目で眺めながら、意味もなくココアを持ち上げた。音もなく。そして、その向こうで彼は笑った。さながら、聴こえてくる歌声のようにやさしく。
「夕方の空気って、どんな曲でもなんとなく全部包んで、柔らかくしてくれるんですよ」
 レースラインは目を細める。眩しかったのだ。少し前に自分から遠ざけた珈琲の、あの橙色の照り返しよりもずっと。それもそうだ。夕暮れの陽が、いっとうまばゆく色濃い時間になったのだから。輪郭を彩るこがね色はいよいよ薔薇色の赤みを帯びて、まるで金の装身具を太陽に近付けたかのようである。レースラインは言葉を返す代わりに、手に持ったココアに口を付けた。
「ほら、朝や夜って、或る意味では時間帯としてはっきりと整理されてるというか、人それぞれに〝こういう曲が似合う時間〟っていうのがあるでしょう。でも、夕方だと、それが曖昧になる気がするんです」
 青い瞳に、金色の火が浮かんで見えた。
「——どんな歌も許してくれる」
 歌うたいの生み出す光が、此処まで昇ってこなくてよかったと、レースラインは細くしたまなざしの底で思う。喉の奥から息を洩らすように笑って、彼女はその右手をひらりと振って路上の方を示した。
「……まさに今か。城下町の小路で行進曲。汝の旅路に光在れ」
「ああ、はは、確かに。きっとそうです」
「考えてみれば可笑しな組み合わせだが、フィデリオ殿の言葉を聴くまでなんとも思いませんでしたよ」
「うん。だからみんな、黄昏どきに歌を歌ってみたくなるんじゃないかなあ」
 ひゅう、と、夜のにおいと温度を微かに含んだ風が二人の間を吹き抜ける。気が付けば、歌うたいの声は止み、響くのは曲の終わりへと向かう楽の音ばかりだった。フィデリオは少しだけはっとしたような表情を浮かべた後、なんとなく恥ずかしそうに首の裏を指先で掻く。
「どんな歌の、どんな美しさも許してくれる、夕方って大昔はそういう時間だったんだろうなあ、と私は思います」
 どことなく先ほどより顔を引き締めてそう発したフィデリオは、しかしすぐに緩くかぶりを振って、何を想い出したのか、可笑しさと楽しさがない交ぜになったような表情でくつりと笑った。
「……こうやって大昔のことを考えるのも親友の影響ですね。彼はトレジャーハンターなので」
「トレジャーハンター? ハンターと親友の騎士っていうのも、中々に珍しい気がするな」
「ふふ、そうかもしれませんね。でも、信頼してるんです」
「それを変とは思わないけれど。というか、妙に納得した。何しろ今は夕方ですからね」
 冗談めかして片目を瞑ってそう言えば、フィデリオはぱちりと瞬いた後、嬉しそうにその青色を細めた。レースラインは目を伏せるための理由を卓の上から持ち上げて、再びそれに口を付ける。自分の灼けた舌では最早味の良し悪しなど分からないが、そのココアが、大分ぬるくなってしまったことだけは分かった。
「あなたは?」
「——え」
 ふと、フィデリオにそう問いかけられて、胡桃色へと向けていた視線を思わず上へと持ち上げる。真っ直ぐな色と、音を立てるように目が合った。
「レン隊長は、どうして人は夕暮れどきに歌を歌うのだと思いますか?」
 音楽は終わっていた。レースラインは遣い続けていた借りものの力を指先からそっとほどくと、手にしていた受け皿と陶器杯を卓の上に置く。それがかたり、と音を立てたのと同じくして、レースラインは溜め息にも似たものを吐き出しながら、椅子の背もたれにぎしりと自分の身体を預けた。
「……夕暮れは、怖いからなあ……」
 赤々くなった斜陽の光を見やり、自分に聞こえるか聞こえないか程度の声でそう呟けば、レースラインのその声に重なるようにして、眼下の歌うたいが新たな楽の音を紡ぎはじめた。その音を聴いて、彼女は一瞬両目を瞑る。そしてどこか寂しげに小さく笑むと、
「私には分からない。ただ、そういう答えを導き出せるあなたは相変わらず素敵な人だと、そうは思うよ。だから私はあなたに訊いたんだ、フィデリオ殿」
 口説いているわけではないけれどね、とかぶりを振って、レースラインはひらひらと右の手のひらを振った。そうしてみて気が付くのは、ココアほどではないが柔らかに甘い香りの存在。それを感じる方へと緩やかに視線を滑らせれば、給仕が二人分のパンケーキを持って近付いてくるのが目に映って、そもそも料理を頼んでいたことを彼女はここで初めて思い出した。
 ことり、と目の前にパンケーキが差し出される。レースラインはそれを半ば冷えた瞳で見つめながら、その隣に置かれた銀小刀を手に取った。
「——許されると思うかい?」
 ふわりとやさしく香るパンケーキに刃を入れながら、誰に問うわけでもなくそう発する。向かい側で同じくパンケーキを切り分けている彼は、突き匙でその温かな生地の一つを取り上げながら、しかし視線は上げずにどこか微笑むようにして、
「ええ、きっと」
 と、だけ言った。
 レースラインはその言葉を口に含むようにして笑いを洩らし、それからパンケーキを口内へと放り込む。再び歌うたいの歌声が、すべてを許す夕暮れの中に響きはじめた。先ほどとは異なる編曲をしているようだが、それでも奏でられているのは、性懲りもなくまたビヨンドだ。
 汝の旅路に光在れ。
 この國は、はじまりと終わりにそればかりを謳う。そればかりをねがっている。今だって、路上の歌うたいは、今日の黄昏にそんなねがいの歌を奏でている。歌とは誰かのねがい。そして、ねがいとは、きっと誰かの歌だ。歌わずにはいられない。ねがわずにはいられないのだ。
 彼らも、そしてこのわたしだって。
 今、すべての歌が許されるというのなら、誰が赦さずとも、わたしはねがうだろう。
 戦場の中で倒れていった、彼らの旅路に光在れ、と。
 夜明けと共に在る、彼らの再びの旅路に、どうか光が在らんことを、と。
 ——どうか。


20190429
シリーズ:『たそがれの國』〈ごしきの金〉
※フィデリオくん(@hiroooose)をお借りしています!

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